建築家のヤカン

個人的覚え書き。UPは順不同!(汗)(ワタシは建築家でないです。。。)

『きみがくれた未来』~死者との

2010-12-29 | cinema foreign a-c
距離。

ザック・エフロン君を見るための、アイドル映画として見るべきなのかもしれない。(自分は彼について全然何も知らない。後から『ヘアスプレー』の、との文章を見て、ああそういえば、と)。
けれど自分は生者の間に死人の登場する映画としてこの映画を見た。
最近なら『ノルウェーの森』が、生者の間での死人の存在のことを扱っている。そしてそれに、納得しないものを感じていたから。
あるいはこの世の中での死者の位置づけということで言うならば、この映画を見ながら『ラブリー・ボーン』も連想した。

チョイキャラの顔が豪華である。
ママさんに、救命士男性。
どちらもバッチリ、場に華を添える。

死んでいる者と、一緒にいる者。
生者の世界に暮らしているけれど、死者と共にいる者。
自分が知る限り、最もラディカルにそれに相当するのは『ゆきゆきて、神軍』主キャラである。
『きみがくれた未来』本来のタイトル・ロールCHARLIE ST.CLOUD君もまた、死者と共に時を過ごす(CLOUDという姓が天上的。自分はこの映画で初めて聞いた)。
「墓場」を彼は、ホームグラウンドにしている。「墓守」の日々を暮らしている。
時には「死人」(かつての知人)と会話を交わすこともしている。
そして何より1人の死者との約束を、ずっと守り続けている。
日暮れの時刻、毎日必ず会いに行く。会う場所は、決まっている。森の中の同じ場所。会ってするのはキャッチボールである。
それを日課にしている。その「対面」時間を、自分の1日の中心にさえしているのではないか。
そういう暮らしを、5年ほども続けているらしい。

「側にいてくれないと、ひとりじゃ、自分がだんだん消えてなくなってしまいそうで怖いんだ」。森の中で弟サム君は、兄さんにすがるように言う。
このサム君の存在は、映画ならではである。「映画」なので、姿が見えているサム君が、果たしてチャーリー君の幻想なのか、それともそういう存在なのか、その点は、映画を見る者の判断に任されていると言ってよい。
とにかく物語上確実なのは、サム君がすでに生者ではないこと、死者であること、である。
そのサム君が、自分ひとりじゃ、自分の存在が消えてなくなりそうな感じがするのだと言う。
生きている者が共にいることだけが、死者の存在を消えぬものにするのだと。もし生者が共にいることをやめたなら、死んだ者の存在は薄まって、そしてどこかに消えてなくなってしまうのだと。
生きている者だけが、共に生きていることによって、支えることの出来る死者の存在。
チャーリー君が毎日必ず会いに行くことで、サム君の存在は確保されている。生きている者の生きている中での行動が、死者を存在させている。

アイドル映画には欠かせぬ、ヒロインの存在。
このヒロインも、映画ならではの不思議な存在と化す。半分「あの世」に足を踏み入れた状態で、半ゴーストの様なものとして墓場のチャーリー君の前に姿を持つに至ったらしい。しかも自分の状態(半死)を把握していない様子で犬の散歩に出かけようとする(現世的身体は海で遭難中)。
あの時のヒロインは、実体は何なのだろうか?「精神」だけが、形を持ったもの、と考えればよいのだろうか?

ヨットの場面といえば、『オルエットの方へ』が素晴らしかった。

「ComeFindMe」。
チャーリー君はヒロインの生存を確信する。
とすると、彼の前に現れたヒロインは「あの世の者」(ゴースト)として姿を見せたのではなくて、「半あの世の者」としての姿だったということになる。
なぜこの時、他の人々には見えずチャーリー君にだけ見える姿を、ヒロインは持つに至ったのか。やはり「半分あの世に足を踏み入れていたから」だろう。理屈の上からは、そう考えるより他無い。

難破したヒロインを発見したチャーリー君。
島のふたりの上に目も眩む、白くまばゆい光。
「光が見えたんだろ。みんな光を見るんだ。僕も見た」。
”その瞬間”光を見るのだと、その世界に踏み込んだことのあるチャーリー君は言う。だからこのショットを見て、”その光”が、この時ふたりを包んだのかと思った。
光は、その光ではなかった。
上空から救助にやって来た、ヘリが放った光だった。
「死」を物語る光ではなくて、ふたりを「生」に繋げる光だった。

「季節が巡ってくるたびに、死者との間はどんどん遠くなる。17で死んだ者は17歳のまま、20で死んだ者は二十歳のままだ」と『ノルウェーの森』は結論づけるようにして言う。
そうだろうか?
二十歳で死んだ者が二十歳のままだったとして、そして生者が年齢を重ねていくからといって、死者との距離は時と共に遠くなっていったりするものだろうか?
いや、むしろ、『ノルウェーの森』の世界では、死者との間でさえ、遠くなる、というのが正解だろう。
存在の薄さ。『トニー滝谷』でも語ろうとしていたのは、そのことだったと思うから。
本当は、月日が重なるに連れ、死者との間はより近しくなるというのが、正しいだろうと。『ブロークン・フラワーズ』を考えれば、すぐわかる。誰一人として変らぬこと。それはどちらに向かって歩いているのか、ということ。
みな同じ方向に向かって、歩いているのである。同じ方を目指して。一歩一歩、近づいていく。ひとつの点に向けて。
そして季節が巡ってくるから、死者との間が遠くなるのではない。
それ(死者との距離)を決めるのは、生者の行動である。
行動が、それを決める。時の流れでは、ない。

(ずっと兄弟だよね)「約束、するよ」。
チャーリー君は、今や姿の見えなくなった弟サム君に向かって、きっぱりそう言う。
生きている彼がそう選択する限り、ふたりはずっと兄弟だろう。
彼が生きているその中で、サム君と共にあることを選ぶ限り。
チャーリー君が生きていること。サム君と共に生きることを、決めていること。それが”今はなき”サム君の存在を、有らしめている。

締め括りショットはいかにもアイドルセイシュンものらしく、甘くかつサワヤカに。
正しきアイドル映画の路線を行くTheENDである。

 (CHARLIE ST.CLOUD/2010/BurrSTEERS/USA)