びえもカフェふくしま

「びえも」とはフランス語で「生と死」を意味するVie et mortをひらがな表記したものです。福島の死生学カフェです。

自分の感受性くらい

2017年05月17日 19時31分58秒 | 生について
大好きな、茨木のりこさんの詩です。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが
ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ



厳しいことばに背筋が伸びる。

自分への戒めに
頻繁に読み返しています。

人生の中で何度も訪れる分岐点は
自分の失敗だったり
誰かの悪意だったり
思わぬアクシデントだったり
しあわせなことばかりではないけれど

決めるのはぜんぶわたしです。

何を思い、どんな行動を取るか
根拠はわたしの中にあり
共有していない人が何を感じようと
それはわたしの人生とは関係ない。

これを読むと、イヤなことがあっても
フガー!!って蹴散らせる気がします。


『ヒカリノアトリエ』で桜井さんも歌っています。

過去は消えず
未来は読めず
不安が付きまとう
だけど明日を変えていくんなら今
今だけがここにある

中島みゆきさんも『宙船』で歌っています。

おまえが消えて喜ぶ者に
おまえのオールを任せるな

(これは元気は出ますが怖い歌ですね。)



今日は自分を励ましてみました。

vie et mort

いつだかわからないけど必ず死にます。
最近、死にたくないなと思います。
年齢のせいかな。
結局しあわせってことなんだろうな。

みなさんは自分の人生を好きですか?

死ぬまでは生きているので
どうせなら明日も笑顔で。


日々是好日

2017年05月15日 18時28分03秒 | 生について
以前このブログで書いたAさんとは別の
これまたスーパー認知症Bさんの話です。

その日、Bさんは眠れなかったんです。

「なんだか眠られないのよ。眠たいんだけどね」と話すBさん。
日が暮れてから、同じやりとりを十数回繰り返しています。
でも、さっき起きたことなど覚えていないBさんにとっては、これが初めてのSOSです。
眠いのに眠れないのはツライことです。
Bさんが眠れない原因はわかりません。

Bさんは気難しいタイプではなく、時間を伝えると「あらそう」とすぐに寝ようとする方です。
それでも眠れないのです。
しかたないので
「じゃあ起きていましょう」と
起きてもらうことにしました。
せっかく起きているんだし、おしゃべりでもしようと思ったのです。

でも、そうするとなぜか人ってあまのじゃくなもので「いやいや寝るわよ〜」となるわけですネ。
今度は「寝ます」「寝なくていいですよ」のやりとりになりました。

わたしはもともと夜型なので「ずっと一緒に起きていましょう」と誘いました。

Bさんのことが大好きなわたしは、一晩じゅうおしゃべりしても苦になりません。
しかしBさんは愛すべき『スーパー認知症』ですから、わたしのことは知らないのです。

知らない人と一晩じゅう一緒にいるなんてとても気持ち悪いことです。

でもBさんには気持ち悪がっている様子はありませんでした。
ちょっと不思議に思って「そういえば、わたしのこと知ってるんですか?」とお聞きしました。
会話を始めて30分以上経過しているのに今さら変な質問ですが
わたしを知らないという前提でBさんの訴えを聞いていたので
Bさんが発する親しみのこもった言葉に
だんだんと違和感を覚えていたんです。

そうしたらBさん
「知ってるも何も、なんだかよくは知らないのよ。でも心がね、知っているような気がするの。」
とおっしゃいました。
嘘みたいですがホントの話です。
そうか。脳の記憶にはないけど心が知っているような気がするのか、と
医学的根拠は何もないですが妙に納得できました。

その後、さっきまで「眠れない」を繰り返していたBさんは
「あとでまた来るのでちょっとだけ仕事してきていいですか」と聞いたわたしに
「あとじゃなくて、まもなく来てね!」
と言い残し、すとーんとすこやかな眠りにつかれました。
夜中に取り残され、寂しくなってしまったのはわたしのほうでした。


人間は
子どもでも大人でも、いくつになっても
病気になっても
もちろん認知症になっても
好かれているか嫌われているかは
同じように感じ取れるのだと思います。
記憶がないだけで、感情はあります。
自分のことをとても好きな人がそばにいるって実感したら
それだけで安心できてしまうものなのかもしれません。

わたしは恋愛においても
好かれるより好きになるほうが勝ちだと
ひそかに思います。
もちろんストーカー的な執着ではなく
一緒にいて居心地がいいレベルの
「好き」ですが!

忘れるプロである認知症の方でも、自分のことをとても好きっぽい人間のことは
もしかしたらちょこっと覚えてしまうんじゃないかな。
そう信じて接しています。
もちろんわたしも人間なので、いつもそんなに優しさ満載ではないですが…

長くなりましたが
こんな経緯があって、あらためて自分の終末を考えました。

わたしは「わたしのことを好きな人」にかこまれて最期を迎えたいです。
現実的には
何歳まで生きるのか
どんな病気や事故に遭うか
医療行為をどこまで施すのか
お墓、相続、保険など
さまざまな心配事はあります。
誰にでもあります。

そのいろんな心配事を
ただひたすらの安心に変えることができるのは「愛」だと思います。
たくさんである必要はない。
誰か1人で充分。
でも今のところ、娘や息子や家族がいて
近くに住む親友などもいますので、5〜6人くらいはいてくれそうです。
1人で充分なのに、そうとうなしあわせ者です。
そのためにわたしは、いま思い浮かぶ
愛し愛される人たちを大事にして生きようと思います。
機を織るように、一本一本の糸を丁寧に紡いでいく日々を送りたいと思います。

みなさんはどんな最期がしあわせだと思いますか?
ゴールが見えると、そこに至るまでの道のりもおのずと見えます。

ぜひお話を聴かせてくださいね。
5月20日(土)お待ちしています!


『こんな夜更けにバナナかよ』

2017年05月12日 19時38分31秒 | 生について
タイトルは、北海道新聞社から2003年に発行された
ノンフィクションの単行本です。
進行性筋ジストロフィーを患った鹿野靖明さんと、そこに集まったボランティアの方たちとの日常が綴られています。

図書館で見つけて読んだのですが
あまりの面白さに夢中になり
イッキに読めました。

このタイトルは、一人のボランティアさんが介助中に心の中でつぶやいた言葉だそうですが

ひじょうに秀逸です!!

介助のときには、
何度も何度もイラだち、誰もが思います。

「なんで今?!」と。

1人では何もできない要介助者。

介助するのがボランティアの役目。

でも、なんで今言うの?

今それやらなきゃならないの?

いくらあっても足りない足りない、忙しい時間のなかで

だんだん無表情になることがあります。

「やってあげなきゃいけない」

と感じることに、罪悪感が重たくのしかかる瞬間です。

それでも何とか関わる。

そして
いや〜な気分をリセットするために
ふーっと深呼吸をして立ちどまります。

相手のちょっとした要求…
お茶を飲みたい。
アイスを食べたい。
歩きたい。
立ちたい。
動きたい。
トイレに行きたい。
テレビを観たい。

それらすべてに、他人を納得させる理由なんて必要ない。

なんで今?に

答えなんてなくて当たり前なのです。

このタイトルは介助という仕事の本質であり、現状をとても良く表していると思います。

そして
この言葉を発したボランティアさんは
続けて2本目のバナナを要求されたときに
怒りが急速に冷えたそうです。

わがままに見える行為が幾度も重なって
あるラインを越えると
なぜか急に愛おしくなってしまうものなんですよね。わかります!!

葛藤のあとに芽生える
なんだかよくわからないけど
温かい感情。

それは、一方的な奉仕や献身ではなく
優しさや思いやりがいっぱいの
ただの人間同士の愛であると思います。

福祉に対して
善意のかたまり
自分には無理!
みたいに感じてしまう方にはぜひ読んでいただきたい。

誰もが自分の中に無意識に持っている
「優越感」「弱者観」そして「偽善」

そういうものに目を向けて生きることで
自分の人生と向き合えると思います。

この本の中に出てきた
『一人の不幸な人間は、もう一人の不幸な人間を見つけて幸せになる』
という言葉がとても印象的でした。


老いについて

2016年09月08日 21時02分23秒 | 生について
私の大好きなジブリ映画「魔女の宅急便」のなかで一番気になるシーンがあります。

妊娠可能な年齢である上おそらく初産であろう妊婦オソノさん(推定30代前半)を、
トンボ(推定10代前半)が、なんの迷いもなく「おばさん」と呼ぶ件についてです。

問題のシーン

ほうきに乗って飛び立つ魔女のキキを見上げながら
オソノ「あたしも飛べたらね~」
トンボ「おばさん!あのこ知ってるの?!」

私は声を大にして言いたい。

「オソノさんはおばさんではない!おねえさんだっ!」

気になって調べたら、オソノさんは映画のパンフレットには26歳と書かれていたそうです。
26歳?!わたしの推定はあっさりハズれました。

しかし・・・
夫婦でパン屋を経営していて、毎日まあまあの客入り。
どこの子か分からない上にお金のない、自称魔女の謎の少女キキを自宅敷地内に住まわせる。
(経済的にも精神的にも余裕がある。)

そんな26歳いますか?!

夫、鉄板くるくる回す特技(?)をキキに見せつけパン職人の大御所かと思いきや、まだ数年しかパン焼き経験ないってこと?

26歳設定の女性を「おばさん」と呼ばせることにジブリスタッフは抵抗はなかったの?

さまざまな疑問が浮かびますが、要するに女性を簡単に「おばさん」と呼ぶなってことですね。


多くの日本女性が、老いることで美しさが損なわれると考えているように感じます。
アンチエイジングや美魔女などという言葉に託されているように、
若さこそが揺るぎない美しさだと思っている方は多いのではないでしょうか。

でも、本当の「老い」って何でしょう。
頭や体が病気になれば、もっと激しく自己が欠落していきます。
理性を保つ人間であることが難しくなっていくのではないでしょうか。
それは「老い」とは関係なくやってくるけれど、無関係ではないと思います。

若い子の使っている略語が何を意味するのかわからなかった。
流行っていると思っていた歌を「古いですね」と言われた。
テレビに出ている芸能人の見分けがつかなかった。
以上、最近のわたしのことですが・・・

これも「老い」と言うべきなのでしょうか。
それとも、もう少し受け入れやすい別の言葉があてはまるのでしょうか。

余談ですが、オソノさんはクライマックスシーンで破水しましたね。
外国人女性って高確率で破水するなあと思うのはわたしだけですか。
外国に知人はいないので、映画に出てくる外国人しか知らないですけど。

「老い」も「出産」も含め幅広い視野で、生きることはどういうことなのかをじっくり考えたいと思います。