Angkor Thom: カンボジアのアンコール朝(9~15世紀)の首都アンコールに残るカンボジア最大の城壁の跡。アンコールとは梵語のナガラ(都市)にあたり、トムはクメール語で<大きい>という形容詞にあたる。正方形の城壁で、1辺が約3km、その高さは8mもあり、ラテライト(紅土)のブロックを積み上げて築かれた、きわめて頑丈なものである。その内部の広さは9k㎡もある。東西南北の各辺の中央には、巨大な城門としての入口があり、さらに東側の城門の北には、もう一つ別の一般に<勝利の門>と称する入口がある。これら全五つの城門はきわめて特異な形の桜門(ゴープラ)で、そこには全四面の人間の顔(人面)が大きく表されている。またこの城門の外側は陸橋となり、その左右には、それぞれ大蛇をかかえた巨人の像が列をなして配され、全体で欄干を構成している。彼らはデーバ(神)とアスラ(阿修羅)で、それぞれ左右に54体ずつを数え、城内を守る守護神の役を演じている。アンコール・トムとは以上の城壁だけを指しているのであるが、その内部には、歴代のクメール諸王が建てたさまざまな寺院が残っており、それらの総称として、このアンコール・トムの名前が有名になっている。
アンコール・トムの城壁は、都が900年ころ、アンコールに創設されて以来、幾度も諸王によって造りかえられている。第1回目は、ヤショーバルマン1世(在位889~910ころ)の治世に、プノム・バケンを中心山寺としてヤショーダラプラと称する城壁が造営された。この城壁跡は正方形で、周囲約16kmもあった。その後、ラージェンドラバルマン2世(在位944~968)の治世に、ピメアナカスを中心山寺として、第2次ヤショーダラプラが造営されたとみなされている。さらにスールヤバルマン1世(在位1002~1050)の時代に、バプオンを中心山寺として、第3次ヤショーダラプラが造営された。そしてジャヤバルマン7世(在位1181~1202)の時に、今日に残存する城壁が造られたのである。
この城壁内で一番大切な建造物は、ちょうど真ん中に建つバイヨンである。ジャヤバルマン7世によって建立されたもので、当時の都の中心山寺であった。この寺院は、全体に4期の増築段階をへて完成した。第1段階は王がアンコール地方を支配するようになった最初の時期、1181年ころに始められた。その第4段階は王の治世の終わりころ、13世紀に入ってからで、すなわちこの寺院の今日に見る姿は、13世紀初めころのものである。建物のプランは、中心祠堂(高さ約45m)を囲んで、二重の方形回廊(第一回廊は160m×140m、第二回廊は70m×80m)からなる。この中心祠堂の基底部からは、蛇ナーガの上に座った仏陀像(石造)が発見された。この点から、かつてこの寺院は仏教寺院と考えられたが、先の回廊の外側に表された広大な浮彫のテーマはおもにヒンドゥー教のものであった。この回廊浮彫は当時の戦争や人々の生活のようすを表しており、注目される。また、この寺院には塔堂の四面に微笑をうかべた人面(高さ約2m)が表され、、その総数は寺院全体で194面(現在は117面)もある。この人面は従来、観音の顔とされてきたが、最近の新説では、ヒンドゥー教のシバ神か、とみなおされている。この寺院から発見された碑文も語るように、この寺院では当時、仏教とヒンドゥー教がかなり混合して信奉されていたのである。
バイヨンのほか、アンコール・トムの内部にはピメアナカス寺(10世紀末~11世紀初頭)、バプオン寺(1060)、<癪王>および<像>のテラス(12世紀末)、プレア・パリライ寺(12世紀前半)、プリヤ・ピトゥ寺(主要部分12世紀前半)、プラサート・スウル・プラット寺(12世紀末)、クリヤン寺(10世紀末~11世紀初頭)、テップ・プラナム寺(10世紀初頭)がある。なお、1296年に中国(元)からの使節に随行してカンボジアを訪れ、97年までアンコールに滞在した周達観が著した<真臘風土記>の中に、当時のアンコール・トムの状況が記録されている。
アンコール・トムの城壁は、都が900年ころ、アンコールに創設されて以来、幾度も諸王によって造りかえられている。第1回目は、ヤショーバルマン1世(在位889~910ころ)の治世に、プノム・バケンを中心山寺としてヤショーダラプラと称する城壁が造営された。この城壁跡は正方形で、周囲約16kmもあった。その後、ラージェンドラバルマン2世(在位944~968)の治世に、ピメアナカスを中心山寺として、第2次ヤショーダラプラが造営されたとみなされている。さらにスールヤバルマン1世(在位1002~1050)の時代に、バプオンを中心山寺として、第3次ヤショーダラプラが造営された。そしてジャヤバルマン7世(在位1181~1202)の時に、今日に残存する城壁が造られたのである。
この城壁内で一番大切な建造物は、ちょうど真ん中に建つバイヨンである。ジャヤバルマン7世によって建立されたもので、当時の都の中心山寺であった。この寺院は、全体に4期の増築段階をへて完成した。第1段階は王がアンコール地方を支配するようになった最初の時期、1181年ころに始められた。その第4段階は王の治世の終わりころ、13世紀に入ってからで、すなわちこの寺院の今日に見る姿は、13世紀初めころのものである。建物のプランは、中心祠堂(高さ約45m)を囲んで、二重の方形回廊(第一回廊は160m×140m、第二回廊は70m×80m)からなる。この中心祠堂の基底部からは、蛇ナーガの上に座った仏陀像(石造)が発見された。この点から、かつてこの寺院は仏教寺院と考えられたが、先の回廊の外側に表された広大な浮彫のテーマはおもにヒンドゥー教のものであった。この回廊浮彫は当時の戦争や人々の生活のようすを表しており、注目される。また、この寺院には塔堂の四面に微笑をうかべた人面(高さ約2m)が表され、、その総数は寺院全体で194面(現在は117面)もある。この人面は従来、観音の顔とされてきたが、最近の新説では、ヒンドゥー教のシバ神か、とみなおされている。この寺院から発見された碑文も語るように、この寺院では当時、仏教とヒンドゥー教がかなり混合して信奉されていたのである。
バイヨンのほか、アンコール・トムの内部にはピメアナカス寺(10世紀末~11世紀初頭)、バプオン寺(1060)、<癪王>および<像>のテラス(12世紀末)、プレア・パリライ寺(12世紀前半)、プリヤ・ピトゥ寺(主要部分12世紀前半)、プラサート・スウル・プラット寺(12世紀末)、クリヤン寺(10世紀末~11世紀初頭)、テップ・プラナム寺(10世紀初頭)がある。なお、1296年に中国(元)からの使節に随行してカンボジアを訪れ、97年までアンコールに滞在した周達観が著した<真臘風土記>の中に、当時のアンコール・トムの状況が記録されている。