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夏目漱石

2014年06月17日 | word
1867-1916(慶応3年~大正5年) 作家、英文学者。江戸牛込馬場下横町の名主夏目小兵衛の五男に生まれた。本名は金之助。生後1年で塩原昌之介の養子になり、幼年期を浅草界隈で送った。また、そのころ疱瘡にかかり、大人になってからも鼻の頭に痘痕が残った。このことを<彼は暗い櫺子のうちで転げ廻った。惣身の肉を所嫌はず掻き挘って泣き叫んだ>と<道草>に記している。孤独な幼年時代の記憶は暗い色調に覆われている。10歳のとき養父母の離婚のため生家に戻ったが、やすらかな帰属感を抱くことはできなかった。やがて東京府第一中学に入学するが、まもなく退学、二松学舎に入り漢籍を学んだ。漱石の漢詩文の趣味と素養はこの時期に身についた。しかし文明開化の世に好きな漢詩文で身を立てることは諦め、成立学舎に入って英語を学び、1884年大学予備門に入学した。学制改革により予備門が改称された第一高等中学本科に進むにあたり、専攻を英文学に決めたとき、漱石は趣味にもとづく漢文の文学よりは国家有用の事業としての英語の文学を生涯の仕事としようとした。しかし<洋文学の隊長>たらんとの当初の野心は、まもなく<英文学に欺かれたかの如き>失望に変わった。英文学への懐疑は、東京帝大英文科に進み、卒業して後もつのる一方で、自分の生存理由を疑う人生的懐疑へ深まり、何ものかに追跡されている迫害妄想を抱くにいたった。かくて1895年高等師範学校の職を辞し、松山中学の英語教師として都落ちするという、常識からすれば不可解な行動に出た。松山で作った漢詩の<大酔醒め来りて寒さ骨に徹し、余生養い得て山家に在り>という句などから推察すれば、松山行きには自己埋葬の衝動が感じられる。翌年、熊本の第五高等学校へ移り、以後4年間、正岡子規の影響もあって多くの俳句を作っている。1900年文部省の命によりイギリス留学の途に上った。漱石は在学以来苦しんだ英文学への懐疑を根底より解決しようとし、下宿にこもり食費を節約して書物を買い込み、猛勉強を始めたが、激しい神経衰弱に陥り文部省の報告書を白紙のまま本国へ送り、そのため漱石発狂のうわさが飛んだ。漱石が突き当たったのは彼我の文学の言葉の違い、それも感性に訴える面での<趣味taste>の違いに由来する了解不可能という壁であった。この宿命的な壁を除くことはできないが、論理化することによって日本人として英文学に対する主体的態度を確立しようとし、歴史、心理学、社会学、文明論にわたる読書と思索を続けた。それは英文学の範囲を超えた文学の原理的考察であり、東西文明の根底的な比較であった。
 03年帰国した漱石は、東京帝大英文科講師として<英文学概説>の講義を、ロンドンでの悪戦苦闘の思索をもとにおこなったが<文学論>、学生には難解で不評だった。一方漱石の神経衰弱は帰国後も続き、しばしば幻聴に悩み、被害妄想によるかんしゃくの破裂となり、一時妻子と別居するにいたった。このときの苦しみは、05年から雑誌<ホトトギス>に高浜虚子のすすめで発表した<吾輩は猫である>に、滑稽と諧謔を交えて描かれ、晩年の<道草>には自己を俎上にのせて解剖する苛烈さで描かれている。<吾輩は猫である>は予想外の反響を呼び、作家漱石の文名があがった。この年<倫敦塔><薤露行>を<猫>と並行して書き、翌年には<坊っちゃん><草枕>を発表し、せきを切ったように旺盛な創作意欲は、大学教師との両立を困難にした。そして漱石を慕って家に出入りする小宮豊隆、森田草平、鈴木三重吉ら教え子を中心とする弟子たちのために木曜日を面会日にした。いわゆる木曜会は06年に始まり、漱石の死の直前まで続き、晩年には芥川竜之介、久米正雄、松岡譲らが加わった。
 07年漱石はいっさいの教職を辞めて東京朝日新聞社に入社し、職業作家になった。すでに40歳であった。入社第1作<虞美人草>は、一文を草するのに俳句を一句ひねるがごとき苦心を重ね、美文に陥る嫌いはあるが、一見古めかしい勧善懲悪の意匠の下に卓抜な文明批評をおこなっている。つづく<三四郎>(1908)、<それから>(1909)では文明批評とからませた人間の存在追及に深さを増し、<門>(1910)にいたって片隅に生きる男女の日常を描いて、澄んだ静謐な形而上的感触を暗示する作風を示した。しかしこの年の8月、宿痾の胃潰瘍から転地療養先で大吐血をし、生死の境を彷徨した。いわゆる<修善寺の大患>で、<思い出す事など>(1910-1911)はこの体験のすぐれた結晶である。この後、<彼岸過迄>(1912)、<行人>(1913)、<こころ>(1914)で人間の孤独と<我執>を追求する深刻な作風を示した。晩年の漱石は、自伝的小説<道草>(1915)で過去の自己を俎上に、その意味を問い、<明暗>(1916)で老練な作家的技量を駆使した最大の長編を書きすすめたが、胃潰瘍の発作のため未完のまま永眠した。漱石最晩年の心境として<則天去私>が有名だが、漱石自身に別格の説明はない。<明暗>に暗示されている作家的自由の境地や並行して書かれた漢詩群に即して考えるべきで、固定的な理念とみるのは、晩年の漱石の実像にそぐわない。