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散所

2014年06月16日 | word
 この語は、現在知られているかぎりでは奈良時代の747年(天平19)の文書に初めてあらわれており、当時より平安時代初期のころまでは、だいたいにおいて直接的な支配・管理の系統には属さない場・人を意味する語として用いられていたようである。平安時代中期ごろから室町時代にかけては、荘園領主の領地の一部、および、そこに定住することを認められて年貢の代わりに雑役を務めた人をさす語として用いられるようになり、以降江戸時代にかけては、とくに賤視された人々の一部、ならびにその集所地をさす語として流布・定着し、近代におよんだものとみられる。このように、律令制のもとに発したの語は、長い歴史をもち、最終的には被差別の一部をさす語として定着したのであるが、その間の歴史的変遷を、各時代・時期の特質との関係からどのようにとらえるべきかについては、語源論、身分制論、職能論、論、被差別形成史等々の見地に立って諸説が出され、さかんな論議がかわされている。
 が研究の対象として浮かび上がったのは大正期に入ってからで、被差別の起源・沿革を学問的に明らかにする必要性が当時の社会においてつよく求められだしたためである。その契機をなしたのは、1915年の森鴎外作≪山椒大夫≫であり、安寿と厨子王の物語として古くから人々に親しまれてきた素材を用いたこの小説は、を主要な舞台としていた。また同年、民俗学者の柳田国男が≪山荘大夫考≫を発表して、の芸能民について述べたのも、歴史的関心をたかめる一助となったとみられる。これらを受けて、19年には歴史学者の喜田貞吉が雑誌≪民族と歴史≫に<特殊部落研究号>を編み、みずから研究成果を発表して、歴史的探究に先鞭をつけた。ついで昭和期に入り、39年には森末義彰が≪考≫を発表し、これによって本格的な研究が軌道にのった。森末の研究は、中世におけるの存在形態を明らかにするのを主眼とし、関係の資料の博捜と、考証の厳密さとにおいて比類なかったが、そのものの定義としては、<一定の居所なく随所に居住せる浮浪生活者を指す>とするにとどまり、さらに厳密な定義は、のちの研究の進展にまたねばならなかった。
 太平洋戦争の終結による民主主義思想の高揚と解放運動の再生は、被差別部落史の研究に新気運の高まりをもたらしたが、古代・中世にわたる領域では林屋辰三郎が54年に≪‘山椒大夫’の原像≫≪――その発生と展開≫の2論文を発表し、の歴史的研究に一時期を画した。とくに後者では、古代社会における身分的差別が中世社会では地域的表現をとりながらと河原とに集約されたこと、においては地子物(年貢)を免除される代りに住民の人身的隷属が強いられたこと、さらにはの民が商人・職人の源流をなし、は<座>を中心とした商工業の形成の前提条件をなしたこと等々が提唱された。この林屋説は、以後、研究はむろんのこと、被差別部落史研究全体に深刻な影響をおよぼしてきている。
 69年、脇田晴子はその著≪日本中世商業発達史の研究≫において林屋説に対する根本的な批判を試みて、とは<本所>に対する<散在の所>という意味で、そこに属した人々すべてが賤視(蔑視)されたわけではなかったが(第一次的)、その後、土地に対する権利をつよめることができなかった人々(非農業民たち)がその居住地域とあわせて賤視の対象となるにいたった(第二次的)のであって、後者がいわゆる中世のなのだと主張した。これを契機として林屋・脇田双方の間に激しい論争を生むとともに、いっぽうではという語の早期の所出例が発見されたり、律令官職制での中下級官人との関係の深さが説かれたり、また中世前期と後期との〈観〉の違い、すなわち、賤視されることのなかった時代から賤視される時代への転換に日本の社会構造そのものの大転換をみとめようとする考え方もあらわれていて、きわめて流動的であるといえよう。