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暴力

2014年06月17日 | word
 身体的な攻撃行動など直接的な暴力から、不法なしかたで行使される物理的な強制力に至るまで、暴力の発現形態は多様である。人間の暴力の本質を明らかにするためには、生物学、心理学、人類学、政治学、哲学などが共同して、多様な暴力現象群を認識していかなければならない。

【身体的攻撃行動としての暴力】 攻撃行動とは他者に対して意図的に有害刺激を与えることで、それには他人を傷つけるような身体的攻撃行動と、他人を面前で罵倒するなどの言語的攻撃行動とがある。また同じく暴力でも相手に直接働きかける場合と、相手にとって重要な人物や衣服、建物などに危害を加える間接的攻撃とがあり、自殺などは上記の能動的攻撃に対し受身的攻撃といえよう。人間性におけるこれらの暴力の発生を本能的・生得的なものとみるか、環境的・学習的なものとみるかで意見が対立しているが、現代では攻撃行動は学習されたものとみる見方が優勢である。

[本能説] 人間の闘争を本能的なものとみた晩年のS.フロイトは1932年に相対性原理の提唱者アインシュタインに次のような手紙を書いている。<われわれの仮説によれば、人間の本能にはただ2種類あるだけです。一つは保存し統合しようとするもので、エロティックとよんでいますが、それは正確にはプラトンの≪饗宴≫のなかで用いられるエロスという言葉と同義語です。それはまた<性>という一般的な概念を拡張した意味での<性的>なものとよんでもよいと思います。もう一つの本能は破壊したり殺したりするもので、攻撃的破壊は本能として分類しています。>この発言には第1次大戦の大量虐殺が影を落としているが、この時期以後のフロイトは、エロス(生の本能)とタナトス(死の本能)の二元論で人間の欲動体系を考えてゆく。このフロイトの死の本能をヨーロッパの精神分析学者は支持しているが、アメリカの精神分析学者の多くは死の本能を認めず、攻撃は欲求不満への反作用と考えている。
 本能説にはもう一つK.Z.ローレンツによる動物生理学からの有力な理論(1966)がある。彼はフロイトよりも攻撃本能を肯定的に考え、それは動物の進化に役だつとした。その積極的な役割として、①すみ分けさせ、資源を活用する、②種内闘争による淘汰が行われる、③子孫を外敵から守るなどをあげている。また肉食動物のような潜在的破壊力をもった動物は、自滅を防ぐための攻撃制止の機制が発達しているため、相手が、ある信号やサインを示すと攻撃は停止されるが、人間のように基本的に無害な雑食性の生物は危険な生来的な武器(強力な牙や四肢)がないため、かえってこのような攻撃本能の制止機制が不十分であるとみなした。しかも人間の知性が、制止機制を伴わない強力な破壊的武器をつくり出してしまったという。ローレンツの本能論は興味深いが、人間と動物を同列におき、あまりに単純化していることなどについての批判がある。

[学習説] 精神分析理論にもみられた欲求不満の反作用としての攻撃という理論を、学習説の立場から展開したのがダラードJ.Dollardらの<欲求不満攻撃説>(1939)である。すなわち、欲求不満はつねになんらかの形の攻撃の前提となり、攻撃は欲求不満によって引き起こされた攻撃動因によって発生する、というものである。しかし、欲求不満は攻撃以外にも退行(小児的行動へのあともどり)を起こさせるなど、攻撃以外の行動を惹起させるし、また攻撃はいやがらせや挑発など有害刺激に伴って起こるので、バーコウィッツL.Berkowitzは<攻撃手がかり説>(1969)を主張した。すなわち、欲求不満や挑発が攻撃の準備体制をつくり出し、それに武器などの攻撃を連想させる手がかりがあると攻撃行動を起こさせるのであるという。
 学習説の現代の有力な学説は<観察学習説>で、バンデュラA.Banduraは攻撃行動は他人の攻撃行動を観察することによって促進されるとし、社会的モデルの示範的効果を強調した<モデリング理論>を唱えた。この立場では本能説のように、他人の攻撃場面(たとえばテレビの暴力シーンやレスリングなどのスポーツ)を観察することによるうっぷんの解消、すなわち浄化作用を認めず、むしろ攻撃行動を促進させるとみている。この見地によれば、テレビにおける処罰されない暴力場面や攻撃的スポーツの礼賛などは、社会的モデル(テレビの主人公や運動選手)の代理的強化により暴力行為を促進するとしている。現在社会問題化している校内暴力や仲間いじめなどは、欲求不満説やモデリング学習説でよく理解されるが、家庭内暴力の場合は人格全体の退行がみられ、不安定な親子関係や衝動抑制不全などの境界例症状を伴うことが多く、専門的な相談機関の援助を必要とする。

【政治における暴力】 政治的世界においては、暴力とは正統性あるいは合法性を欠いたまま行使される物理的強制力をいう。具体的には、威力、腕力、武力などの形で存在する。ある人間または集団が他の人間または集団を支配しようとする場合、暴力は一時的には最も有効な手段の一つである。しかし、単なる暴力による支配は、自発的服従の根拠を生み出すことができないので、永続性をもちえない。暴力によって樹立された秩序も、長期間持続しうるためには、正統化される必要がある。しかしまた、正統化された合法的秩序も、暴力的契機をいっさいもたずに維持されることは期待しがたい。今日、あらゆる国家は、軍隊、警察、刑務所などの暴力装置を保有しており、それらは国家のウルティマ・ラティオ ultimaratio(究極手段)とみなされている。
 こうした暴力装置はしばしば国家権力の構成要素として大きな比重をもつため、権力と暴力を同一視しようとする人も少なくない。とくに、権力の打倒を唱える人は、権力を単なる暴力装置と等置することで、権力のもつ心理的拘束力を弱めようとする。これに対して、哲学者H.アレントは<権力と暴力とは対立するものであり、一方が完全に支配するところにはもう一方は存在しない>と主張した。アレントによれば、<権力は他人と協力して行動する人間の能力に対応するものである>。したがって、暴力が生ずる余地はなく、権力が解体するとき、暴力は多発する。旧権力の解体こそがつねに暴力革命が成功する前提であったことは、アレントの指摘が的確であったことを示している。
 暴力は権力の解体の中から生まれるとしても、それはただちに暴力が悪であることを意味しない。暴力はしばしば旧秩序を破壊して、新秩序を成立させるのに必要な条件をつくり出す。その限りで、暴力は倫理的でさえありうる。こうした暴力の倫理性を強く主張したのが、G.ソレルの≪暴力論≫であった。ソレルは、ブルジョワジーが国家機構を通じて行使する力をフォルス forceと呼び、プロレタリアートが革命の際、対抗的に行使する力をビオランス violenceと呼んで、フォルスの非倫理性に対してビオランスの倫理性を対置した。こうした暴力の倫理性の強調は、現代ではF.ファノンに受け継がれている。彼は、暴力が規律を伴って注意深く使用されるとき、革命を大きく前進させるとした。
 現代政治において、革命と並ぶ暴力の発現形態は戦争である。戦争のなかでも、抑圧された民族の解放をめざすゲリラ戦争などは倫理性をもちうるが、核戦争はもはやいかなる倫理性ももちえない。それでは、暴力のもつ破壊の側面だけが極大化され、窮極的には人類の破滅が招来される。したがって現代政治では、暴力の全面的発動を避けるために、何よりもまず、交渉による紛争の解決が志向されざるをえない。これは、暴力に対して政治の復権を求めることを意味しているといえよう。
 さらに現代では、南北問題に触発されて、第三世界における極度の貧困、飢餓、政治的抑圧などに注目し、これらを<構造的暴力>の所産だととらえる考え方がJ.ガルトゥングらのオスロ学派によって提唱されている。現代的形態の帝国主義や北による南の支配などによってつくり出される構造的暴力の発現たる戦争の原因も解明できないし、また直接的暴力の不在を消極的平和とすれば、構造的暴力の不在を積極的平和と考えるべきであると主張されている。

 近年、暴力の科学的・哲学的研究は増加してきているが、理性・労働、言語の研究に比べるとまだ大幅に立ち遅れている。暴力を考える場合、いちばんたいせつなことは、暴力が人間にとって最も根本的な事柄だと考えることである。これはけっして極端な見解ではない。人間を暴力的な存在(または暴力に誘発されやすい存在)とみなすことで、かえって人間のありのままの姿をよりよく把握することができる。思想史を少しふり返ってみよう。
 ユダヤ教やキリスト教の宗教倫理は暴力との対決から生まれたといえる(汝、殺すなかれの格率)。古代ギリシャのプラトンは、人間に取り憑く魔力としての暴力と格闘した。理性と哲学は、暴力的魔力から人間を解放し、もって人間社会の秩序を建設することに寄与しようとした。近代の西欧思想史のなかでも、プラトンと同じく、暴力との対決が連綿と続く。いちはやく、マキアベリが人間の内なる暴力を客観的に分析する道を切り開き、ホッブスは人間社会の戦争状態(万人の万人に対する戦い)を克服する政治理論をつくろうとした。ルソーやヘーゲルは、ホッブス的戦争状態を人間の現実として認めつつ、それを克服する社会理論を求め続けた。19世紀と20世紀の思想家たちは、前時代の問題提起を重く受けとめて、暴力の本質をより深く、より多面的に探究する(マルクス、ニーチェ、フロイト)。古典的思想家たちは、いずれも、暴力を二次的とはみなさず、避けて通ることのできない根源的事実とみることで共通している。われわれは、過去の遺産から暴力を見る目を学ぶことができる。
 人間の社会生活は、労働を中心にした経済生活、権力(秩序の維持)を中心にした政治生活、芸術や思想を産出する文化生活といった多層的領域から成り立つ。暴力は、労働、権力、言語、理性の諸領域を横断的に貫く(経済・政治上の階級闘争、自民族中心主義による他者の排除と抑圧など)。暴力は、社会秩序の危機に際して物理的暴力(戦争や革命)として現れるが、たいていは非物理的な暴力の形をとって社会生活の中を走り抜ける。とくに注意すべきことは、人目に触れにくい非物理的暴力の働きである。不可視の暴力は、排除という無邪気な形をとる。たとえば、理性は秩序をもつ世界像をつくるが、それは同時に非理性(狂気や精神的な弱者)を排除し、特定の思考形態に合わないものを排除する。このように外見上暴力と無縁な精神と思考にとって、排除する暴力が不可欠の構造因となっている。ハイデッガーやアドルノは、それぞれのしかたで、理性の道具化と道具的理性の暴力性を指摘した。理性自身が排除的理性からどう免れるかは、現代の最も重い課題となった。言語活動による人間関係も、透明な意思疎通の実現を目ざしながら、実際には異論を排除し他者を強制的に説得することしかできない。このような言語活動に支えられる社会的政治的行動は、たいていはまぎれもない排除と抑圧をもって秩序をつくり、その秩序も暴力的手段によって維持される。したがって、暴力とは多様な形で発動する排除行為として定義できる。ごく単純な例を挙げよう。2人の人間が合意を得るためには、第三者を必ず排除しなくてはならない。ここに、理性的理論の成立の原型があるのであり、それが社会秩序形成の論理でもある。これを<第三項排除>という。
 一般に、文化と社会のいっさいの秩序が形成されるときに、排除の暴力が働く。なぜ人間は暴力なしでは生きられないのか。人間は攻撃抑制装置を喪失した不完全動物なのか。確かに、フロイトが見抜いたように、人間は攻撃本能をかかえこんでいる。それでもわれわれの課題は、宿命とも見える暴力を制御する方法をくふうすることである。それが現代の倫理思想の最大の義務である。この義務をまっとうに果たすとき、理性は真に人間的理性としての威信を取り戻すことであろう。