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富士銀行の犯罪

2014年07月04日 | book
ぱる出版1992年2月5日発行、山本峯章。

 1984年豊国信用金庫の経営難に日本レース手形乱発事件の許永中が資金量三倍以上50億円の手形を乱発し引き受けた。1988年豊国信用金庫の貸出金は180億円となりその実態はコスモポリタン池田保次の株購入資金融資と支払保証手形の乱発だった。最終的に豊国信組は400億円の貸出超過で大阪府民信用組合に合併された。こうして私物化された豊国信組の過剰融資は水面下に没した。豊国と府民の合併には岸晶前大阪府知事の介入があった。岸晶のスポンサーは野村周史でありKBS京都前常務の野村雄作は長子だった。富士銀行は大阪府公的資金取扱い指定金融機関だった府民信組に経営参加した。南野洋府民信組理事長はコスモポリタン360億円、イトマン850億円許永中関連企業230億円の融資回収不能により東邦生命に救援を依頼したが東邦生命は断った。富士銀行は府民信組へ1000億円の協力預金を決めた。野村周史は大阪府との秘密協議で、府民信組の自主再建は無理、そこで府民信組を中心に中堅5信組を合併させ預金規模を5000億円程度の信用組合とし富士銀行を業務提携銀行としたうえで大阪府の指定銀行に加盟する。つまりは府民富士との提携を中堅5信組の合併がらみで推進する提案をした。富士銀行は平和相互銀行を吸収した住友銀行とのFS戦争で住銀の牙城である関西地区進出に巻返しを図ったのである。イトマン前常務伊藤寿永光と在日韓国人実業家許永中の関連会社に集中融資を行っていた府民信組は280億円の資金ショートを起こした。大阪地検特捜部と大阪府警はひそかに内偵を続け当事者の逮捕から立件までの証拠資料を固め始めた。南野洋は理事を辞任し富士銀行は債権回収に全力投入するという、関西進出作戦は失敗に終わった。南野洋大阪府民信組理事長、山田一美元専務理事、富士銀行出向瀬良勇融資部長らが特別背任容疑で大阪地検に身柄を拘束された。大阪地検特捜部が押収した資料から富士銀行から府民信組への紹介預金は1988年140億円、さらにイトマン事件1990年9月の時点で990億円、1991年10月には1345億円に増加する異常事態だった。

 地方の過疎化防止と地域開発というリゾート事業のバブル型経済政策は日本の企業社会を混乱させ経済全体が投機や投資家の思惑に左右された。金融機関は担保となる土地の値上がりによる乱脈融資を行った。土地高騰の対処に大蔵省と日銀は1990年5月に公定歩合引上げに踏み切りバブル経済は破たんした。この頃巨額な負債を抱えての計画倒産が相次いだ。富士銀行品川支店が絡んだ新宿百人町融資は1989年10月から始まり200億円分担、しかしさらに140億円が山商グループへ実行された。地上げ完了後、東京佐川急便が600億円で引取る買付証明書が発行された。富士銀行本店は資金の使途に疑問を持ち独自の調査を開始した。山商グループの富国開発と丸善商事の業者は反社会組織と関与していたことがわかり富国開発はイトマンや大阪府民信組から1300億円の融資を受けた直後に倒産した大平産業と関係を持つ要注意不動産業者だったことがわかった。富士本店調査は品川支店の山商グループ融資は不良格付だったと結論し414億円の回収計画を建てた。この間鉄骨加工メーカー共和は2600億円の負債を抱えて倒産し富士銀行の貸倒額は900億円を突破した。山商グループへの担保割れ融資は吸収した共和の債券担保になった。共和を債権者として富国開発が85億円、丸善商事が36億円、山商グループ山口俊彦名義合わせて合計債権額は613億円になり、共和を倒産見越しの債務と債権の相殺偽装に利用した。土地の値段を上げることが目的でマフィア化し銀行が暴力団を操作しながら地上げを演出したのは銀行は融資した金額に見合う土地の値上がりという成果が必要で担保に取った土地の値上がりを見込んだ融資は担保割れになるばかりか、融資先が生産性の無い企業だけに金利が滞り最悪倒産による債権回収不能という事態になったのがバブル経済だった。富士銀行は新宿百人町の地上げに融資した414億円回収のために新都心ビル開発というダミー会社に競売させ焦げ付いた融資の帳簿上の相殺を図った。富士銀行は新宿百人町土地取得に関し地上げ資金414億円と土地取得費用360億円の合計774億円を支払ったことになった。

 1991年5月繊維商社福助の株券40万株時価で約16億円相当が富士銀行日比谷支店からなくなった。福助株による資金つくりは1991年2月に始まった。政治団体真政会代表石光宏行は総会屋小川薫、不動産業昭和総合企画小林文博を通じて富士銀行日比谷支店と関係を持つ。ケイ・トレーディング秋川賢一と石光は福助現物株を入手するため真理谷秋葉義弥に接触した。日本通商渡辺俊輔は広告会社大報荻原武夫社長から福助40万株を富士銀行日比谷支店長菅野一明に預らせ取次表を受取り迂回融資依頼した。福助株融資事件は詐欺事件となって発展していく。萩原が富士銀行に預けた福助株は秋川によって日本橋金融業者大喜に持ち込まれた。秋川は金利1ヵ月分949万5342円と手数料120万円を差引いた8億4930万4658円を大喜から受け取った。秋川は富士銀行日比谷支店口座に7億7800万円を移し現金3400万円を山分けし行方知れずとなった。秋川から渡された40万株のうち10万株は即日市場で売却された。この結果、真理谷の買占めで4490円を保っていた福助株は1500円までに暴落した。富士銀行日比谷支店の福助株紛失について大報荻原武夫と真理谷秋葉義弥は富士銀行の橋本徹頭取と日比谷支店小川敏支店長、菅野一明次長を業務上横領で警視庁捜査二課に告訴した。富士銀行は福助株30万株を返却せず時価1500円で買い取ると大報に主張した。

 1987年頃から富士銀行赤坂支店渉外課長中村稔は架空の預金証書を使って、のべ7000億円の不正融資を行った。中村は丸昌興産赤城明から青山マンション立退き資金150億円を融資した。理由は元暴力団員取引先広田の不良債権20億円の回収後始末の相談であった。1987年9月中村は丸昌が経営する六本木ディスコトウリア企画本社にて赤城社長、八島正人専務、赤尾広三幹部らに呼び出され20億円の預金証書偽造を依頼された。丸昌興産はレイトンハウスにてF1スポンサーとなった浪費が資金繰りを悪化させていた。六本木ディスコトウリアの経営も赤字だった。この頃赤城は売上金を小谷銘柄と言われた協栄産業、飛島建設、蛇の目ミシンという仕手株に注込み売り逃げに失敗し街金融の高金利に追われていた。中村を利用した20億円は仕手株の損失と金利の支払いに消えていた。1988年中村はオクエイ商事社長黒木勝治を赤城から紹介され50億円のMMC証書と質権設定承諾書を偽造しノンバンク住商リースに持込みコクエイ商事に融資された全額を振り込んだ。中村はこれを手始めに絵画ビジネスの黒木に970億円を融資した。中村は同様の手法で外国銀行、ノンバンク、生命保険会社から1989年9月までに計216億600万円を融資させた。赤城は中村に古書店青山堂池田稔を紹介した。池田稔が青山堂を千葉県市川市に開業したのは1976年12月であった。青山堂の副業はラブホテル経営と県内のラブホテル向けにアダルトビデオや大人の玩具を販売することでそれによって収益を上げていた。赤城と池田の話題はいつも仕手株情報と動向分析で1500億円に上る債務を解消するため仕手株を行うこととした。中村は再び偽の預金証書を作成しノンバンクから総額800億円の不正融資をさせた。本州製紙株にて旧誠備グループの加藤の仕手株に池田は参入し、池田は中村が都合した200億円で借りの清算を行った。池田は1991年10月詐欺と私文書偽造同行使容疑で警視庁特捜本部に逮捕された。詐欺総額は延べ800億円だった。1989年1月ディスコトウリアで電動照明装置が落下し16人が死傷する事故が起きた。その始末に赤城は20億円出費した。赤城はM資金やユダヤ資金融資話を信じ込みそのことが赤城の精神を正常に保つ唯一の方法になっていた。警視庁特捜本部は学習院グループ高橋正孝のコンピュータシステム開発会社IOSの1200億円の不正融資を内偵した。赤尾が高橋に中村を丸昌産業の不正手口融資を紹介したのであった。丸昌への2000億円に次ぐ巨額であった。警視庁特捜本部は1989年11月インフォーメーション・オファリング・システム社長高橋正孝を逮捕した。IOSは広域暴力団稲川会前会長の石井進がオーナーだった北祥産業から千代田区麹町ビルを買収し話題となった新進企業だった。高橋を介して中村を大蔵省銀行局中小金融課長太田省三や大蔵大臣橋本龍太郎秘書の小林豊機を引合せたのは園田直飛人故園田直元外相四男であった。ここから富士銀行不正融資事件は新たな局面に向かうことになった。橋本蔵相は富士銀行の架空預金不正融資事件に小林豊機秘書が関与していた事実を知らされ辞意を表明した。端田泰三富士銀行会長は辞任し相談役に退いた。逮捕者は偽造証書を使って不正融資を実行した富士銀行赤坂支店中村稔渉外課長、同支店佐藤日出男営業課長代理、丸昌産業社長赤城明、同社専務八島正人、コクエイ商事社長黒木勝治、不動産会社エムアンドエム社長池田稔、IOS社長高橋正孝、全日販社長花田敏和、園田直飛人だった。

 富士銀行は焦げ付いた債権の回収や担保物件の処理のために神洋グループという北朝鮮債権回収屋に依存することになった。1991年7月不動産の無免許売買容疑で神洋社長中野利久が逮捕された。同時に無免許で47億円の不動産を売却したとして千葉県八千代市の貸しビル会社ナカノビル社長中野明子こと姜明子を宅地建物取引業法違反で家宅捜索した。この不正落札購入資金は富士銀行系ノンバンク芙蓉総合リースから貸出されていた。神洋が1987年9月から取引した不動産の総額は116億円に上り千葉県内の不動産業者は神洋グループの違反営業を知っていたが富士銀行の関連会社だとして見て見ぬふりをしていた。神洋と富士銀行との契約は焦げ付き融資の回収と債権取立て業務であったが、不明で異質な点は神洋に融資業務と不動産評価調査を一体化させた融資コンサルティングの権限があったことだった。富士銀行は1991年10月までに神洋に250億円融資し神洋は1988年から1991年3月まで毎月100万円合計6000万円を在日朝鮮人総連合会あてに寄付金名目で北朝鮮に送金していた。

 富士銀行の1991年9月決算で公表された不良債権額は4733億円であったが実際は1兆円を超え、実体の把握はもはや困難な状況であった。富士銀行は、私どもも被害者だと、述べた。金融の業務自由化と円の国際化は市場の債権化、先物化、投機化させ、預金至上主義の今迄の銀行経営とは異なる競争だった。その後、富士銀行では従業員の詐欺および顧客殺害事件が起きた。銀行の競争の表出が殺人にまで変化した。今では富士銀行は存在せず消滅し不良債権は回収できず公的資金により補填された。今世紀の最大視聴率のドラマが銀行の話だった。銀行業務と市場の国際化が図られ日本国民全員がドラマの内容を理解し楽しめるようになるまでには随分時間がかかった。それ故競争はむしろ広域化拡大化末梢化し日本国全員が当時のバブル経済のマフィア化原則を実行しているのではないのかとも思った。富士銀行犯罪事件の内容が常識化しない頃が犯罪の最大効果と最大利益と犯罪責任の一元化できた場面だったとは思いたくはない。