1542-1616(天文11-元和2) 江戸幕府初代将軍。1542年12月26日、三河国岡崎城内で生まれる。幼名は竹千代。父は岡崎城主松平広忠、母や刈谷城主水野忠政の娘(於大の方、法号伝通院)。広忠は駿河の大名今川義元の勢力化で尾張古渡城主織田信秀と対立していたが、その渦中で於大の方の兄水野信元が今川氏に背いて織田氏と結んだので、於大の方は3歳の竹千代を残して離別され、まもなく尾張阿古居城主久松俊 . . . 本文を読む
歌舞伎狂言。時代物。5幕12場。通称≪馬盥の光秀≫。現行の外題は≪時今也桔梗旗揚(挙)≫。4世鶴屋南北(勝俵蔵時代)作。1808年(文化5)7月江戸市村座初演。先行の浄瑠璃≪祇園祭礼信仰記≫≪三日太平記≫≪絵本太功記≫などに拠りながら武智光秀(明智光秀)が主君小田春永(織田信長)を本能寺に討つまでの経緯を主軸に脚色した作品(太閤記物)。序幕では祇園社拝殿から饗応仮御殿までの5場で、光秀が蜘蛛の振 . . . 本文を読む
1582年(天正10)6月2日、明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自殺させた事件。羽柴(豊臣)秀吉の備中高松城攻防をめぐって織田・毛利両軍が全面的に対決する局面を迎えた信長は、とりあえず堀秀政を派遣するとともに明智光秀に出陣を命じ、みずから近臣を伴って5月29日上洛した。このとき将軍か太政大臣に任じようとする朝廷の意向に回答する予定であった。出陣を命ぜられた光秀は5月26日近江坂 . . . 本文を読む
1528?-82(享禄1?-天正10) 安土桃山時代の武将。明智氏は美濃土岐の一族だが、光秀は初め越前の朝倉義景に仕え、そして足利義昭が朝倉氏のもとに流寓したとき出仕し、ついで織田信長の家臣となり義昭の上洛に尽力、義昭と信長に両属して申次を務め、京都の施政にも関与した。室町幕府滅亡後は信長に登用され征服戦に参加、1571年(元亀2)近江坂本城主となり、75年(天正3)惟任日向守と称し、丹波の攻略に . . . 本文を読む
1534-82(天文3-天正10) 安土桃山時代の武将。尾張守護代織田大和守家の奉行の家に生まれた。織田氏は越前丹生郡織田荘が本貫で藤原氏を称したが、本姓は忌部氏といわれる。信長も初めは藤原氏を称した。のち平氏になったのは源平迭立の思想によるという。曾祖父は信良、祖父は信貞といったらしいが、父の信秀は傑出した武将で尾張勝幡城に拠り、津島の経済力や天王社の信仰を背景に一族間に優越し、美濃・三河を攻略 . . . 本文を読む