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別冊・鱗から目

作った物(のうち、電子的な方法で陳列できるもの)の置き場でもある

一人になるとバカ踊りをしてしまう

2020年10月31日 | 小説

 ピーン……

 小気味よい電子音が鳴ってエレベーターの扉が開いた。中に誰も乗っていないことを確認し,焦らずに乗り込む。行き先の階のボタンを押す前に一度フロアを見,ほかに乗る人がいないことを確かめてから,閉ボタンを押した。重たそうな扉が音もなく閉まると,そこは完全に僕だけの空間となった。とたんに腹の底から笑いがこみ上げてくる。顔全体の筋肉を使ってさまざまな変顔をしてみる。溢れ出る高揚感に身をまかせ,ちょっと前にテレビでやっていた一本満足バーのCMみたいな謎ダンスをおこなう。と,ブレーキがかかってエレベーターが停止した。慌てて顔をもとに戻し,平静を装う。間一髪で扉が開き,事務員らしき人が2人と,台車を押した出入り業者の人が乗り込んできた。

「何階ですか」

ついさっきまで思いきり口角が上がっていたおかげで,本日第一声にしては爽やかな声が出た。行き先は同じ階とのことである。手持ち無沙汰になった僕は,黙って自分の足元を見た。靴紐がほどけかかっているではないか。これは失態である。もしかするとエレベーターでバカ踊りをしていたところも見られたかもしれない。一抹の不安が頭をよぎり,背中に汗をかく感覚があったが,すぐに,扉が開く前にきちんとした体勢になっていたから大丈夫なはずと思い直した。そうこうしているうちにエレベーターは目的の階に到着した。軽く会釈をして降りていく3人を見送ってから開ボタンを離し,自分も出て靴紐を結びなおした。

 今週もまた一週間,変わり映えのしない仕事が待っている。出勤時はいつも気が重いが,エレベーターの中で一人になると,いつだってバカ踊りをしてしまう。そしてバカ踊り欲が満たされるといくらか気分が前向きになり,今日も一日がんばろうという気になれるので,健康な人間に備わった正常な生理現象なのだと信じてやまない。

「よう,お疲れさん」

仕事場に着くと,昼番の先輩が帰り支度をしながら交代を待っていた。僕はにこやかに挨拶を交わし,警備日誌を受け取って監視カメラのモニターの前に腰かけた。そこには,エレベーターの中で思い思いにバカ踊りをする老若男女の姿が映し出されているのである。


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