戸塚高校野球部OB会

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30年目の11月18日に想う

2012年11月18日 15時13分00秒 | 連絡

1982年11月18日、今からちょうど30年前のこの日。

当時の野球部2年生、具志達朗さんが癌のためこの世を去りました。

後に紹介させていただいた文は、当時の国語科教諭が故人への想いを綴ったもので、現在も生徒会から発行されている「淡窓」に掲載されたものです。

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戸塚高校野球部は来年創部60年となります。

様々な出来事があった中で現役部員の死から受ける深い悲しみと衝撃は当時の部員・監督・部長、そしてなによりご両親にとってどれ程大きなものであったか想像に耐えません。

想像し(思い出し)、感じて、「現在(いま)」に感謝する。

それで充分。

そうするこで充分なのではないかと思うのです。

                           平成241118

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具志達朗君に捧げる鎮魂歌

三橋 忠四

具志君は、

腫瘍が右脚切断のその奥の血管から転移し、

やがて肺まで突き破られて死んだ。

昭和五十七年十一月十八日午後、

十七才と二日。

瑞々しいその身体を病菌はあまりに容赦なく

あまりに早く冒しきった。

君の微笑は等しく仲間の微笑で返った。

けっして大笑いしなかった。

冷静沈着なその言動はキラリと輝やいて残った。

ひところ松葉杖ついて長い道程を

やっと登校した君の頬の汗にも

美しい紅が染められていたはずだ。

  

      腫瘍がぼくの足許から

      這い上ってきた宣告の恐怖を

      それは蒼ざめるばかりの恐怖を

      耐えかねるうち続く激痛に震えながら

      両手を堅くこう握りしめながら

      どう叫んだとも知れぬ悲しみの内に

      いつしか祈りを洩らして

      深く白い床に身を横たえた。

ぼくは野球が大好きだ。

行ってやるぞ甲子園へ。

膨らむ夢に両拳振り上げてそう自分を鼓舞叱咤した。

      それでいながら

      この右脚を太腿の付根十三センチから

      切り失った自分をどう処してよいか判らぬ

      悔しさを覚えたあの日々を

      友よほんとうに知っていてくれたかい。  

      グランドから幾度となく仰いだ空には

      雲一つない紺碧の広がりと風があって

      コーチャーズボックスで友の打球を追い

      ランナーにグルグル腕まわしたこの眼に

      やがて映えた夕日がこよなく眩しかった。

      伯母が送り迎えしてくれる暖かかった車中でも

      みんなより先に帰る後髪ひかれた想いを

      友よほんとうに知っていてくれたかい。

      ぼくは馴染まぬ冷たい義足で

      歩みだした自分をいとおしんだ。

      真実この身体も心も素敵なんだと

      誰にも聞かれぬ内なる叫びをあげながら

      僅かな温もりの床にいつも転んで寝た。

      保土ヶ谷の優しい伯母の家の

      2階のわが部屋の時かけて昇り

      痛みこらえてこの身をずり降ろした毎日に

      ぼく自身を見つめる時が多くなった。

      床の片辺に外して置物と化した義足

      包みの張りを持たず平たく動かぬこの黒いズボンに

      覚えず数滴の熱いものを落としたこともあったが

      今日在るぼくをすべて知っていてくださる

      神々と人々を思い起こして

      いつも伯母が洗ってくれた真白のハンカチに

      その抑え難きものを吸わせた。

保健室のベッドに血も骨もない右脚を残して

体育の鉄棒に飛び出した度に

胸つまらせた出口先生も

野球部監督の西山先生も中村先生も

学級担任の斎藤先生・羽深先生も

その脚故になく

明るく利口で無邪気に振舞い

しかも常に冷静で頑張り屋だった君を

共にこの上なく愛しておられた。

「ああ、今日も戸高へ来れてよかった。」

      じっとり掻いた汗は

      もうこの脚にぼくの一部となってしみ込む。

      青葉がうれしくまた憎いと思った瞬間を

      ぼくは告げる。

      体育の先生が声張り上げて歩かれたプールサイド

      あの水の青さに魅せられたことも告げよう。

      鳥の羽ばたきに舞い落ちてくる銀杏の黄葉を

      力足りぬ両脚で蹴散らしてみたもどかしさも

      今は告げよう。

      カーンと空気を引き裂き土を噛んで抜ける

      ぼろぼろに糸ほつれた茶色の打球が

      転々ところがって止まるまで

遠くぼくは見とどけることができた。

      その時友を罵倒し讃え

      数歩を駆けてよろけ

      数歩を地に刻して拍手した。

      

気づかぬ間に校舎二階渡りのトイレに

      ぼくのための一隅が造られていた。

      かの散り敷く桜の小さな花びらを

      こともなげに踏み歩き

      胸張って校門の泉の像に笑みかけた

      新入生の頃のことを

すでに馴れ親しんだこの床の

軽やかさの中で想い及んだ。

ぼくは幸せだったように思う。

二年生になるといろいろ嫌な話しが

この耳を塞ぎきれない。

何故あんな健康そうな

何故こんなに信じていた彼彼女たちが

ぼくより何十倍か恵まれて元気な筈なのに

違ったことをするのだろうか。

そんなきみたちにとって

いったいぼくは何なのだろうか。  

昭和五十七年十一月十八日午後三時十三分。

もうぼくは逝きます。

先生方ありがとうございました

みんなありがとう。

さようなら。    

具志君

そのクリクリ坊主と

美しい瞳の輝やきとを誰もが忘れぬ中で

目を赤くはらしたこの一老教師も

永遠に忘れ得ぬことを告げて

到底想い足りぬことの多きを抱いたまま

つらいけれど別れましょう。

安らけき魂の鎮やかな永眠を

さようなら。

昭和五十七年十一月二十日深夜(本校教諭)

              昭和五十八年三月発行 「淡窓」掲載