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心に映る由無きことを気の趣くままにつづる

薬師寺

2005-12-12 09:24:57 | 仏教美術

 平成17年11月1日、近鉄電車を西ノ京駅で降りると薬師寺の伽藍が目の前に現れた。世界遺産に登録されている薬師寺は興福寺と同じ法相宗の大本山である。境内には南門とは反対側の大講堂側から入った。薬師寺の境内は南門・中門・金堂・大講堂と南北に一直線に配置されている。中門と金堂の間には東塔と西塔とが対称的に立っている。中門から大講堂までロノ字に回廊が回る計画であるが現在は中門寄りの回廊が完成して、大講堂寄りよりの回廊は工事中であった。東塔は1,300年の星霜に耐え凛として立っていた。薬師寺で唯一、創建当初の姿を残す建物で頂上で飛天が舞い「凍れる音楽」とも評される三重塔である。西塔は昭和56年に再建されたが20数年たち、落ち着いた雰囲気を醸し出している。薬師寺の国宝・薬師三尊像は雨漏りのする仮金堂に400年以上も置かれていたという。昭和42年に高田好胤師(1924-1998)が管主に就任し長年の悲願である金堂の復興を発願した。修学旅行生にユニークな説法を行い、百万巻の写経の納経料で再建し昭和51年には落慶法要を営んだという。企業の寄進の申し出を固辞し一人ひとりの納経料でまかなう高田好胤師の志は現在も引き継がれ、1,000円の納経料で白鳳伽藍の復興は続けられている。薬師寺は法相宗の寺である。葬式は行わない。所謂、檀家が無い。従って納経料が主な財源になる。若い僧が薬師三尊像の前で「薬師如来はお医者様、両脇の菩薩像は看護士です。日光菩薩は日勤の看護士、月光菩薩は夜勤の看護士です」と説明していた。ココまで砕いて説明することにやや疑問を感じるが、分かりやすく説明しようとする高田師からの伝統は続いている。

 秋晴れの非常に天気のよい日である。金堂の扉は大きく開けられ、薬師三尊像(国宝)は堂の外からも拝観でき、写真撮影も出来た。


          
      写真:左から月光菩薩立像(国宝)・薬師如来坐像(国宝)・日光菩薩立像(国宝)

 金堂の中に入る。薬師如来坐像は像高254.7cm、白鳳・天平時代を代表する丈六仏である。右手に施無畏印、左手に与願印の見事なプロポーションの仏像に惹きこまれる。左に日光菩薩立像、右に月光菩薩立像を脇侍として従えている。両菩薩の腰をややひねった姿が印象的である。
 一般に薬師如来像は薬壷を左手に持っている場合が多い。しかし、天平時代に作られたこの薬師如来像は薬壷を持っていない。そういえば、飛鳥時代に作られた法隆寺の薬師如来像(国宝)や法輪寺の薬師如来像(国重文)や、天平時代に作られた唐招提寺の薬師如来像(国宝)は薬壷を持っていない。平安時代初期になると会津・勝常寺の薬師如来坐像(国宝)や京都・神護寺の薬師如来立像(国宝)や奈良・新薬師寺の薬師如来坐像(国宝)の如く、薬壷を持つ。
 若い僧に「本尊のお顔は山田寺の仏頭ににている」と話しかけたら、「こちらは国立、格が違う」との返事が返ってきた。確かに山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の氏寺であり、薬師寺は天武天皇の発願で建立された寺である。壬申の乱で天武天皇に攻められた大友皇子(=弘文天皇)が私の頭をよぎった。

 薬師如来が坐る台座はシルクロードの東端の地に相応しいインターナショナルな白鳳文化を伝えている。東僧房にあるレプリカの台座の側面を見るとギリシャの葡萄唐草文様、ペルシャの蓮華模様、インドの力神の裸像そして古代中国の四方四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)が表されている。




東僧房にあるレプリカの台座


薬師寺に隣接する大寺・唐招提寺
晩秋の斑鳩

晩秋の斑鳩・中宮寺

2005-12-11 14:30:35 | 仏教美術
[ 中宮寺で購入した図録の写真を使用した ]  左手を軽く頬に当て思惟する美しい仏像。瞑想する静かな心をこれほどまでに美しくあらわす像はない。2005年春、東京国立博物館で「中宮寺 国宝 菩薩半跏像」展が特別公開された。しかし、仏像はやはりお寺で拝観するのがよい。中宮寺本堂のしきりの横棒に寄りかかるようにして息を潜めて拝観した。 アルカイックスマイルをたたえた飛鳥時代(7世紀)のこの像を中宮寺では「如意輪観音」と呼ぶ。やわらかい感じのするネーミングである。しかし、「如意輪観音」は空海がもたらした密教の世界の観音様である。200年ほど後のはずで矛盾がある。多分、平安時代に中宮寺は真言宗であったので、真言宗らしい名前に変ったものと思う。 この像は国宝である。文化庁は「菩薩半跏像」という名前を付けた。かなり機械的な感じの名前である。この像は元は三面宝冠を付けた菩薩である。「右足を左足の上に乗せて腰掛けている半跏の菩薩像」という形からつけた名前である。中宮寺のテープによる説明では「半跏思惟像」と「思惟」を強調していた。思惟は「シュイイ」とはんなりと発音していた。 一般には半跏思惟像は「弥勒菩薩」であるといわれている。同時代の大阪府・野中寺(やちゅうじ)の半跏思惟像は「弥勒菩薩」と記されているので半跏思惟像=弥勒菩薩なったらしい。しかし、半跏思惟の姿は釈迦が出家前の悉達太子の時の修行中の樹下思惟の姿という説もある。  私の仏教美術の師・後藤道雄先生は「中宮寺の菩薩半跏像は聖徳太子の妃の橘大郎女が太子の死を悼み、造立した。悉達太子と聖徳太子と重ねて太子像を作った」とお話になっている。橘大郎女は天に召された聖徳太子とその世界を描写した「天寿国繍帳(国宝)」と対で太子半跏思惟像を作ったのである。 [ 中宮寺で購入した図録の写真を使用した ]  飛鳥時代の仏像製作の主流は法隆寺夢殿の救世観音立像や京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏像のように樟(クスノキ)の一本作りである。ところが、中宮寺の菩薩半跏像は寄木造りである。一本の樟(クスノキ)を細かい部品に分割し、部品を組み合わせる手法をとっている。指をそっと頬に当てるポーズの造形を追求していくと寄木造りとなったものと思う。一般に寄木造りは、平安時代末に定朝によって発明されたといわれる。しかし、中宮寺の菩薩半跏像は500年以上も前に寄木造りが行われているのである。 晩秋の斑鳩