[ 中宮寺で購入した図録の写真を使用した ] 左手を軽く頬に当て思惟する美しい仏像。瞑想する静かな心をこれほどまでに美しくあらわす像はない。2005年春、東京国立博物館で「中宮寺 国宝 菩薩半跏像」展が特別公開された。しかし、仏像はやはりお寺で拝観するのがよい。中宮寺本堂のしきりの横棒に寄りかかるようにして息を潜めて拝観した。 アルカイックスマイルをたたえた飛鳥時代(7世紀)のこの像を中宮寺では「如意輪観音」と呼ぶ。やわらかい感じのするネーミングである。しかし、「如意輪観音」は空海がもたらした密教の世界の観音様である。200年ほど後のはずで矛盾がある。多分、平安時代に中宮寺は真言宗であったので、真言宗らしい名前に変ったものと思う。 この像は国宝である。文化庁は「菩薩半跏像」という名前を付けた。かなり機械的な感じの名前である。この像は元は三面宝冠を付けた菩薩である。「右足を左足の上に乗せて腰掛けている半跏の菩薩像」という形からつけた名前である。中宮寺のテープによる説明では「半跏思惟像」と「思惟」を強調していた。思惟は「シュイイ」とはんなりと発音していた。 一般には半跏思惟像は「弥勒菩薩」であるといわれている。同時代の大阪府・野中寺(やちゅうじ)の半跏思惟像は「弥勒菩薩」と記されているので半跏思惟像=弥勒菩薩なったらしい。しかし、半跏思惟の姿は釈迦が出家前の悉達太子の時の修行中の樹下思惟の姿という説もある。 私の仏教美術の師・後藤道雄先生は「中宮寺の菩薩半跏像は聖徳太子の妃の橘大郎女が太子の死を悼み、造立した。悉達太子と聖徳太子と重ねて太子像を作った」とお話になっている。橘大郎女は天に召された聖徳太子とその世界を描写した「天寿国繍帳(国宝)」と対で太子半跏思惟像を作ったのである。 [ 中宮寺で購入した図録の写真を使用した ] 飛鳥時代の仏像製作の主流は法隆寺夢殿の救世観音立像や京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏像のように樟(クスノキ)の一本作りである。ところが、中宮寺の菩薩半跏像は寄木造りである。一本の樟(クスノキ)を細かい部品に分割し、部品を組み合わせる手法をとっている。指をそっと頬に当てるポーズの造形を追求していくと寄木造りとなったものと思う。一般に寄木造りは、平安時代末に定朝によって発明されたといわれる。しかし、中宮寺の菩薩半跏像は500年以上も前に寄木造りが行われているのである。 晩秋の斑鳩
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リンクを貼らせて頂いたのは『モナリザの謎と秘密について』というHPの中の、「母、娘、太母そしてマリアへ」と言うページで、下がそのアドレスです。
http://monnalisa.sitemix.jp/honnbunn/hahamusumemaria.html
アルカイックスマイルの例として図が欲しかったのですが、写真も文章もとても立派で、ページごと紹介いたしたく、リンクを貼らせていただきました。
ご迷惑でしたら直ぐに削除いたします。
ご放擲いただければ幸いです。
しかし中宮寺、私ものんびり歩いてみたいものです。