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小学生に対する道徳教育について

2019-10-25 20:26:00 | 日記
道徳教育について次のことを考察しました。

まず道徳を語る時には2通りのやりかたがあること
次に教育の現場でなされるべきなのはこの一方だけであるということ
最後に教師がこの2通りを区別することの重要性についてです。

道徳を語る、教えるには内側から、外側からの2とおりがあります。
・内側とは、道徳という前提をもってその内容を考えること
・外側とは、道徳とは別の前提を導入して道徳を考えること
これらの違いは宗教で言うところの
・ある宗教そのものを教える、絶対的に正しいとする「護教論」
・ある宗教を他の宗教との比較の中で相対的に検証する「比較宗教論」
の違いに類推できます。

この2つの方法のうち教育の現場でなされるべきは内側、すなわち".道徳を前提とした".道徳学です。
言い換えるなら、どんな論理展開を経ようとも必ずしも道徳の正しさが正当化される、ような道徳学です。
それには次の理由があげられます。
第一に道徳は子供達が大人になるうえで、社会で有利に生きていくうえで、不可欠なツールであること
第二に、道徳の前提を疑うことはそれ自体が社会やそこを生きる当人にとってリスクとなりうること
第三に、道徳を外から考えることは道徳ではなく哲学の領域であり、またそれは原理的に教えることができないこと
つまり、これから社会化していくこどもたちにとって道徳は、前提としてビルドインすることではじめて有益になりうるものであり
その"前提"を疑うことは当人や社会にとって害悪を招く可能性があり、またそういった行為は哲学の領域でおしえうるものではない、から
道徳は外側からではなく内側からの方法で教えるべくきだということです。

ではなぜ道徳を外側から考察する"哲学"は教えることができないのでしょう。
それはこどもたちがそれを既に知っているからです。また、ほとんどの場合大人よりもその能力において優れているからです。
社会化された大人は道徳を外側からみることが本当はできません。それができるのは無法者だけです。そういった大人がおこなう道徳批判は必ずしも道徳的な前提により解決され道徳の内部に収斂します。
一方でこどものそれは、そして大人の一部の無法者のそれは、道徳をいとも簡単に破壊してしまいます。
このようにこどもは哲学の領域において優に大人を超えているのです。それゆえ大人がその能力を伸ばす手立てをできるはずもなく、それを教育の現場でなす必要はないのです。
また、教育はこどもを夢みがちな哲学者から
現実に目を向ける社会人へと導く技術体系です。
それゆえ教師はその職責を全うするにはこどもたちに道徳的前提をいやがおうにもねじ込む必要があるのです。
そんな教師が「道徳は不道徳」といった哲学的視点を道徳学に持ち込むことは不適当どころか教育の目的そのものに逆らう行為というほかありません。
こういった錯綜が生じてしまうのは、道徳を語る、教えるうえでの、冒頭で挙げた、2つのちがいを教師が区別していないからでしょう。教師がこのちがいを明確につけた上で道徳は内側からのこどもたちに教えられ、社会で有利に生き抜くための武器があたえられていく、それが教育の現場、おもに小、中等教育の現場、においておこなわれる道徳のあるべき姿といえるでしょう。

蛇足として、では、こどものもつ哲学的探究心を押さえつけてしまってもいいのか
という疑問について。
哲学的探究は道徳や倫理といった、社会から押し付けられる前提によって一度はねじ伏せられつつ、
それを押しのけてまで必要に駆られて行われるものです。それは個々人の内的な動機を、原動力としてそうせざるをえずなされてしまうものです。
だから仮にも哲学的探究の力を引き伸ばす外的な手立てがあるとすれば、それはとことんその欲求を社会という不条理によって押さえ込む、といった方法くらいなのです。
それゆえどちらにせよ、教師や大人、社会から理不尽に、不合理に道徳的前提をたたきこまれる体験は一種のイニシエーションとして、多くの場合こどもを道徳学的だけでなく哲学的にも強くする可能性をもつのです。
よって哲学のことなどこどもの能力に任せてしまい大人は道徳という試練をこどもに全力で仕向けてあげるべきでしょう。


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