「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰のことわりをあらわす 驕れる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛き者も遂には滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ・・・」。
「平家物語」の冒頭の一句である。余りにも有名であって本を読んだ事の無い人でもこの一文は聴き知っている。
もう20年ぐらい前に、店にコピーに行ったら先着の人がコピーしていた。松本さんとか名乗った人で30分雑談をした。この方はコンピューターの技師で典型的な理工系の人で60歳位だった。退職して直ぐ四国の八十八ケ寺を45日間歩いたのだ。三つの徳が有ったそうだ。まず6 kg 体重が減った。次に全国各地の年齢も性別も仕事もまちまちの人約40人と、旅の友、心の友となったと。そして三つ目は、自分は文学書や歴史には無縁の人間で一冊も読んでないが、最終日の午前4時頃、真夏なので野宿していたらどこからともなく声が聞こえて来た。その声は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り・・・」だった。「不思議な経験をしましたよ!」だった。この方とは一期一会の出会いであった。その時、私は平家物語の勉強会のためのテキストをコピーに行った所での出会いであった。一生忘れぬ話である。
さてその平家物語だが、大雑把に分析すると三つの思想で構成されていると思う。まず第一に、仏教哲学がプロローグからエピローグまで一貫している。冒頭の文も最後の場面、建礼門院徳子の寂光院に、後白河法皇が訪れた時、徳子が己の人生の一生の経験を、六道を持って説明する箇所等は、仏の道を語っている。又三人の白拍子が出家して一箇所に住み、読経三昧の生涯を過ごす話をし、更に平家の若武者16歳の平敦盛が殉教(スケープゴート)的死と、その敵役熊谷次郎直実がこれを機に出家して仏門に入り、蓮生坊と生まれ代わる話等々である。
次に中国の古典の史記のエピソードが随所に散りばめられている。
人間の煩悩から生じる歴史のドラマを、史記のエピソードでもって料理してさばいている。古典は古典でもって紐解くという鉄則が使われている。これが奥行きを深くしている。そして三つ目は我が日本の文化教養の技巧の匠みさである。美辞麗句で華やかに飾ってあるので文学の好きな人は、この美文に酔うのである。いやもしかしたら酔い潰れるのかも知れない。
いずれにせよあの松本氏に語りかけた天の声は、今も私達全員に語りかけている。平家物語ばかりでなく仏典も聖書も論語も史記も全て古典は永遠に生きているのだ。人生は短いが古典の生命は、1000年2000年いや永遠である。永遠の命が欲しくば古典を読め、毎朝読めば永遠の生命がこの有限なる身に入って来る・・・と私は確信している。 然り アーメン
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