
さて、アダムは妻エバを知った。
彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
彼女はまたその弟アベルを産んだ。
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
カインとその献げ物には目を留められなかった。
カインは激しく怒って顔を伏せた。
主はカインに言われた。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。
お前はそれを支配せねばならない。」
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、
カインは弟アベルを襲って殺した。
(創世記4章1節~8節)
兄が弟に嫉妬して、殺してしまうわけです。
……しばしば、「女性の嫉妬より男性の嫉妬の方が強い」などといいますが、それはそうかもしれません。
男性は女性に比べて、それがプラスのものであれマイナスのものであれ、自分の感情を抱えたままでいることが苦手なようです。
自分の感情を抱えたままでいることを学ばされる機会が少ないでしょうし、それが高く評価されるわけでもないですから。
だから、嫉妬の感情が相手に対する批判的な「行い」として出てきてしまうんでしょうね。
あるいは、嫉妬という感情を、プライドから、「自分にあるまじきこと」と考えてしまうのかもしれません。
そこで、嫉妬の感情をガス抜きして、「これは嫉妬ではない」と自分に言い聞かせるためにも、相手に対する(自分では正当だと考えるところの)批判的な行いに走ってしまう。
その場合、そもそも「自分が嫉妬していること」を認めていないわけですから、自分の心が満たされることはないわけで、やりすぎてしまう。
「男性の方が嫉妬心が強い」と言われることには、そういうことがあるのではないかとも思います。
カインとアベルの話はいろいろな時代にいろいろな人が作品化していますが、それだけ、人間を惹きつけてやまないテーマなんでしょうね。
フロイトの弟子であったユングは、「親による兄弟間の愛情の差別が、兄弟以外の関係にも投影され、兄弟と同年代の人々を憎んでしまう」として、それを「カイン・コンプレックス」と名付けました。
……「そういうことってあるんでしょうか」と思ってしまいますが、なんにしても「的外れ」ですね。
カインにしたって的外れです。
神さまの扱いが気に入らないなら、神さまに文句を言えばよかったわけです。
アベルを殺しても仕方ない。
嫉妬というのはいつも的外れです。
ほんとうの原因にアプローチしないで、自分と比較されている(と勝手に考えている)その対象にだけ目を向けるわけですから。
比較する意識がそもそも良くないんでしょうね。
比べると、必ず嫉妬することになります。
自分より優れた人は必ずいますから。
でも、比較しなくていいんです。
神さまは人間を比較なさいません。
いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
(ルカによる福音書6章35節)
人と自分を比較するのは的外れです。
聖書で遣われている「罪」という言葉は、「的外れ」という言葉です。