2001/4/19聖教新聞より。
二十九年前のその日、私は、ロンドン市内にある、著名な文明史家アーノルド・J・トインピー博士の自宅を訪れていた。一九七二年(昭和四十七年)の五月。一年のうちで最も美しい〝メイフラワー・タイム(五月の花咲く頃)″であった。
私たちは、人類と世界の未来を展望し、「二十一世紀への対話」を開始したのである。 談たまたま、私の質問が、博士の「座右の銘」に及んだ時であった。間髪を入れず、博士はおっしゃった。「ラテン語で『ラボレムス』 ー 『さあ、仕事を続けよう』という意味の言葉です」と。
二世紀末から三世紀初頭のローマ皇帝、セプティミウス・セウエルスに由来する箴言といわれる。彼は、アフリカ出身の初のローマ皇帝であった。在位中は、広大な帝国を守るために東奔西走し、その最期も、遠征先のブリタニア(現在のイギリスのグレートブリテン島の古称)で迎えたのであった。
「皇帝セウェルスは、彼の率いる軍隊に、毎日、モットーを与えることを常としていました……」母校オックスフォード大学でも、古代史を専攻された博士である。 私は、伝統の学舎で、最高峰の講義を伺っているような感慨を覚えた。 博士の〝名講義″は続いた。
ー遠征先で重病に倒れたセウエルスは、死期の近いことを悟る。しかし、大帝国ローマの皇帝として重責を担う彼は、なお、仕事を続けようとした。 そして、まさに死なんとするその日に、彼が自軍に与えたモットーが、この「さあ、仕事を続けよう」であった、と。 私は、感動した。 ここに、戦う指導者たるものの真髄の姿がある。人生を勝ちゆく王者の名画がある。
当時、トインビー博士は八十三歳であられた。 毎朝六時四十五分に起床し、朝食の用意をされ、夫人と食事を終えると、九時ごろには机に向かわれる。気分が乗っていようがいまいが、とにかく、仕事を始めるそうだ。
「仕事をしたい気持ちになるのを待っていたのでは、いつまでも仕事はできないものですから」と、博士は微笑まれた。 楽観主義は意志に属するものだという。自ら決めた一日の目標に向かい、一歩、また一歩と、着実に歩みゆく意志が、人生を明るくするのだ。
思えば、博士は三十二歳で大著『歴史の研究』の全容を構想し、実に四十年かけて、全十二巻の膨大な著述を完成された。七十二歳のことである。 私がお会いしたのは、さらに十一年後であるが、この間にも『回想録』など十冊以上の著作を出版しておられた。
私自身、三十二歳で第三代会長に就任して以来、昨年で四十年が静ぎた。 あのトインビー博士の、孜々として研究に精励される姿を思い出すたび、ふつふつと戦う力がわいてくる。
ところで、この「ラボレムス」という箴言を、やはり心に留め、自著の末尾に、力を込めて書き記した人物がいる。 『昆虫記』の大博物学者ファーブルである。 『昆虫記』全十巻の最終章のなかで、ファーブルは、文部大臣来訪のエピソード等を紹介しつつ、四十代半ばに試みていた「アカネ」の根から良い染料を作る奮闘を書いている。
ところが、彼の苦心が実を結ぶ寸前、人工染料という新技術の波が襲い、多年の努力は水泡に帰してしまう。 その失意のなかから、彼は、ペンを握りしめ、再び立ち上がるのだ。 自らを鼓舞する、その言葉こそ、あの箴言であった。
「ラボレムス!」 さあ、働こう! さあ、仕事を続けよう! 活動は光である。そこに絶望が居座る暗がりはない。 実は、こうした挫折の連続にもめげることなく、うまず弛まず、研究を続けていった結晶こそ、不朽の名著『昆虫記』だったのである。
ファーブルといえば、牧口先生の『創価教育学体系』第一巻に、社会学者の田辺寿利氏が寄せた序文を思い出す。 氏は、フランスでは、ファーブルのもとに大臣が足を運び、「フランスの名に於いて懇篤なる感謝の意を表せしめた」ことを紹介し、返す筆で日本社会に問いかけた。
「一小学校長たる牧口常三郎氏は、あらゆる迫害あらゆる苦難と闘ひつつ、その貴重なる全生涯を費して、終に劃期的なる『創価教育学』を完成した。文化の国日本は、如何なる方法によって、国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか」 ところが十四年後、「文化の国日本」は、秋霜の獄死をもって牧口先生に報いたのだ。
浅ましき愚かな権力よ!戸田先生は、幾たびも、この言葉を引き、正義の人を殺した権力の魔性を弾劾された。 憤激の涙を流しながら、師匠を世界に宣揚してみせると叫ばれるのであった。 これが、共に牢獄に入った、不l一の弟子の心であった。
ある時、ファーブルは、息子に書き送った。 「はたらくこと、これこそほんとうに生きている証拠だ」 (平野威馬雄訳) 釈尊は、沙羅双樹下の臨終の床で、弟子たちに遺言した。 「怠ることなく修行を完成なさい」(中村元訳) 連祖大聖人も仰せである。
「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(御書一一九〇㌻) 偉大な目的をめざし、健気に働き続けた人、歩き続けた人、そして、生涯、戦い続けた人が永遠の勝利者である。 歩き続ける人は、最も遠くまで行く人だ。最後まで戦い抜いた人が、最高の幸福の目的地に到達する人だ。
われらは、「広宣流布」という崇高な理想に生き抜く人生である。ゆえに、何があっても、学会から離れるな! 創価の使命の大道を歩き抜け! さあ、千載に輝く広宣流布の大闘争の幕は上がった! わが同志よ! 朗らかに、足どりも軽く、今日も、使命の道を行こう。 さあ、仕事を続けよう!
二十九年前のその日、私は、ロンドン市内にある、著名な文明史家アーノルド・J・トインピー博士の自宅を訪れていた。一九七二年(昭和四十七年)の五月。一年のうちで最も美しい〝メイフラワー・タイム(五月の花咲く頃)″であった。
私たちは、人類と世界の未来を展望し、「二十一世紀への対話」を開始したのである。 談たまたま、私の質問が、博士の「座右の銘」に及んだ時であった。間髪を入れず、博士はおっしゃった。「ラテン語で『ラボレムス』 ー 『さあ、仕事を続けよう』という意味の言葉です」と。
二世紀末から三世紀初頭のローマ皇帝、セプティミウス・セウエルスに由来する箴言といわれる。彼は、アフリカ出身の初のローマ皇帝であった。在位中は、広大な帝国を守るために東奔西走し、その最期も、遠征先のブリタニア(現在のイギリスのグレートブリテン島の古称)で迎えたのであった。
「皇帝セウェルスは、彼の率いる軍隊に、毎日、モットーを与えることを常としていました……」母校オックスフォード大学でも、古代史を専攻された博士である。 私は、伝統の学舎で、最高峰の講義を伺っているような感慨を覚えた。 博士の〝名講義″は続いた。
ー遠征先で重病に倒れたセウエルスは、死期の近いことを悟る。しかし、大帝国ローマの皇帝として重責を担う彼は、なお、仕事を続けようとした。 そして、まさに死なんとするその日に、彼が自軍に与えたモットーが、この「さあ、仕事を続けよう」であった、と。 私は、感動した。 ここに、戦う指導者たるものの真髄の姿がある。人生を勝ちゆく王者の名画がある。
当時、トインビー博士は八十三歳であられた。 毎朝六時四十五分に起床し、朝食の用意をされ、夫人と食事を終えると、九時ごろには机に向かわれる。気分が乗っていようがいまいが、とにかく、仕事を始めるそうだ。
「仕事をしたい気持ちになるのを待っていたのでは、いつまでも仕事はできないものですから」と、博士は微笑まれた。 楽観主義は意志に属するものだという。自ら決めた一日の目標に向かい、一歩、また一歩と、着実に歩みゆく意志が、人生を明るくするのだ。
思えば、博士は三十二歳で大著『歴史の研究』の全容を構想し、実に四十年かけて、全十二巻の膨大な著述を完成された。七十二歳のことである。 私がお会いしたのは、さらに十一年後であるが、この間にも『回想録』など十冊以上の著作を出版しておられた。
私自身、三十二歳で第三代会長に就任して以来、昨年で四十年が静ぎた。 あのトインビー博士の、孜々として研究に精励される姿を思い出すたび、ふつふつと戦う力がわいてくる。
ところで、この「ラボレムス」という箴言を、やはり心に留め、自著の末尾に、力を込めて書き記した人物がいる。 『昆虫記』の大博物学者ファーブルである。 『昆虫記』全十巻の最終章のなかで、ファーブルは、文部大臣来訪のエピソード等を紹介しつつ、四十代半ばに試みていた「アカネ」の根から良い染料を作る奮闘を書いている。
ところが、彼の苦心が実を結ぶ寸前、人工染料という新技術の波が襲い、多年の努力は水泡に帰してしまう。 その失意のなかから、彼は、ペンを握りしめ、再び立ち上がるのだ。 自らを鼓舞する、その言葉こそ、あの箴言であった。
「ラボレムス!」 さあ、働こう! さあ、仕事を続けよう! 活動は光である。そこに絶望が居座る暗がりはない。 実は、こうした挫折の連続にもめげることなく、うまず弛まず、研究を続けていった結晶こそ、不朽の名著『昆虫記』だったのである。
ファーブルといえば、牧口先生の『創価教育学体系』第一巻に、社会学者の田辺寿利氏が寄せた序文を思い出す。 氏は、フランスでは、ファーブルのもとに大臣が足を運び、「フランスの名に於いて懇篤なる感謝の意を表せしめた」ことを紹介し、返す筆で日本社会に問いかけた。
「一小学校長たる牧口常三郎氏は、あらゆる迫害あらゆる苦難と闘ひつつ、その貴重なる全生涯を費して、終に劃期的なる『創価教育学』を完成した。文化の国日本は、如何なる方法によって、国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか」 ところが十四年後、「文化の国日本」は、秋霜の獄死をもって牧口先生に報いたのだ。
浅ましき愚かな権力よ!戸田先生は、幾たびも、この言葉を引き、正義の人を殺した権力の魔性を弾劾された。 憤激の涙を流しながら、師匠を世界に宣揚してみせると叫ばれるのであった。 これが、共に牢獄に入った、不l一の弟子の心であった。
ある時、ファーブルは、息子に書き送った。 「はたらくこと、これこそほんとうに生きている証拠だ」 (平野威馬雄訳) 釈尊は、沙羅双樹下の臨終の床で、弟子たちに遺言した。 「怠ることなく修行を完成なさい」(中村元訳) 連祖大聖人も仰せである。
「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(御書一一九〇㌻) 偉大な目的をめざし、健気に働き続けた人、歩き続けた人、そして、生涯、戦い続けた人が永遠の勝利者である。 歩き続ける人は、最も遠くまで行く人だ。最後まで戦い抜いた人が、最高の幸福の目的地に到達する人だ。
われらは、「広宣流布」という崇高な理想に生き抜く人生である。ゆえに、何があっても、学会から離れるな! 創価の使命の大道を歩き抜け! さあ、千載に輝く広宣流布の大闘争の幕は上がった! わが同志よ! 朗らかに、足どりも軽く、今日も、使命の道を行こう。 さあ、仕事を続けよう!