色清浄句 伊豆八十八ヶ所歩き遍路

月に1回の伊豆八十八ヶ所霊場巡りの
個人的巡礼記です

2順目 第3回 前半その②  2013-11-17  発端丈山 畠山国清の乱

2013-11-19 09:58:26 | 伊豆八十八ヶ所巡拝記録
前記事からの続き

10:55分 益山寺出発

貴重なお話を伺うことが出来たことに感謝しながら、益山寺境内敷地境の左側に沿って「城山―発端丈山―三津浜ハイキングコース」本道合流点を目指す。

ここからの行程は、下に記載したURL『ヤマレコ』の「山行記録」を先ず見て戴ければと思う。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-372673.html

参考までに伊豆の国市観光商工課提供のコースガイドのマップを添付する。サイトのURLは下記。
http://hellonavi.jp/walker/beginner/documents/katsuragiyama.pdf


↓益山寺観音堂を右下に見ながら進む(伊加麻志神社脇からも道がある)

↓城山ハイキングコース本道から、通称「益山寺への分かれ道」として認識されている。

↓途中 趣のある山道

↓程なく城山ハイキングコース本道に合流


そもそもなぜ発端丈山に登るか?

旧第8番航浦院への一つの経路であること、山頂から見る景色は評判であること、は勿論であるが、この山が中世伊豆の歴史の中で表舞台に登場した古跡であるというのが一番である。

発端丈山が歴史に登場するのは二回ある。
一回目は14世紀半ばの畠山国清の乱の「三津(みと)城]」であり、二回目は北条早雲の「三津新城」である。

筆者は四国の田舎で18歳まで過ごしたが、そこでも中世から残る古戦場・城郭跡はある。ただ伊豆の中世の歴史は、日本史のメージャーな中央政界の闘争史をダイレクトに映す。伊豆在住の方は当たり前かもしれないが、よそ者にとっては、伊豆中世の歴史は鎌倉との関係が非常に濃厚で、大変興味深い。

 なぜ伊豆はさほどまでに中世日本史のメジャー舞台となり得たのか?そして、畠山国清とは、又この戦闘はどう展開したのか?少し調べてみたので、ここからは暫く説明文書風に記載する。

 なお、ここからの内容は、記事終盤までは「畠山国清を巡る歴史」と「畠山国清の乱の戦記概要」なので、ご興味のない方は飛ばして戴きたい。

1.中世における「伊豆」の軍略上の意味

先ず第一は鎌倉との関係での戦略上・地勢上の要因である。
鎌倉に行くとお分かりになるが、休日車で市内に入るのは容易ではない。山に囲まれた鎌倉は、幕府開闢以降に何本かの道が開削されたものの、それらは江戸時代までハイキングコースの様な道であり、正に「天然の城砦都市(ブルグ)」である。

大量の兵力・物資を陸送で街中(昔は「鎌倉中」といった)に送り込むのは相当に難渋したはずである。かって鎌倉幕府討伐戦の新田義貞は稲村ガ崎(西の海岸線)から、大潮の干潮時を待って市内に突入した。

この鎌倉の軍略上のアキレス腱は、南に開いた海岸線、即ち由比ガ浜であり、ここへの上陸作戦である。
西からの遠征部隊が鎌倉に至るには、「箱根越え」、「御殿場越え」、「甲州街道小仏峠越え馬入川ライン」の3ルートが一般的であるが、「沼津~修善寺~大見川沿い~冷川峠~伊東(or網代)~水軍」というルートは十分在り得る。

因みに冷川峠の標高は360m。登り降りはなだらかである。戦闘勃発時の陸上ルートの戦略ポイントがどういう状況になるかによって、北伊豆のこのルートは「鎌倉に直結する進軍ルート」になり得、鎌倉府にとって脅威となり得る。

二番目は城郭・館の資材算出地であったこと。
鎌倉幕府の多くの建築木材は伊豆から切り出されたものだと言われている。第二回のブログで記載した大見郷も田畑は少ないが、木材の切り出し地であった。大木の丸太を鎌倉に運ぶには陸上輸送よりも河川・海上輸送の方が遥かに便利である。

又、伊豆は良い石が取れる。江戸城の石垣の多くは伊豆産の石で、主として安山岩系の「小松石」とも言われる。鎌倉・室町の時代でも伊豆の石は貴重であったと想像される。

三番めは「金」である。
江戸時代には厳格な幕府直轄管理の下で,掘削技術向上により飛躍的に算出量を増やした「土肥金山」が有名であるが、伊豆は昔から「砂金」の産地であった。

本当の金持ちは多くの場合金持ちであることを隠すか、富の源については口を拭う。北条氏も、歴代伊豆守護も、後北条氏も密かに砂金採取に注力していたに違いない。

他にも色々あろうが、鎌倉府、更には後北条氏の小田原にとっても、伊豆の地は最重要「戦略拠点」であった。

因みに室町時代の伊豆守護は、石塔義房(足利の傍流)-上杉重能-高一族-石塔義房-畠山国清-高坂氏重(基氏 岩殿山の戦の事実上総大将)-上杉能憲(以降 山之内上杉氏の世襲)と続く。多くが鎌倉府を守るべき責任者「関東管領」との併任であり、鎌倉府との一体性は極めて高い。

益山寺、そして第3番最勝院、第10番蔵春院、そして次回以降の「江間」の寺々もこういう伊豆中世の政治軍事状況の中で、歴史の中に残された一滴のモニュメントと思えば、「色」の濃い遍路行が一層楽しくなる。

2.畠山国清とは

彼は源氏の嫡流筋に近い名族「足利」血脈を持った超一級の名門武士である。
少し見づらいが、畠山氏を中心とした系図を作成したのでご覧戴きたい(一部省略図)。


「清和源氏足利流」となっており、一見斯波氏・細川氏などと並んで足利氏一門の中で本流に近い家系に見える。ただし、系図でも記載した様に、本来の「畠山」は桓武平氏良文流秩父平氏である。表上、右上に(畠山)重忠とあるが、彼まではそうである。

畠山重忠はご存知の方も多いと思うが、源平の争乱で源氏方に呼応し、戦では大活躍、武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」とまで称される程の人物。歌川国芳の「鵯越えで馬を背負う武将図」源氏武者はこの重忠である。畠山氏の系図の中で最大のヒーローである。

そして歴史上のポイントは、この重忠の正妻は、北条時政の娘であり、即ち北条政子の妹だということである。

だが、残念なことに、こういう誰からも羨まれるヒーローは、現実の組織社会では必ず妬み・嫉妬に往く手を阻まれる。北条家内部の権力闘争に巻き込まれた重忠は、元久2年(1205年)6月、二俣川の戦で命を落とす。実質的に自刃であったとも言われている。享年42であった。

後家となった北条時政の娘は、この後、足利本宗家二代目義兼の庶長子・足利義純と婚姻し、畠山重忠旧領と畠山の名跡を継承した。

歴史記述上は、〈これを以って「平姓畠山」は「源姓畠山」となった〉と記述されるのであろうが、北条氏滅亡後も、北条氏縁の地「伊豆の江間」と深い繋がりを切らさなかった南北朝期の畠山氏の「血」の為せるところは大変興味深い。第4回の記録の際に詳述できると思う。

国清の人物像については、余り好感を持って記載された記述には出会わない。彼の生誕・生年月日は不詳とされ、幼年の頃について書かれたものには未だ出会わない。

だが、「建武の新政」時、足利尊氏に従って颯爽と登場し、あれよあれよと言う間に権力の階段を登りつめた。室町幕府開闢以降、観応の擾乱までの15年ほどの間に、足利尊氏の従臣の中で、足利直義(尊氏の実弟)、高師直に次ぐ№3と思しき地位にまで出世した。

概略の年表を作ったのでご覧願いたい。


観応の擾乱(じょうらん)で足利直義側に組し和泉・紀伊・河内の守護を剥奪された以外は、足利尊氏存命中は実に見事な武家人生であり、超エリートである。足利直義派からの転進もあざやかでその復活劇は神がかり的でさえある。

彼は恐らく、人生の殆ど全ての時間とエネルギーを足利尊氏という稀代の武者大将に尽くしたのではないか?尊氏も又彼を相当可愛がったはずである。そうでなければ、畠山氏の庶流※であり、普通の能力で普通のことをやっていたのでは、田舎の一武将がこれほどの栄達を遂げることは在り得ない。
 ※本来の宗家は二本松畠山氏の畠山高国-国氏の系統。観応の擾乱後、国清の系統が宗家となった。

 彼の人生が狂ったのは、尊氏死後である。まず間違いなく上杉氏-足利基氏-足利義詮の策謀にまんまと嵌められたのであろう。

こういうエリートはいつの時代にもいる。身を粉にしボスに仕えどんどん成果を上げていく。本人には人並み優れた知力・体力・決断力・勇気は備わっておりボスの命令には絶対服従でどんどんと期待に応えていく。

功成り、地位も財産も名誉も築いたが、ボスが代替わりした途端、世代交代の変化について行けず、過去の栄光と身についた財産と名誉に拘わり、現実の権力闘争に対し脇が甘くなりやがて厄介者払いをされる。

現代の日本の企業社会では、こういう場合「老兵は去り往くのみ」と言って副会長か顧問で扶持をもらい悠々自適の晩年をおくるのであるが、国清はそうはしなかった。既に出家し阿波入道と呼ばれていたにも拘わらず・・。

3.「畠山国清の乱」の政治的背景

繰り返しになるが、この時点で恐らく50歳近い室町幕府創設の功労者の一人畠山国清を追い込んだのは、上杉氏-足利基氏-足利義詮の周到なシナリオがあったと考えるのが妥当であろう。京都側では佐々木導誉も絡んでいたと思われる。

そしてこの脚本を書いたのは、上杉憲顕であろう。義詮・基氏にとって、父尊氏の母(二人にとっては祖母)の実家の当主である上杉憲顕は、親族関係上の繋がりに加え、幕府内・足利一門の家宰上の関係もあり、非常に濃い人間関係関係が出来上がっていたと想像される。
二人にとって上杉憲顕は、藤原の血を引く魅力的で強い信頼の置ける、頼りがいのある人物であったに違いない。

義詮・基氏の二人が目指した政権の理想は、鎌倉幕府が採った御家人達の意向を忖度しながら纏めていく比較的緩やかな封建体制から、足利の意向をより強く反映した足利王権政治を目指したとされる。二人とも足利一族が一つに纏まり強い政権を築いて国内の戦乱を鎮めたい、そう思ったはずである。

残念ながら二人とも若くして夭逝し、その意思の実現は果たせなかったが、これをいみじくも、次の三代将軍「足利義満」は、己を「日本国王」と称されることで現実のものとしようとした。この流れでこの政変を捉えないと大きな流れも見えないし、その後の足利幕府の動きも読めないと思う。

 尊氏の居なくなった後、京都では国清の盟友「細川清氏」が、そして鎌倉では「畠山国清」が、先代当主の影をバックにして専横・傍若無人振りを呈した。若き将軍の兄弟にとっては、感情的な反発以上に幕府運営上の強い危機感を抱き、共同行動を採らせたのではないかと想像する。

南朝勢力の抵抗の終焉もある程度視野に入る中で、自分達の代での足利幕府組織強化のためには、腕力とケンカは強いが文官的才能に欠け、クールな政治的調整能力も劣り中々言うことを聞かない旧世代の大物軍人政治家は、新体制の「癌」として直ちに排除すべきと決断したと想像する。

一方で、上杉憲顕は、前記の通り若き将軍兄弟からの厚い人間的信頼に加え、藤原の血を引く高い政治的能力・文官的知識教養を有し、加えて幾度とない修羅場を潜り抜けた経験と突破力を身につけていたと想像される。

確かに、畠山国清は旧直義派武士からの反発、武家集団の基盤の弱さが指摘されている。それはそうであろう、尊氏存命中は徹頭徹尾ボスの意向に沿い、足利宗家と国人衆との軋轢を背負い込む役回りを負わされていたのだから。

上杉憲顕のクールさは、旧直義派の反尊氏・反畠山国清のエネルギーを巧みに操り燃え上がらせこれを畠山国清個人に向かわしめたことである。旧直義派と旧尊氏派の政治的二元論でこの状況を語る史家が多い様に思うが、関東の武士階級の旧直義派の反国清のエネルギーは、足利新執行部権力強化のために巧みに利用されたと見るのが本当のところではないのか?

 いつの時代でも、どういう組織でも、強い力を残す反対勢力を潰す場合の筋書き作りは、極少数の人間が密かに決め進めていくものである。政治でも大企業の人事でも同じである。追い落とされる人間側に極力気ずかれない様徹底した秘蜜主義と連帯の中で進められ、突然、正式な場面で逃れの様の無い形で最後通牒を突きつける。

現代社会で言えば、自民党総会での動議、大企業でいえば取締役会での解任動議である。但し多くの場合事前に情報が漏れ、闇から闇へと葬り去られる。これが成功するのは、恐らく、倒すべき相手が傲慢になり油断が生じている時、即ち「脇が甘くなっている時」か「呆けが来た時」しかない。そうでないと普通気づかれる。

畠山国清にとっては、水面下で進む策略に恐らく気付かなかったか、あるいは、直前9月23日に京都の盟友「細川清氏」失脚事件を受けても同様のことが自分に降りかかるとは想像出来なかったのではないか?康安元年(1361)年11月、突然、基氏から屈辱的な命を受けた。

国清にとっては、「自分の子供と同じ世代で自分が支えてきたご本家の御曹司、自分に歯向かうはずもない」と思っていた人間に、人生最大の屈辱を味あわされたのである。

 筆者の経験からいうと、こういう状況に追い込まれた人間が選ぶ路は二つに分かれる。
一つは、「これが自分に定められた運命」として時間をかけ納得する方に向かう路。もう一つは、人間とりわけ「男」の本能とでもいうべき縄張り保護本能を滾らせ、闘争本能のままに裏付けの無い高揚感に支えられて戦いを挑む路である。

国清は後者の道を進んだ。後から見れば、若き将軍の兄弟と天下無双の参謀上杉憲顕相手に勝ち目は無いはずである。なんであろう?権力者と言われる人物が窮地に追い込まれると採る典型的な行動パターンである。

そして、国清は反抗の拠点を伊豆に求めた。伊豆は勿論国清の守護職領であり、突然の政変で遠くまで行く物理的余裕もなくこの地での「反抗」ということになったのであろうが、国清が最も頼れ、そして「母の懐」に抱かれる様な安心が得られる場所が中伊豆であったと想像する(次回か次々回の中伊豆「江間」訪問時に改めて触れる)。

上記の通り、伊豆と鎌倉の地政学的な関係、政治的な状況も然ることながら、精神的に強く追い込まれ「死」を覚悟しなければならない様な局面に陥った人間(特に男)は、そういう本能的で感覚的な行動を採ることが多い。
基氏-上杉連合は国清のこの行動パターンまで読んで仕掛けたに相違ない。一級の策謀とはそういうものである。

以上が、「畠山国清の乱」の実態だと私は考え、納得している。

 これを裏づけるものとしては、この戦の結末、そしてその後の「畠山一族」の変遷である。
戦線終息直後、基氏は、正式には国清の首は求めず、共に抗戦した国清の弟義深に対しても寛大な措置をとっている。又、一族の郎党に対しても苛烈な仕置きは為されず、女・子供に対する血生臭い殺戮も記録ない。

弟 畠山義深は4年後、貞治5年(1366年)、越前守護として復活し、その後義深宗家は応仁の乱までに幕府本体の三管領家に一つ(斯波・細川・畠山)にまでなる。又、戦で詰め腹を切らされた数少ない一人である畠山の家人遊佐氏も暫くして再興した。

基氏-上杉にしてみれば、この戦は旧直義党派の「恨」・「広汎で大きな政治的うねり」に乗ったということではなく、足利幕府鎌倉府における権力移行・確立の「政治ショー」の意味合いが強かったと見ざるを得ない。

弱まったとは言え南朝の勢力も残り、ただでさえ複雑な政治情勢の中で、北朝内部の揉め事は極力小さい内に手早く消すという政治の鉄則も図られている。中々のリアリストたちである。

4.実際の戦闘

この項、記載内容は、特段の注無きものは下記著書からの要約。
『2013.4 黒田基樹 編 「関東足利氏の歴史 第1巻 (足利基氏とその時代)」 第3章 〈畠山国清の乱と伊豆国 / 杉山一弥 執筆) 戎光祥出版』

論文では、畠山国清が康安元年(1361年)11月に伊豆に立て籠もり、同月、足利基氏は東国のそれも旧直義党の国清に反感を持つ武家向けに軍勢催促状を発し、実際に東国武家による伊豆出兵が本格化したのは、翌康安二年(1362年)3月とする。

これに対し国清は、三戸(みと)城、神益(かみやまし)[or神餘(かみあまし)城]、立野(たちの)城の三ヶ城に要害を構えて武力抗争くり広げた。

なお、上記城名は、一次資料の軍忠状や感状での表記。『太平記』では、この三城はそれぞれ、三津城、金山城、修善寺城と表記されている。

戦線は、三城同時ではなく、三戸城→神益城→立野城と巡に南下して行ったとされる。

上記論文には兵力についての記載はないが、畠山軍:500騎前後 鎌倉方軍:多くて1000~1500騎程度ではないかとの見方が有力の様である(筆者)。

(1)三戸城合戦
鎌倉方:常陸中村氏 相模波多野氏

論文では、「(1362年)3月12日、波多野高道は、三戸城に近接する「古奈湯下」に陣取り、翌朝卯の刻にはさっそく野臥合戦をし、同28日には三戸城麓へ攻寄せて散々合戦した。この軍事行動には中村定行も加わっていた。」とある。

以下、筆者の私見
「古奈湯」とは、恐らく伊豆長岡温泉の古奈地区であろう。伊豆八十八ヶ所第12番札所「長温寺」がある辺りである。

この辺りに陣を構えて戦闘にでたとすれば、現在の伊豆の国市「長岡」地区から「長瀬」地区にかけて広がる平坦地での野戦であろう。さらに三戸城山麓とは恐らく、「長瀬」地区から長瀬川沿いの登坂路(沢)一帯が想定される。この登坂路は現在の「発端丈山登りハイキングコース」が当るのではないか?

以下に、この情報を基に、筆者の独断で戦闘概略図を作ってみた。大体のイメージである。左上のゾーンが「三戸城」戦、右下が「神益城」戦であり、上記の通り同時戦ではないが、1枚の図とした。



三戸城合戦では、恐らく、海側の三津浜方向からの攻撃もあったのではないかと推測される。

論文では、この三戸城合戦は約1ヶ月続き、(1362年)4月13日「焼落」したとされる。

筆者の考えでは、この城の軍事上の意味は、A.沼津・三島側からの攻撃に対する「物見」 B.三津港or江浦港からの軍需物資の平坦確保 C.先ず神益城が攻められた場合の側面攻撃の基地 であろう。

鎌倉方は、恐らく規模が大きく攻め難い神益城ではなく、小ぶりで補給路を断つことになる可能性が高い三戸城をまず攻めたということであろう。

(2)神益城合戦
鎌倉方:常陸中村氏 相模波多野氏 上野岩松氏 加勢:高師有

論文によると、「神益城合戦が本格化するのは前述(1362年)4月14日の三戸城「焼落」後であろう。神益城合戦には、上野岩松氏らが出兵していた。岩松直国は、2月21日、足利基氏から「白幡一揆、上野国藤家一揆・和田宮内少輔」らとともに神益城へ向かうよう軍勢催促されている」となっている。因みに「一揆」とは「グループ」・「党」という様な意味。

同「伊豆国へ出兵した岩松直国は、5月24日、畠山勢による夜討を退けたが、「無勢」を理由に「新手」の派兵を要請している。この岩松直国の発言からは、神益城における畠山勢の軒昂ぶりが明らかとなる。しかし翌6月、高師有?らの加勢が伊豆国に参着すると、神益城合戦は一気に展開した」となっている。

同じく論文によると、(1362年)6月21日付けで足利基氏が岩松直国に発給した書状に、前日6月20日に神益城の開城手続が混乱なく終り、直国らがそのまま立野城に向かったと窺わせる内容のことが記されているとなっている。

鎌倉方の主力は、恐らく大仁側からの攻撃であろうが、先に落とした三戸城側からの攻撃もあったのではないかと考えられる。

神益城は、古城研究家の間ではかなり大規模な構えを持った遺構であることから、畠山軍の軍勢(500騎程度)では守り切れず畠山軍築城以前から構築された部分、あるいは後北条氏が手を入れた部分がかなりあるのではないか?という説もあるほど本格的な中世の山城である。切り立った東面岩壁と併せ、鎌倉方には強い印象を与えたのではないか?

神益城城郭のイメージを掴むため、古城のサイトからお借りした図を載せておく。


現地詳細記録が下記URLに載っている。
http://www.geocities.jp/shyonan_aki64/kanayama.htm

(3)立野城合戦
鎌倉方:常陸中村氏 相模波多野氏 上野岩松氏 高師有? 加勢:武蔵豊島氏

以下に、上図と同様、筆者の独断で戦闘概略図を作ってみた。大体のイメージである。鎌倉方軍は、南方-現在「元修善寺城(城山)公園」への登坂道となっている道の方向から本丸を攻めたと想像する。本丸南側に交戦の碑が建てられているとのこと。


上記論文では「さて、立野城は、狩野川と桂川の合流点にある要害である。そしてその城名に鑑みると畠山勢は、山頂のみならず山麓にも軍陣を展開していたといえる。その立野城での合戦は、畠山国清の降伏によって終焉を迎えた」とある。

さらに、降伏の時期は、前記常陸中村氏の軍忠状に『(1362年)9月』の日付があることからその時であろうとなっている。

参考までに、神益城と同様に城の概念図と参考になるサイトのURLを載せておく。

http://www15.ocn.ne.jp/~castle04/syuzenji.html

5.おわりに

 上記 杉山一弥氏の論文には、以下の記載がある。
「(この年)9月15日は、武蔵国入間川陣の足利金王丸(のちの氏満 基氏の嫡子)の警護強化、足利義詮から上杉憲顕への畠山氏討伐の終息予告、が行われている。又9月には足利基氏が箱根山に着陣したとの所伝もある。これらは畠山国清の降伏にともなう諸事態への対応であろう。
畠山国清の乱は、箱根御陣における遊佐氏(畠山氏被官、伊豆守護代の家格)の誅殺をもって終結とされた」となっている。

足利義詮-足利基氏-上杉上杉憲顕の幕府新執行部による、旧首脳部の排除は見事成功裏に終り、新体制強化への推進強化図る一方で、権力移行の軍司・政治ショーが箱根山の基氏陣屋で行われたということであろう。

 その後の畠山国清は、数年後、今の奈良県で野垂れ死に同然に亡くなったともいう。又、『太平記(巻38)』によると、「時衆(時宗)」の手引きにより時宗寺院を転遷したともある。

確かに仏教的に言えば「因果応報」なのかもしれぬが、すべてを失った畠山国清がこの逃亡劇の中で、何を思い、自らの魂を何処に置こうとしたかが、14世紀 穏やかな中伊豆の地で起きた戦いの本当の意味を教えるものではないかと思う。

若し国清が敗残逃亡の境遇の中で、嘗ての己の心を「驕慢」・「妄執」・「貪り」と客観的に見ることができ、身が震え涙が止まらない悔恨の情に導かれて新たな境地を開いていたとすれば、この戦いで亡くなった兵達も真に救われ、仮に国清自身がどのような最期を迎えようとも、魂は『清浄』とした世界に戻ったのではないかと思うし、そうであったと心より願いたい。

【この項の参考文献】
『1977.3 国学院大学紀要15巻 小川 信 論文「足利一門守護畠山国清の動向」』
『2013.4 黒田基樹 編 「関東足利氏の歴史 第1巻 (足利基氏とその時代)」 第3章 〈畠山国清の乱と伊豆国 / 杉山一弥 執筆) 戎光祥出版』


 さて、余りにも本題から離れ過ぎ、重い内容になってしまった。いささか疲れてきたが、話を元に戻そう。

以下発端丈山登り・下り

 「城山―発端丈山―三津浜ハイキングコース」本道合流地点から頂上までは、道は良く整備され、多少勾配のきついところもあるものの、トレッキング初心者でも楽しめるものとなっている。



11:16 発端丈山山頂到着 益山寺から21分 約1.2Km(水平距離)

ここが、「三戸(三津)城」主郭跡である。
益山寺との距離感から言って、畠山方と鎌倉方との実際の戦闘時には、益山寺は畠山方の指令本部か指揮官御在所であった可能性が高い様に思う。
参考に城郭跡探訪記録サイトのURLを載せておく。
http://www.geocities.jp/shyonan_aki64/mito.htm
↓写真の撮り方が下手だが、沼津側の展望(遠くに富士山が見える)

↓駿河湾「西浦海岸」方向の展望


652年前の冬、樹木の姿は異なるが、この写真の景色と同じ景色を畠山方の兵士は見ていたのである。命を賭した戦いを目前にしたかれらの心にこの景色はどう映っていたのであろうか?

11:21分発端丈山山頂出発 山頂には5分ほど滞在しすぐ降り始める。下りはかなり傾斜がある。


暫く進むと見晴らしポイントがある。山頂よりもむしろこちらの景色の方が素晴らしい様に思う。


更に進むと尾根を削った様な少し平らな場所に至る。筆者は物理的な城郭跡に余り執着は無いので、この遺構が後北条氏が構築した「三津新城」なのか「三津城北砦」なのか判らないが、研究家のサイトを拝見すると「三津城北砦」の様である。

但し、そのサイトの研究者の方は、「構造から言って後北条の時代のものの可能性が高く、この先にあった後北条氏構築の「三津新城」と連関したした砦跡ではないか」と言う。
参考に同サイトのURLを挙げておく。
http://www.geocities.jp/shyonan_aki64/mitojyoukita.htm
http://www.geocities.jp/shyonan_aki64/mitosinjyou.htm


何れにしても、後北条氏の祖である北条早雲が、西暦1500年直前に伊豆を平定し、中伊豆韮山に拠点を構えて伊豆を支配下に置いた。
然るべき研究資料は調べてないが、「三津新城」・「三津城北砦」は、永禄3年5月(1560年6月)の桶狭間の戦いで破れた今川氏が勢力を失ったために流動化した駿河に、その触手を伸ばした武田信玄との戦いに備えて設けられたする説が一般的の様である。

まあそうなのだろうが、戦国時代、日本の多くの水軍は帆別銭(ほべちせん=通行税)を徴収し経済的基盤とし、いざ戦いの際に主君筋に与力出きる様体制を整え、勢力を拡大して行った。筆者の田舎の村上水軍はその典型である。

前記の通り、三津一帯の海岸線は岸からそのまま水深の深い海になっていて、鎌倉時代から天然の良港として栄えた。その中でも江浦(えのうら)は、今川氏施政下の期間が長かったが、京都・西国と鎌倉・坂東を結ぶ海上物流の重要な拠点として栄えたことが記録としても残っているようである。

後北条氏の盟友今川氏との連携がどうであったかは詳らかではないが、北条早雲以降の当主、そして直接の港の支配を任された一族は、まず間違いなく戦国期の海上物流に深くコミットしていたに違いない。
実際の軍船の基地が下の地図の長浜城で、北駿河湾を航行する船舶の監視を「三津新城」乃至「三津城北砦」が担っていたのかもしれない。

勿論、武田氏と後北条氏とは幾度となくその水軍が駿河湾で戦った記録があり、発端丈山の砦の物見としての役割は重要であっただろうし、長浜城下の港から多くの後北条水軍船が海に漕ぎ出して行ったことは間違いなく、又、武田方の沼津城と対峙する最前線の城でもあった。
参考サイトhttp://www.sengoku-shizuoka.com/topix/001448/

なお、発端丈山の「三津新城」乃至「三津城北砦」は、実際の戦闘が行われることはなく、豊臣秀吉の北条攻め以降捨てられた。


さてこの「三津城北砦」跡を越えた付近から、道は益々傾斜を強める。更にここ2~3日以内で降った雨が積もった落ち葉を濡らし、木立の間の道は陽射しが弱く道はかなり滑る。

「三津城北砦」跡の少し平らになった部分から少し行ったところに、「三津北口」方面に降りる道と「長浜口」に降りる道の分岐がある。写真は撮らなかったが、表示板がある。

筆者は、内浦港で昼食にしようと思い、「三津北口」方面の道を選択した。翌日、「長浜バス停」の向かいにある「伊豆三の浦観光案内所」のおばちゃんに、「下り道は「長浜口」に降りる道が富士山を見ながらの道であり一番のお勧め」と教えて戴いた。もし再度来ることがあれば、今度は是非そのルートを辿って見たいと思う。

因みにこの記事の最初に掲載している伊豆の国市観光商工課「コース地図」の表示は「長浜口」ルートである。

進むにつれ傾斜は一層きつくなり、緩やかな所が少ない。蟹の様に横歩きで降りるか、木立に捕まりながら歩を進めて行かないとステ~ンと滑って背中から地面に叩きつけられる。筆者はジョギングシューズの様な普通の運動靴だったせいもあり、5~6回は滑った。昼飯の時リュックを見たら泥だらけであった。

更に下るにつれ傾斜は益々急になり、「三津北口」の登り口から少し上がったところまで、道沿いにロープがずっと張られていて、これに捕まりながら、12:00過ぎ、何とかハイキングコース入り口まで辿りついた。但し、このロープはかなり緩んでいてこれに頼り切ると痛い目に遭う。


かなりきつかった。息が苦しいというのではなく、自分の体重を足の太ももの前側の筋肉で支えながら歩いたため、平地歩行に移ってからも暫く脚がヘナヘナしていた。


12:17 三津内浦漁港到着 発端丈山山頂から56分 約2.0Km(水平距離)


ここでお昼ご飯。今日は本当に天気に恵まれ、穏やかで明るく爽快な西伊豆の港で、カモメの鳴き声を聞きながら自作の弁当を食べるのは最高の幸せである。有難いことである。


港の岩壁では親子連れ一組が釣りをしていた。小学校低学年ぐらいの女の子も釣竿を握って熱中している様であったが、7~8cmの小魚が釣れるたび「パパ とって~!」と叫び、お父さんは都度イソイソと釣れた魚を針から外してあげていた。何とも微笑ましかった。

この記事も相当長くなったので、以降は次の記事とさせて戴く。
次記事「2巡目 第3回 前半 その③ 2013-11-17 西浦海岸  旧第8番 航浦院」に続く。



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