熱くなれ!阪神タイガース

新戦力も入り、若手も育ちつつあるタイガース。
V奪回なるか!?

1・17 あの日のワシ

2006-01-17 08:32:16 | 人生

ワシは11年前震災に遭った。

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当時、ワシは西宮市内の東部、実家マンションで母親と2人暮らしであった。
7階建ての3階に住んでいた。近くをJR東海道線が走っている。
ワシは大阪・梅田のソフトウェア会社に勤務していた。

あの時間、とんでもない揺れで目が覚めた。
『地震か、エライでかいな、うわっ!これは大きい』
揺さぶられるような揺れとはこの事であった。
半身起き上がったが、ベッドの縁を持って支えるのが精一杯。
暗がりの中、ワシの目の前で本棚とCDコンポが揺さぶられて倒れていった。
本棚2本とベッドを【コの字型】に配置していたので、こちらに倒れてこなかったのが幸いだった。
リビングのほうから、食器棚が倒れて食器の割れる音がする。
窓の向こうから、JRの電車か汽車か、警笛を鳴らし続けている。

どれくらいの時間だったか。揺れが収まった。
『おいおい、なんやねんこれは。部屋の中無茶苦茶になってしもた』
何気に窓の外を見たら、白かった。
後から思えば、周囲の家屋が倒壊して発生した砂埃だったのであろう。

電気が付かない。当たり前だ。
咄嗟に風呂場の水道の蛇口をひねった。水が出る。今のうちや。風呂釜に水を貯めた。
日が昇るのを待って、部屋の片づけを始めた。度々来る余震が気味悪い。
リビングの飾り棚、食器棚、中の食器、全部やられてしまった。
台所にあった【サバの味噌煮】の入った鍋が床にこぼれ、臭いが篭っている。
奇跡的に炊飯器が転んでなかった。予めタイマーで炊飯を仕掛けておいたのが炊き上がってた。
この日の貴重な食料となったのは、言うまでもない。

親父の遺影、額縁のガラスが割れた。
母親が掃除しながら涙声で遺影に語りかけた。
『お父さん、良かったわ、居なくて。こんな目に遭わなくて済んだやないの』

片づけをしながら、トランジスタラジオに耳を傾け続けた。
震源が淡路島、神戸で震度6と伝えている。それ以外の情報がなかなか入ってこない。
【十三大橋(注:淀川に架かる大きな橋)が一部陥没した】と伝わってきた。
そのうちラジオは【阪神高速神戸線が落ちた】と伝えてきた。想像もできなかった。
ワシの家の周りは、火災が発生しなかった。家屋の倒壊も殆どなかった。
隣の家が完全に倒壊したが、空き家だった。不幸中の幸いであった。
だから、まさかその頃【西の方が地獄になっている】とは思っていなかった。
ワシも無知であった。止まっている電気・水道・ガス、そのうち復旧すると思っていた。

片づけを終えて『食料や水を確保しなきゃ』と思って、外に出た。
スーパーなど何処も開いていない。行きつけの酒屋兼コンビニに行ってみた。
店頭であらゆる物を叩き売っていた。買える物、とりあえず掻き集めて買った。なぜかビールも買った。
そういえばタバコ吸ってないなと思い、公園のベンチで吸った。
この時点で、まだ【西の方が地獄になっている】のに気付いていない。

ラジオが被害状況を伝えている。死者・負傷者の数がドンドン増えている。
あらゆるところで建物が倒壊している。火災が消えないと伝えている。
とんでもない事になっとるな、とやっと気付いた。寒気がしてきた。
最寄り駅の駅前のビルが倒壊してる、とラジオが伝えた。見に行った。信じられない光景であった。

日が暮れた。電気は付かない。暗闇で夜を過ごすのかと思うと辛かった。
そうしているうちにベランダから外を見れば、遠くのマンションの部屋に明かりが灯っている。
【電気が来る!】 安心した。そうしているうちに、ワシの家の明かりも点いた。
後から聞けば、西宮市内ではワシの住む地域が電気の復旧が早い方の部類であったそうだ。
TVを付けた。画面に地獄が拡がっていた。
この時、生まれて初めて【死】を意識した。【ワシも死と背中合わせ】と知った。

朝の炊飯器のご飯と、缶詰を食べながらビールを呑んだ。
母親に『こんな時くらい呑むな』と窘められた。もっともな話である。
しかし、震災報道を見ながらビールを呑んでも、酔わない、酔えない。
結局、寝ずに夜を明かした。TVから目が離せなかった。

翌朝、とりあえず阪神電車が甲子園~梅田間を運行再開するとの事。
とりあえず梅田に出よう。会社に顔を出しとこう。電車に乗る前に、サンスポを買った。
1面は【芦屋で被災した村山実さんが、自らも救助活動に参加】であった。
サンスポ、こんな時でもタイガースネタか。

会社に着いたが、する事があるわけでもなし。安否の報告だけ済ませて退社した。
梅田の街を歩いた。食べ物屋が、パチンコ屋が、ゲーセンが、何もなかったかのように営業している。
僅か15km西に離れると地獄があるのに、この違いは何だと思った。
そう思いつつも、牛丼屋に入って牛丼を食べた。いまいち喉を通らなかった。
早く帰ろう。母親が余震に怯えながら待っている。

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ワシは確かに震災に遭った。だが自分を【被災者】とは思っていない。
確かに家財道具はやられた。不便な思いもした。
しかし、家は壊れていない。下敷きになったわけではない。火災にも遭っていない。
ワシも身内も怪我をしたわけでもなければ、まして死んだわけでもない。
世の中、ワシ以上に大変な目に遭われた方が何千何万と居られる。
そんな方々とワシを【被災者】などという言葉の括りで同列にするわけにはいかない。

だからワシは【被災者】では、無い。

そういえば、スポクラの友達が家の下敷きで亡くなった、と大分経ってから聞いたが。。。。

ただ、これまでの人生の中で最も強烈な記憶である事だけは確かである。
4月頃あたりまで、好きな競馬もする気がしなかった程である。

あの日の記憶を、忘れない為にも書き残しておく事にした。



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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あの日・・ (ひかる)
2006-01-17 22:01:48
ニュースを見るたびに犠牲者の数が増えていて・・

背筋が凍るような思いをしたのを思い出します。



忘れちゃいけないことがたくさんありますよね。。

【今】を大切に一生懸命生きなきゃ。

この日が来る度に思います・・。



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その通りだと思う (スチャラカ課長)
2006-01-17 22:28:45
姫の言う通りだと思うな。決してべんちゃらでもなんでもない。



>>忘れちゃいけないことがたくさんありますよね。。



あの時学んだ事、知った事、沢山ありました。



人の情け、人の優しさ。

水の手配に走ってくれた友が居た。飯を食わせてくれた友も居た。



人が死ぬ、という事を目の当たりにした。

死んではいけない人が死んでしまったんだな、と思う。

ワシは死ななかった。

生き延びるほど価値のある男でもない。

神様が【お前はもうちょっと生きとけ】と言ったんだと思う。

だから、志半ばで逝った方の分まで精一杯生きようと思う。



11年前、皆そういう気持ちになった筈だ、と思っていた。

命は大切だ、と再認識する機会の筈だった。



今日(こんにち)、虫けらのように命を粗末に扱う事件が起こる度【あの時何も思わなかったんですか?】と聞いてみたくなる。



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Unknown (0223.)
2006-01-17 23:15:50
私はあの日、ちょっと時差出勤でいつもより朝寝坊してたんですわ。

そしたら朝7時半頃、実家から電話が掛かってきて…

「大地震でエライこっちゃ」と。

逆にいつも通りに起きてTV付けてたら、パニくってたかもしれません。





今日は大きなニュースが多くて、関東では?震災の話題が4番目あたりになって

いて、ちょっとやりきれない気持ちもあります。
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サバの味噌煮 (シルク)
2006-01-18 00:02:42
1月17日のおかず、毎年サバの味噌煮にされてはいかがでしょう

子供さんがある程度大きくなるまでは【何故サバの味噌煮か】のいわれを話してあげて



子供さんが大きくなって所帯を持った時、またその子供さんに【何故サバの味噌煮か】話してくれます

震災を風化させないために市民が出来る数少ない事だと思います
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コメント御礼 (スチャラカ課長)
2006-01-18 14:57:51
>0223.さん



ご無沙汰です ちなみにJR甲子園口駅前のスナック、まだ営業してます。あれから行ってませんがね。



「大地震でエライこっちゃ」ですか。分かります。実にストレートに伝わってきますな。しかし、その時間帯によく電話が通じたもんですな。



NHKニュースでさえ、①ライブドア ②ヒューザー ③宮崎 ④震災 でしたね。まあ【去るものは日々に疎し】で、地域外の方には風化されていく出来事なのかもしれませんな、現実。



>シルクはん



>>1月17日のおかず、毎年サバの味噌煮にされてはいかがでしょう



1年でサバの味噌煮はその日だけよ、と。

いや、それは困る。私の好物だけに



>>子供さんがある程度大きくなるまでは【何故サバの味噌煮か】のいわれを話して



こんな感じですか?

『お父っつあんはね、あの日地震に遭ったので、楽しみにしてた【サバの味噌煮】を食いそびれた。地震は怖いんや。』

なんか、締まりが無いですな
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エエやないですか (シルク@仕事中)
2006-01-18 18:38:39
孫の代までギャグとしてスチャラカ家に伝わりまっせ

命日には遺影にサバの味噌煮、墓にはサバ缶が供えられるでしょう

どっかの占い(^^ゞによると私は課長を看取ることなく逝くようなので無理ですが



いや、前にもお話したと思いますが、ウチのオフクロが昭和20年6月1日に戦時動員で派遣されていた工場で空襲に遭いまして

日付が変わって帰ってきたら【豆ごはん】だったと

で、子供の頃から6月1日はずっと豆ご飯でして

人間の本能の一つである【食】がキーワードになると覚えがいいようです

ニュースに出ることもない日付ですが、しっかりと覚えております
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はじめまして。 (とらゆず。)
2006-01-19 14:17:56
スチャラカ課長さん、はじめまして。

TBありがとうございました。

あちこちでお名前は見かけてます^^



さて、私は当時京都寄りの大阪在だったため、

一時の不便で済みましたが、電気が復旧してTVに映し出された、あのボロボロの高速道路を見た衝撃は本当に忘れられません。

1X年生きて来た中で初めて「死ぬかもしれない」と思いました。

揺れ終わった瞬間の不気味な感じも肌で覚えてるんですよね。

今でも少しの揺れでも過剰に反応します(涙)。



街はきれいになっても、忘れてはいけないこと、伝えなきゃいけない事は沢山ありますね。
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コメント御礼 (スチャラカ課長)
2006-01-19 14:59:38
ご来訪&TB有難うございます>とらゆずさん



そうですか、あちこちで見られてしまってましたか、お恥ずかしい



>>街はきれいになっても、忘れてはいけないこと、伝えなきゃいけない事は沢山ありますね。



誠に仰る通りかと。

街がきれいになるのは勿論大切ですが、それは逆に【震災を後世に伝える風景】がなくなるという事ですね。記憶は風化させてはならない、という事だと思います。



#追記:おいも薩摩隼人やっで。【かごんま】の血が流れちょっど~
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