実の親による子に対する虐待が後を絶たない。暴行を加える、育児を放棄する、果ては命を絶つ・・・。目を覆いたくなるような惨事がくり返される。
「実の母親なのに・・・」と批判することはたやすい。しかし、我々は問題の本質を見誤っているのかもしれない。責任の所在を個人のレベルに求めてきた従来のアプローチではなく、社会レベルでの検討が必要といえよう。
ヒトの子育て■
人間の赤ちゃんは、成長が遅い。シマウマの子は生まれてすぐに歩き始めるのに対して、ヒトは一年もかかる。これはヒトがサルから進化した証でもある。理屈はこうだ。ヒトの祖先は二足歩行を始めたが、このことで母体の産道が狭くなった。このため十分な成長を待ってからの出産が困難になる。だから、早期の出産を促すようになった。「未熟児」状態で生まれるため、母親による手厚い養育が必要となる。しかし、これでは食糧を確保できず親子共倒れとなってしまう。そこで男親に食を確保する役目が課せられた。これが夫婦・家族の始まりである。
医療が発達していない昔は、出産時のトラブルで、あるいは産後の肥立ちが悪くて幼子を残して亡くなる母親は少なくなかった。その場合、実母にカわって子育てを担うのは祖父母であっただろう。昔は世代交代が早く、祖父母といっても三十代くらいだから、子育てに必要な体力も十分なので支障はない。祖父母もいなければ、親類・縁者、そして地域コミュニティで養育したであろう。
種の保存とタイムスイッチ■
一般に生物は種を保存するために生きる。生き長らえるための自然の摂理である。その方法としては、細胞分裂、種子で残す、卵を生む……などがある。ヒトの場合、新しい個体を生むタイプであるが、そのポイントは多くの個体を発生させる、外敵から身を守る、近親交配による抵抗力の減退を避ける……などである。
環境の変化にもかかわらず、生き残った生物には遺伝子情報に様々な工夫が見られる。兄弟でも性格・体質が異なるのも、その例といえよう。更にいくつか検証してみたい。
乳児の「三カ月微笑」をご存知だろうか。表情が乏しかった赤ちゃんが生後三カ月を過ぎるころに大輪の笑顔を咲かせる。思うに、これは実母でなくても、周りの大人に可愛いがってもらえるよう。他人の子どもでも可愛く感じるよう。遺伝子の配慮ともいえよう。三カ月を生き延びないと生きる望みが薄いと判断されるのかもしれないし、職場復帰(男は狩猟、女は採集)を促したのかもしれない。
さらに、「イヤイヤ期」を挙げることもできる。二歳になる頃、だだをこねたり、理由もなくむずがる現象だ。これも母子の分離を促す工夫かもしれない。いつまでも一人にかかりっきりにならないで、次への準備をせよという子の側からのメッセージだろう。クマは、子が生後一年を過ぎると、養育を拒絶する。これは、子の乳離れを促すだけでなく、新しいパートナーを見つけて、次の妊娠に備えるためという。ヒトも「イヤイヤ期」を契機に、母子の密着を解いて次の妊娠に備えよというサインであろう。これは、近親交配を避けるために娘が思春期になると(妊娠の準備ができると)父親を気嫌いするのと似ている。これらは子ども側から親に対して「子離れ」を促す遺伝子に仕込まれたタイムスイッチといってもよかろう。
加えて、タイムスイッチの範疇ではないが、種の保存に関連するヒトの指向として、「他人の芝生は青く見える」の言葉が表すように他人の境遇を羨ましく感じる。幼い生物に対して「可愛い」と慈愛の情がわき起こる。これも、実親以外の養育を可能とするための工夫かもしれない。
子育ては学習■
育児・子育てをしない母親は、母親失格なのだろうか。
人工飼育で育ったトリは産卵と卵を温めることは教わらなくてもできる。これは本能だ。しかし、卵からかえった雛を育てることはできない。それどころか敵とみなして攻撃すらするという。このことから子育ては、本能ではなく、学習といえよう。
学習なら、技量に個人差が出る。上手い下手、向き不向き……が生じる。子育てに向かない、子育てが嫌い――そんな母親がいても不思議はない。実母が子育てを放棄したら、地域社会で面倒をみればよい。
ヒトは、肉食を覚えて社会を形成してきた。形成せざるをえなかった。牛のような大きな獲物を仕留めるには仲間の協力が不可欠だし、肉食獣のテリトリーを荒らせば、逆に餌食になるおそれもあるから、共同で身を守る必要があった。
「血縁主義」との決別を…■
今、日本はかつてないくらい血縁主義の偏重に陥っている。
家の存続が重要であった頃。次男、三男…は、跡取りがいない家へと養子に出されるのが一般的であった。子どもの「融通」が行われていたのだ。
共同体での子育ては非日常化してしまった。昔は銭湯、あるいは電車内での逸脱行為には見ず知らずの大人に叱られたものだ。しかし、公共の場で他人の子どもを叱る大人をほとんど見ない。
“親”とは何か■
およそ人間は何のために生きるか。哲学的な意味はさておき、生物学的にはただ一つ。それは子孫を残すためだ。人間は単独で生きられないので社会に依拠して生きている。であれば、社会全体で子孫を残すことができれば、この命題を満たすことになろう。誰による養育かは問題とならない。
人間は、単独で生きることができないので、集団つまり社会に依拠している。ならば、社会全体が親としての責務を負っているといえよう。誰が養育を担当するかは問題とならないはずだ。養育を必要とする子どもより上の世代は全て「親」と考える。そう考えるならば、一人の親で完結するより、むしろ「産む」「育てる」「支援する」……分業制をとった方が合理的かもしれない。
個人主義より家の存続が重要であった頃。次男、三男…は、跡取りがいない家へと養子に出されるのが一般的であった。子どもの「融通」が行われていたのだ。ところが、時代は逆に動いている。
まず、核家族化の進行だ。戦後日本人はアメリカのライフスタイルを大いに取り入れた。住宅と職場の分離、核家族、電化製品などの耐久消費財を入手する労働の契機とした。大家族であれば、親類縁者との交わりは多く、地域コミュニティとの接触も頻繁であった。そのため子育てに実親以外の者が関わることが多かった。しかし、核家族となり、子育てに実親以外の者が関わるのは激減した。これに拍車をかけているのが、生活スタイル、特に住宅の変化だ。高層の住宅は地上との隔離を、密閉性の高さは隣との隔絶を促進した。いきおい地域社会から隔絶された環境での子育てとなる。血は水より濃いどころかドロドロである。
今ある社会制度を根本から見直すことは難しかろう。しかし、虐待の疑いが強いならば、ただちに親権を停止して、児童を保護する。養子縁組を促進する。といった手だては可能だろう。これまでの認識を見直し、衆知を結集して福祉政策の充実をはかるべきではなかろうか。
以上