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光秀の妻(3)

2006年03月01日 17時10分17秒 | 基礎知識
光秀の妻(5) 2003/ 2/25 15:40 [ No.113 / 453 ] 投稿者 :
takara_tuka2000

光秀の妻についてはもう1つ、伊賀の柘植(一説に名張)城主の服部(別姓・北村)出羽守保章の娘とする説が伝わっています。

出典となっているのは「明智系図(群書系図部集)」「幕府祚胤伝」「寛政重修諸家譜」あたりでしょうか(他にもあったら教えて下さい)。いずれも江戸時代半ばの編纂物です。
「明智系図」は1631年に光秀の50回忌に(光秀の息子らしい)玄琳が作成し、(やはり光秀の子孫らしい)喜多村弥平兵衛なる人物に提出したとの説明書きがあるのですが、この「喜多村」が服部保章の別姓「北村」と同一のようです。

伊賀の服部という姓、「保」という通字から、服部保長・正成(半蔵)父子の一族と推定されます。上記資料によると、家康の伊賀越えの際家康一行を誘ったものの、家康に随行していた服部平太夫正尚
(保章のイトコ;家康の側室西郷局の義父)に疑われ、成功しなかったとあります。

光秀の妻が伊賀の出身だった・・・本当とすると、本能寺の変の原因を含め、いろいろ想像をかきたてられるネタですが・


光秀の妻(6) 2003/ 2/25 16:02 [ No.114 / 453 ] 投稿者 :
takara_tuka2000

光秀の妻の父を伊賀出身とする説ですが、残念ながら「服部出羽守保章」なる人物が同時代の資料に見えないため、現時点では不明としかいいようがありません。

服部出羽守は「柘植城主」と伝わっていますが、史書に見えるこの時期の柘植城主は福地伊予守という人物です。この人物は天正伊賀の乱のおり同郷人を裏切って信長に通じ、本領を安堵されたとされています。
家康の伊賀越えの時は家康の警護に駆けつけたものの、裏切りの前科からその後同郷人にうとまれ、某所に隠遁したと言われています。

また、服部出羽守は名張城主とも伝わっていますが、名張城は1585年に筒井家によって築かれたのが最初ですから、それ以前には存在していなかったと思います。

もしかしたら、服部出羽守=福地伊予守なのかもしれませんが、単なる想像の域を越えません。ただ、かの松尾芭蕉は福地一族と言われていますので、彼が「月さびよ明智が妻の話せむ」の句を詠んだのは先祖の縁があってのことかなあ、
などと思ってしまいます。


※YAHOO掲示板の転載らしい