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金利の話と吉備美作楢原に神が天孫降臨したという古い神社の由緒 東内 チュウザン鉄銅鏡

2014-08-26 06:24:11 | 美作国 吉備国 古代史
債権も人気で金利が超・低い そして株式市場も悪くない 先日、日経新聞に入っていたチラシを見ると

大手金融機関が 住宅ローンの借り換えを勧めるチラシでして 10年固定金利が1%やや上で

10年を超えても その後1.4%~だったかな これを 見て すぐ様 電話で問い合わせた

20年固定で1.5%でも すぐに借り換えしたい希望ですよ 

僕が58歳なので 残された住宅ローンの限界は80歳までなので許される年限=21年やから

ダンシンをつければ 生命保険付きのような ものですから。

1.5%程度の固定金利なら 安心感がたいへんに高い。

変動金利の保証料込みで1%前後から1.1%程度と、

固定金利の1.5%なら 絶対に固定金利を僕なら選ぶ 2%でも それを選ぶ。



だって 6年も 米国もゼロ金利をやってるでしょ こんなんが続けられる訳はないと思いますョ

最初に債権も人気で と書いたのは ハイイールド債までも すごい人気になっていて金利は下がっているのョ

それと 日本の国の借金が とうとう1000兆円を超えて どんどん 増加しているでしょ

本来は 国債が増えれば 利息は高くなるのが普通なのではないですか 

それが 超劇的な緩和で 金利が下がり続けている

金利のことは プロではないので よく存じないが、 

相場をやる者としては 相場は上がれば そのうちに下がる日もくるのが

自然な流れで 一方通行は まず 無いんだよね そうでしょ

金利が上昇する時期が 何時かはやってくると思う

なので 固定金利も 多少高くても エエよ って 事なのですが

インフレが来たら 無借金が一番だが、 無借金よりも◎は 

固定金利の借入金を持っておいてインフレを担保したら

どないや とか 無学のくせにさ そう考えていますんじゃ

インフレが来たらと 想定したら 資源相場は必ず上がる?

物価の上昇だから 資源価格は上がるでしょ? どないや?

紙幣の価値が下がるわけだから そうなのじゃ ないの?

インフレが来たら 中央銀行は金利を上げて インフレと戦う

金利をあげたら、 住宅ローンの金利も上がって 不動産などが売り辛くなるか?

不動産が売り辛くなれば、 資源の消費が落ちる か?

むつかしいね~ 終いに、ワケが解からなくなっちゃうよね

とにかく ワケが解からなくなっても 固定金利だと 同じ額の金利を払うだけ という契約なのやな

アメリカの0金利 来年の早ければ早々、遅くとも 年末 このあと最長でも16ヶ月 その範囲と予測するのがプロたちの考え

また 大阪港 USJ前のグローバルな屑商トーナイの 東内誠 今朝も あほうな 日記をブログで書いていますね

あほやから いろんな ことを空想して 想定して 銅現物のミックスメタル・スクラップの売買を日々 1000万円平均目標で やっています

ほんまは 2000万円以上平均で 売買したいが 小資本なので 今は それしか出来ない

銅が含有したスクラップは 関西で誰よりも高く買っちゃろうと狙っています

買いまくってるの 日々

リスクも とりまくって 買っている・・・日に1000万というても 30-90日で回転ならば かなりの資金もいるんですな これが悩みの種です

場合によっては 6年も塩漬けにするものも 出てきますし・・・

この夏前は 塩につけていた ニッケルを売った ほっとしましたよ ほんま・・・

でもね 採掘可能 年数 って いうのが 地下資源にはありまして そのうちには 必ずや 資源は 奪い合いになると空想してるのワシ。

ただ、銅は 鉱山が この先 多少 増産するみたい なので 目先の相場への 多少下落の可能性はあります 短期の目先ですけれども

勿論 長期の 相場の行方は 銅は枯渇する資源です これは 多分 代替品が出ない限り大丈夫だろうと思う

今朝 銅が下がるとお考えの方は どうぞ 僕にそれって 売って下さい 億円とかは無理ですよ 1000万までです

小口は30kgからも 日々仕入れています

30kg=18000円から買います 3000kgの単位になれば また それは単価が上げて高く買います

8/26の銅の仮定単価は79万円/㌧

僕の 昔からの 吉備 美作の国の とうない の先祖は どうも 金属や真鍮の鏡作りにも関連したり

鉄に関連した 家です



http://tohnai.com/top_main.html

以下は 古い神社にも 出てくる とうない です

【延喜式神名帳(927)に、『美作国(ミマサカノクニ)苫東郡(トマノヒガシノコホリ) 中山神社 名神大』とある式内社で、美作国一ノ宮。
 今は“ナカヤマ”と呼んでいるが、曾ては“チュウサン”(チウサン)と音読されていたという。

 チュウサンとの呼称について、諸資料(式内社調査報告・1980他)は、美作国がもつ産鉄の国という特徴や、当社が

産鉄・製鉄の神として信仰されていたことから、
 「山海経(センガイキョウ、中国戦国時代から秦漢時代-BC4--BC1世紀にかけて書きつがれたと推定される中国最古の地誌、

地理・伝承の他に鬼神・妖怪についての記述が多い)という中国の古典の中に、

鉄の世界を描いた中山経(チュウサンキョウ)という書があり、この影響でチウサンと音読されたのであろう」
という。
 しかし、中山経(平凡社版・1994)には「○○山、鉄(銅・赤銅などを含む)多し」との記述が多見され、

末尾に「銅を産する山467、鉄を産する山3690なり」とはあるものの、特に鉄の世界を描いたものではない。



■美作の国一宮 中山神社の由緒

当社参詣の栞・“中山神社 沿革”によれば、

「文武天皇慶雲4年(707)の創祀。貞観6年(864)官社に列し、延喜式では美作国唯一の名神大社で此の国の一宮とされ、永保元年(1081)には

正一位の神階を授かる。
平安時代の代表的説話である

“今昔物語”には当社の猿神伝説があり、鎌倉時代の後白河法皇の御撰にかかる“梁塵秘抄”では、

関西に於ける大社として安芸の厳島・備中の吉備津と共に肩を並べている。



国家非常時(元寇など)には、勅命により特に全国七ヶ国(武蔵・上野・伊豆・駿河・若狭・美作・肥後)の一宮を選び国家安穏を祈願せしめ、

当社も其の中に選ばれて厳修したとされる」
とあるが、創建由緒についての記述はない。

 一方当地には、創建由緒として
文武天皇の慶雲3年丙午5月上旬(二の丑の日ともいう)、

白馬にまたがり青木の枝を鞭とした神(神名不明・中山神か)が、

英多郡(アイダノコホリ)

楢原郷に顕現し、里人・



東内(トウナイ、藤内とも記す)



が菰(マコモ)をとり糉(チマキ)をととのえて饗応し齋き祀った。


神は東内宅に二十日あまり逗留した後、そこを去って

苫田郡の水無川の奥・泉水池に稚児の姿で現れ、牛飼の少年等と遊び、日没になると、あたりに放牧されていた牛馬を呼び集めた。


次に、神は、9月21日、同郡田辺郷の鵜の羽川の上流・霧山の山中に、白馬にまたがった童子の姿で顕れた。

それをみた里人の猟師・有木が、変化のものとして弓を引こうとすると、童子は「我は此の国に鎮護しようと思ひ天降った神である」と告げた
ので、

有木はこれを齋き祀った。



翌慶雲4年4月3日、神は有木に「この川(鵜の羽川)に鵜の羽を一つ流して、その羽が流れ止まった処に光を放って鎮座しよう」と告げ、

その流れ着いた長良嶽の麓に、里人・中島頼名に命じて社を建てさせ鎮座した。
との神の顕現伝承があるという(日本の神々2・1984、他)。

 上記沿革で、当社の創建を慶雲4年とするのは、この伝承によると思われるが、確証はなく、
旧吉備国から分立した備前・備中・備後の3国いずれもが、旧吉備国の守護神である備中の吉備津神社(吉備津彦命)を奉斎しており、

美作国も旧吉備国の領域に属することから、備前国からの美作国分立と共に創祀されたのではないか


上記の顕現伝承に有木との名がみえるが、備中の吉備津神社の神職の頭梁に有木との一族があり、

備後国一宮社記には、その一族が備中・吉備津神社の分霊を備後の吉備津神社に遷したとあり、当社も、この一族が勧請したのではないか
として、当社の創建は美作国が分立した和銅6年(713、続日本紀・和銅6年4月3日条に「備前国の6郡を割いて美作国を設けた」とある)以降ではないかともいう(式内社調査報告・1980、他)。

 これは、当社祭神を吉備津神社の祭神と同体とみてのものだろうが、今の祭神(鏡作神他)が創建当初からの祭神とすれば、

分立以前であってもおかしくはなく(ただ、慶雲4年かどうかは不詳)、

美作国が鉄・銅の主要な産出国の一つであったことからすれば、それらの鉄銅製品の製作に従事した人々が創祀したのが当社の原姿かとも推測される。

 上記栞にいう“梁塵秘抄云々”とは、
「関(逢坂関)より西なる軍神(イクサガミ)、一品中山安芸なる厳島 備中なる吉備津宮 
播磨の広峰惣三所 淡路の岩屋には住吉西宮」(249番)
との今様(平安末期の流行歌謡)を指し、当社が、平安末期には厳島神社や吉備津神社などと並んで中央にまで広く知られていたことを示すが、

何故イクサガミなのかは不明。

 国史上での当社の初見は、
三代実録(901)・貞観2年(860・平安前期)正月27日--美作国正五位下中山神に従四位下を授く
との記録で、以下、
同貞観6年(864)8月14日--詔して美作国従四位下仲山大・・・を官社に列ね給ひき
同貞観7年(865)7月26日--美作国従四位下仲山神の階(クライ)を進めて従三位を加えき
同貞観17年(875)4月5日--美作国従三位中山神に正三位を授けき
と、清和天皇朝に集中しているが、美作一宮誌(成立年次不明)によれば、その後
天慶3年(940)正二位
永保元年(1081・平安後期)正一位
と、最高位まで昇ったという。】



-----と言う事でして 東内は おおよそ1300年前も 岡山県美作の国に 住んでいたし 多分 その時も苗字らしきものがあったと思うの

一応 東内誠の家に神が天孫降臨したとも 読めるし

2000年以上も前に 中国のチュウサン 中山 という国から 渡来したとも 読める

チュウサンという国が 中国の古代史でも出ているんだ



『五鉾 矛を立てる』 とは たぶん 戦の準備をする 『さあ、攻めるぞ と 威嚇をする』 役目のような 気もしなくもない


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