藤原種継の祖父・藤原宇合が知造営事として建築した 難波宮の資材を、
次には孫の藤原種継が秦氏の力を借りて再利用する
結構大きな船で淀川(その時代は山背川)の流れを遡り、資材を長岡京に運ぶ
この時 長岡京には 数十軒の秦氏の家があったが 首都造営の為に撤去している
元々 この淀川の場所は 秦氏が住んでいた
秦氏は勿論 渡来系であるが、この時代 西暦700年後半には すでに長年住み付いていた
(この後 長岡京から 平安京にすぐに遷都するが その遷都した先にも 秦氏は太秦映画村周辺に住み付いていたことは確か)
藤原氏は 秦氏の財力を借りて京都に都を建設した
藤原でも 宇合 馬飼 うまかい と 名前をもらっているのが 藤原種継のおじいさん になる
第五十代桓武天皇(かんむてんのう,737~806)
50代桓武天皇が 長岡京と京都に 2度も遷都している
26代 大阪府 高槻市に御陵がある継体天皇より24代280年間ほど
その昔は 難波から 京都にかけての この淀川周辺が 政治 経済の中心だった
ワシがよく言う 吉備の国の出自の官僚 和気清麻呂(733-799)の活躍した時代だね
弓削の道鏡(700-722) 宇佐八幡 信託事件(769年)
この辺りの時代に 壬申の乱以降 天武系の天皇が100年間 続いたが
天智天皇系に戻る そんで平安京 藤原 秦
土師氏系(渡来系)や 秦氏系(渡来系)が 天皇家に血が入っている
この時代の藤原小黒丸という人も 遷都の中心人物だが
この妻も 秦氏から嫁がきている
この秦氏は 瀬戸内から ここらに 来て住み付いたと 中山太神宮トーナイは
ほぼ確実だと思う
仁徳の時代 西暦400年より もう少し前の時代?
秦人を使役し 茨田の堤を造らせた とある
これは 淀川の 寝屋川 高槻 茨木市 あたりの 今の淀川の土手を造ったのだろう
この時代に 難波の堀を 掘って海に通した とある
バタ屋トーナイも 21歳10ヶ月で 吉備の国に住めなくなり 追い出されるようにして
淀川の土手を這い上がってきた この三島地区には まったくご縁はなかったモノですが
なにかしら いにしえ からの ご縁があって この三島に住み始めたのは
なんぞ ご先祖の 誘導があったのでは なかろうか そないに 地のご縁を思ってる
高槻市の 三島鴨神社は 会社から すぐなので たまに立ち寄るな
今年も 正月は伊勢にいったが 高槻市に帰ったら また 此処にすぐに拝んでもらいに参る
高槻市の丘の上には 中臣鎌足が 1200年以上も 此処に眠っておられたし(阿武山古墳)
京都には 太秦があり 秦氏の本拠とも言える
秦氏の通ってきた道が 気になる
祇園の八坂の祭りも 秦氏やろ
秦氏は シルクロードを通って長い旅をして 渡来して来た事は確かだ
そやねん 大阪にお住まいの貴方が 水害から 免れて過ごしていけるのは
秦氏や藤原氏の お陰様なんじゃ
淀川に 土手がなかったら そりゃあ 水びたしで ジルジルで ぬかるみだらけで
湿地帯みたいな 感じになり 水鳥の遊ぶ場所でしかないワケ
この夏になれば 高槻市に住み始めて39年が経過した事になるか~
そんでも この三島 高槻市の 方々は ガラの悪い トーナイを なんか よくして下さった
多分 いにしえ から の 血のご縁もあるのでは なかろうか と思うのだ
岡山県も 昔から というか超古代から 渡来系が多く住み着いて
広島あたりから 岡山 兵庫の加古川市あたりまでが 吉備の国だった(四国の一部含む)
そこには 和気清麻呂もそうだと思うが 秦氏 藤原氏系が多く住んだのではなかろうか
天皇陛下が ご譲位を なされるが できれば ご負担が大きくなければ
京都にお帰り下さるような事には 向っていかんか
そんで 京都にお住まいにならされて 長生きをして戴くようなことが 嬉しいがな~
京都御所に お家があるみたいなので そこを新築されたら 宜しいのではなかろうか
京都御所の すぐ お側には 護王神社 そこにも ワケ清麻呂が 守備をしております
そやねん 吉備の国 わけの国の 血のご縁も 過去に繋がっていってるのだ
それを守備せねば ならぬ
勿論 日本人全員で 守備せねばならぬ
安倍総理は 臣下の代表として 週末から ものすごい ご活躍を外交においてされたので
なんか今朝は 機嫌が日本中 良い
http://tohnai.com/top_main.html ㈱トーナイ
大阪市此花区梅町2丁目3-24
次には孫の藤原種継が秦氏の力を借りて再利用する
結構大きな船で淀川(その時代は山背川)の流れを遡り、資材を長岡京に運ぶ
この時 長岡京には 数十軒の秦氏の家があったが 首都造営の為に撤去している
元々 この淀川の場所は 秦氏が住んでいた
秦氏は勿論 渡来系であるが、この時代 西暦700年後半には すでに長年住み付いていた
(この後 長岡京から 平安京にすぐに遷都するが その遷都した先にも 秦氏は太秦映画村周辺に住み付いていたことは確か)
藤原氏は 秦氏の財力を借りて京都に都を建設した
藤原でも 宇合 馬飼 うまかい と 名前をもらっているのが 藤原種継のおじいさん になる
第五十代桓武天皇(かんむてんのう,737~806)
50代桓武天皇が 長岡京と京都に 2度も遷都している
26代 大阪府 高槻市に御陵がある継体天皇より24代280年間ほど
その昔は 難波から 京都にかけての この淀川周辺が 政治 経済の中心だった
ワシがよく言う 吉備の国の出自の官僚 和気清麻呂(733-799)の活躍した時代だね
弓削の道鏡(700-722) 宇佐八幡 信託事件(769年)
この辺りの時代に 壬申の乱以降 天武系の天皇が100年間 続いたが
天智天皇系に戻る そんで平安京 藤原 秦
土師氏系(渡来系)や 秦氏系(渡来系)が 天皇家に血が入っている
この時代の藤原小黒丸という人も 遷都の中心人物だが
この妻も 秦氏から嫁がきている
この秦氏は 瀬戸内から ここらに 来て住み付いたと 中山太神宮トーナイは
ほぼ確実だと思う
仁徳の時代 西暦400年より もう少し前の時代?
秦人を使役し 茨田の堤を造らせた とある
これは 淀川の 寝屋川 高槻 茨木市 あたりの 今の淀川の土手を造ったのだろう
この時代に 難波の堀を 掘って海に通した とある
バタ屋トーナイも 21歳10ヶ月で 吉備の国に住めなくなり 追い出されるようにして
淀川の土手を這い上がってきた この三島地区には まったくご縁はなかったモノですが
なにかしら いにしえ からの ご縁があって この三島に住み始めたのは
なんぞ ご先祖の 誘導があったのでは なかろうか そないに 地のご縁を思ってる
高槻市の 三島鴨神社は 会社から すぐなので たまに立ち寄るな
今年も 正月は伊勢にいったが 高槻市に帰ったら また 此処にすぐに拝んでもらいに参る
高槻市の丘の上には 中臣鎌足が 1200年以上も 此処に眠っておられたし(阿武山古墳)
京都には 太秦があり 秦氏の本拠とも言える
秦氏の通ってきた道が 気になる
祇園の八坂の祭りも 秦氏やろ
秦氏は シルクロードを通って長い旅をして 渡来して来た事は確かだ
そやねん 大阪にお住まいの貴方が 水害から 免れて過ごしていけるのは
秦氏や藤原氏の お陰様なんじゃ
淀川に 土手がなかったら そりゃあ 水びたしで ジルジルで ぬかるみだらけで
湿地帯みたいな 感じになり 水鳥の遊ぶ場所でしかないワケ
この夏になれば 高槻市に住み始めて39年が経過した事になるか~
そんでも この三島 高槻市の 方々は ガラの悪い トーナイを なんか よくして下さった
多分 いにしえ から の 血のご縁もあるのでは なかろうか と思うのだ
岡山県も 昔から というか超古代から 渡来系が多く住み着いて
広島あたりから 岡山 兵庫の加古川市あたりまでが 吉備の国だった(四国の一部含む)
そこには 和気清麻呂もそうだと思うが 秦氏 藤原氏系が多く住んだのではなかろうか
天皇陛下が ご譲位を なされるが できれば ご負担が大きくなければ
京都にお帰り下さるような事には 向っていかんか
そんで 京都にお住まいにならされて 長生きをして戴くようなことが 嬉しいがな~
京都御所に お家があるみたいなので そこを新築されたら 宜しいのではなかろうか
京都御所の すぐ お側には 護王神社 そこにも ワケ清麻呂が 守備をしております
そやねん 吉備の国 わけの国の 血のご縁も 過去に繋がっていってるのだ
それを守備せねば ならぬ
勿論 日本人全員で 守備せねばならぬ
安倍総理は 臣下の代表として 週末から ものすごい ご活躍を外交においてされたので
なんか今朝は 機嫌が日本中 良い
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