フィリピンバギオから、日本を飛び出した数学教師の冒険日記

60歳定年を機に、日本からのフィリピン移民として、亡くなった祖母の眠るバギオに単身赴任、地元大学生の数学指導員生活開始。

父との墓参り(3/8)

2011-03-25 23:17:10 | Weblog
26日(土)の午前は、Panagbenga(花祭り)初日。ストリートダンスを見に行く。小学生、高校生、大学生、一般とわかれ、予選を通過したチームの参加である。約7kmの道のりと、3時間くらいかけて踊り、ゴールのバーナムパークで技を競い合う。やはり男はふんどし、女は腰巻の民族衣装で、ゴングをならし踊るパーフォーマンスが面白い。
その昼食は、かつて数か月間だけ家庭教師をしたタデ家に招待される。カーク君は、その後、数学は問題なく順調で、あの家庭教師が有効だったと持ち上げられる。主人バーニーへの焼酎、奥さんのラクリンのひよこまんじゅうが好評だった。
 カークに、高校を卒業したら、大学に入る前に、日本を見せたいという希望をもっている。そのときは、面倒を見ると約束する。
 その午後、父念願の墓参りに行く。バラ、菊、カラー、・・・の花で、祖母の墓をおおい、日本人やその後裔の約20基墓にも一本ずつ花と線香を供える。父は祖母の墓を抱くようにして話しかけている。また墓を発見してくれた、その後なくなった寺岡マリエさん、尾辻ヨシさん、そのきっかけを作ったシスター・ランノに額づき、何やらつぶやいている。

父との墓参り(2/8)

2011-03-23 23:18:32 | Weblog
翌25日、ホテルから長距離バスの停留所のパサイでのタクシーが大変。運転手は500ペソを要求するが(実際は175ペソのところを)1ペソが2円だから、日本でなら安いものであるが、言われたまま出すのはシャクだから、300ペソで押し通す。父はムゴイことを言うなというが。バス停では、3人分の荷物で難儀し、父を日陰に休憩させなくてはと心配していたら、40前後の男が荷物運びを手伝ってくれ、いすも譲ってくれる。オーストラリアから里帰りの妹を、迎えにバギオからマニラまで来たとのことで、父もバギオ生まれだというと、父の手を握って離さない。いずこも同じ同郷意識!バスに乗るときは、このアビブ氏は、車掌とかけあって父のために、優先シートを確保する交渉もしてくれた。親切が身にしむ。
 6時間かけて、タルラック、ルソンでの休憩を含めてバギオ到着。マニラの暑さがうそのような涼しさ、というより肌寒さ。冬の下着、セーター、ジャンバーがいる気候で快適。
 宿泊は、2年前の下宿のローリー家。四女のキム(12才)はグンと背が伸び162cmの高校生。三女の大学生のケアンは、かつて無免許でバイク運転し、ジープニーにぶつけ大腿骨骨折した猛者であるが、そのために留年もし、いまはマスコミ科から、心理学の転科したいといって親を悩ませている。長女は、アメリカの会社のコールセンター勤めでアメリカ人の彼氏のスティーブと隣家に暮らす。スティーブは「無」と「石」の2文字のタトゥーを入れている。「無」がnothingということも知っており、無常とは何かと質問してくる。困ってしまう。「石」stoneはその祖父の名前ということだ。

(写真もありますが、まだ松岡先生からいただいていませんので、後日、掲載します。エントリー係り takeda)

父との墓参り(1/8)

2011-03-22 21:28:14 | Weblog
2月24日から、3月3日まで7泊8日でフィリピンに行ってきた。
父が高齢(93才)と、運動不足による体調不足で今回は無理かと思っていたが、やはりどうしてもその母の墓参りに行きたいという執念に負けて決行した。
 私一人では無理なので、妹が介添え役として同行。

 旅行初日(2月24日)のトラブル。
 バギオで私といっしょにメントールとして、数学を教えていたアルビン君と、ホテルで会い、夕食を一緒にする約束をしていたのに、待てども待てどもあらわれず。がっくりしていたところ、交通渋滞にひっかかり、1時間のところを、3時間かかったとのことで、9
時近くにやってくる。あと一年で大学院を卒業し、できれば外国の奨学金を得て留学したいが、フィリピンの教育に尽くすという信念を熱く語る。私たちが明朝のバギオ行きバス予約の手続きをしていないことを知ると、わざわざ発売所に行き、深夜に届けてくれ、とても助かった。親切がありがたい。