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■ 2011年度日本ソロー学会全国大会レジュメ

2011-10-01 18:47:26 | 全国大会情報

 

2011年度日本ソロー学会全国大会レジュメ

 

I. 研究発表

1.            Housekeeping と教育――Louisa May Alcott の Little Women 三部作を中心に

本岡 亜沙子 氏(広島経済大学) 

 

歴史家Christine Stansellによれば、19世紀アメリカにおける家事使用人の仕事は、社会的地位や給与の低さなど、複合的な要因により、女性に経済的自立をもたらす職とは言い難いものであった。

19世紀の女性につきまとう自活の困難さを念頭に置くと、Louisa May Alcott の Little WomenLittle MenJo’s Boysの三部作で、社会的な成功を手離し家庭内での家事労働に自己実現を求めた Jo に対する批評家の評価は概して手厳しかったと言える。とりわけ Elizabeth Lennox Keyser は、結婚によって Jo が女性の伝統的な領域のなかに閉じこもったと酷評した。

 もっとも、Jo の家が暮らしの場であると共に、他人が出入りする教育現場でもある点を併記しなければ公平さを欠くことになるだろう。ジョーの家は社会から切り離された私的な場である一方で、孤児たちを教育し社会へと送り出す公共性を帯びた教育機関でもあるからだ。つまりこれは、フェミニストには女性の人生のゴールに思えた Jo の家庭に、社会へと広がる契機が隠されていることを意味する。従って、本発表で考察していくべきは、家という閉域に自ら閉ざしたかに見えた Jo が、そこで新たに開始した教育活動の方となるだろう。

 そこで本発表では、Jo とその夫 Fritz Bhaer が教育活動をする上で重視した家事労働と教育に注目し、その教育法の特殊性や社会的な機能を考察した上で、Bhaer(ベア) Garten(学園) 物語の再評価を目指したい。 

 

 

2.            ウォールデンとシエラ・ネヴァダにみるマイノリティーの再発見

真野 剛 氏(広島国際学院大学)

 

ウォールデン湖畔における実験生活の記録を綴ったWalden (1854) は、個人の体験を通して、生物の本質(衣・食・住)を大衆に再認識させた。ネイチャーライティングの原典とも言える地位を確立し、エコロジー思想を喚起した同書は、環境批評として研究対象にされる傾向が強い。その一方で、周知の通り、同時期のソローが奴隷制に対して深い関心を抱いていたことからも分かるように、同書にも奴隷であった者たちを始めとして広義的なマイノリティーたちの存在が描かれている。

 本発表では、マサチューセッツにおけるネイティブ・アメリカン史を概観した上で、“Former Inhabitants; and Winter Visitors”の章で語られるウォールデン湖畔に住む先住者たちにスポットをあて、racismに対するソローの姿勢を再認識する。奴隷制に対する賛否が南北戦争という全米を分割した戦いへと発展することになった時代、ソローはいかにマイノリティーたちと向き合ったのだろうか。また、同じく悲劇的史実に翻弄されたジョン・ミューアが最終的にたどり着いた西部のシエラ・ネヴァダにも着目する。市街地に生活拠点を得られない者たちの居住区として存在した森林/山々の実態を、ウォールデンとシエラ・ネヴァダを中心に考察していきたい。

 

 

II.    シンポジウム 震災後に読むアメリカン・ルネサンス                  

1.         斜めに前を向くこと――Fate, Nature, Experience

堀内 正規 氏(早稲田大学)

 

 〈震災後〉の眼で読み直したとき、エマソンの場合は何が中心的な問題になるだろうか? おそらく、災厄の可能性を前にした心がまえ、愛する者との唐突な死別の悲しみ(〈断ち切られ〉)に対する心的な態度が焦点になるだろう。この発表で私は、まずいわゆる「後期エマソン」の代表作“Fate”をとりあげ、エマソンの言う「完璧な解決」の妥当性について検討してみる。次に「初期エマソン」の代表作Natureに戻って、この観点からエマソンのミスティックな経験の効用について考える。最後に自らの息子との〈断ち切られ〉の乗り越えとして書かれた代表作“Experience”から、エマソンならではの「斜め」の姿勢を読みとりたい。深い悲しみ(あるいは絶望)に対するエマソンの処方箋は、どういうときと場合に、どの程度有効なのだろう、あるいは無効なのだろう。〈エマソンその人〉への敬意や尊重の念を失うことなく、しかし手前味噌のようにならずに、何が読みとれるかを虚心に、だが素朴にではなく語りたい。

 

 

2. 〈ブラックウォールデン〉とソロー

   ――Paradise (To Be) Regainedに始まる改革思想との関連を中心に

伊藤 詔子 氏(松山大学)

 

2011年5月5日、朝日新聞「天声人語」は、福島第1原発事故による放射能汚染の苦境と事故の遠因に関し、適切にも悲劇の飯舘村についての本、柳生博『までいの力』に関連して「『までい』の教祖のような、19世紀米国のソローの物質文明を問うた名著『森の生活』」を引用した。また別の日には井伏鱒二の『黒い雨』を引用し、人間の技術が自然を裏切り、いかに放射性降下物を<恵みの>黒い雨として降らせ人々を死に追いやったかを指摘していた。事故当初より、フクシマとヒロシマが66年を超えて同じ歴史の轍で繰り返されたことが多くの人に想起され、指摘されてきた。

日本の戦後の復興を早めるエネルギー政策として導入された原発推進に対し、同じように独立戦争後、改革の急がれた19世紀前葉のアメリカにあって書かれたソローの書評「楽園回復」(Paradise (To Be) Regained, 1843)が、時代と場所を超えてなお心に響くことは驚きである。今では広く浸透しているソローの簡素な生活を勧める思想には、しかし宗教的な改革思想、それも予言者イェレミアの激しい思想があることも重要である。コンコードの奴隷制度の歴史解明の本、Elise Lemire Black Walden: Slavery and Its Aftermath in Concord Massachusettsは、18世紀独立戦争後の解放奴隷の状況や、ソローが描いた湖畔に逃れた黒人たちが、どのような人たちであったかを明らかにした。本論はソローの「楽園回復」に始まるantislaveryに捧げられた改革思想が、40年代から50年代、7段階を経た『ウォールデン』生成プロセスの中でいかにテキストに流れ込み、特に『ウォールデン』のrunaway-slave”、独立後解放されたex-slave”に関する<ブラック・ウォールデン>記述とどのように関連しているのかを考察したい。

 

 

3.            痕跡と文学――The Encantadas第八スケッチをめぐって

橋本 安央 氏(関西学院大学)

 

“The Encantadas, or Enchanted Isles”は、ハーマン・メルヴィルが1854年、文芸誌Putnam’s Monthlyに掲載し、その2年後、作品集Piazza Talesに収録した、10篇の「スケッチ」からなる短篇作品である。表題を文字どおりに訳せば、「魔法にかけられた島々」という意味であり、ガラパゴス諸島を舞台とした連作の体をなしている。ダーウィンのBeagle号から遅れて6年後、作家になる前の作家が捕鯨船Acushnet号に乗り組み、1841年にかの地に立ち寄った際の記憶、および適宜改変を施しつつ、さまざまな文献に依拠するという、メルヴィルの典型的な執筆スタイルが採用されている。

その第8スケッチは、“Norfolk Isle and the Chola Widow”と題されており、かの地の孤島で夫と弟を喪った、混血女性Hunillaの受難、絶望、忍耐、受容をめぐるものである。彼女が男たちの水難事故を目撃する場面は、演劇的、絵画的な喩えをつうじて綴られるのだが、それはどうしてなのだろう。そしてまた、そのような描写上の特徴が、彼女のその後の喪失感に、いかに接続するのだろうか。生と涙の痕跡は、どのようにえがかれているのか。そうしたところを手がかりにして、このスケッチを読んでみたい。

 

 

4.  詩はThe Wound-Dresserになるのか?――Walt Whitmanと南北戦争

梶原 照子 氏(明治大学)

 

 震災が文学研究者の私に突きつけた「文学は現実の悲惨さに対して無力なのか」という問いは、南北戦争に直面したホイットマンが詩人としての存在意義をかけて応えようとした問いのように思える。おそらく南北戦争中に書きため、戦後直ちに出版されたDrum-Taps (1865)とSequel to Drum-Taps (1865-66)、Leaves of Grass (1867, 1871, 1876, 1881, 1891)のなかで再編成された“Drum-Taps”を検証し、ホイットマンの苦闘を通して、問いへの答えを探りたい。スタイルも主題も統一感のないDrum-Tapsは、詩人の混乱だけでなく、戦争の悲惨な現実にどのように向き合い詩を書くか模索した軌跡を残している。戦争初期に開戦を熱狂的に迎えた民衆を鼓舞するかのような“Beat! Beat! Drums!”から、断片的な瞬間を写し取るジャーナリスティックな手法で、リアリスティックに戦場の個々の兵士を照射した“A March in the Ranks Hard-Prest, and the Road Unkown”などを経て、戦争体験を集約した“The Wound-Dresser”に到る。1862-65年の間に軍事病院に通いつめ十万人近い兵士を慰労した経験が、Drum-Tapsとくに“The Wound Dresser”を生みだしたと言ってもよいのだが、ここで留意したいのは、詩人の実体験を自伝的に記録したかのようなリアリティに溢れながら、“The Wound Dresser”の語り手の看護師としての姿は、訪問者、同伴者にすぎなかったホイットマンの病院での実像とは異なる点である。「傷」を前景化、象徴化し、「傷を手当てする人」として詩人像を再生するとき、ホイットマンが癒したかった「傷」とは、国家的かつ個人的なものだった。そのとき、詩は“The Wound Dresser”になるのか?

 

 

III.  特別講演

アメリカン・ルネサンスの女性作家たち――忘れられたフェミニズム小説を読む――

大井 浩二 先生(関西学院大学名誉教授)

 

女性作家が扱われていないという理由で、F.O. Matthiessen, American Renaissance (1941)に異議を申し立てたのは、Sensational Designs (1985) の著者Jane Tompkinsだった。それから20年後に書かれたSusan Cheever, American Bloomsbury (2006)は、その副題Louisa May Alcott, Ralph Waldo Emerson, Margaret Fuller, Nathaniel Hawthorne, and Henry David Thoreau: Their Lives, Their Loves, Their Workが示しているように、アメリカン・ルネサンスの主要な男性作家のリストに2人の女性作家を加えることで、Tompkinsの不満を解消しようとしていると言えるかもしれない。この講演では、American Renaissance はもちろん、Sensational DesignsAmerican Bloomsburyのいずれにも登場しないという意味で「忘れられた」3人の女性作家を取り上げ、それぞれの代表作とされるフェミニズム小説3冊を紹介することにしたい:  

Elizabeth Oakes Smith (1806-1895), Bertha and Lily: Or, The Parsonage of Beech Glenn (1854).

Mary Gove Nichols (1810-1884), Mary Lyndon: Or, Revelations of a Life. An Autobiography (1855).

Laura Curtis Bullard (1831-1912), Christine: Or, Woman’s Trials & Triumphs (1856).

 

 

 


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