テンのひとりごと

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道鏡に関してー「続日本紀」全現代語訳を読んで

2017-03-27 06:08:01 | 歴史から思うこと
「続日本紀」、現代語訳ですけど読んでみました。おかしいというか編纂
者の都合に合わせてるような部分とかありますよね。まあ歴史全体がそう
ですけど。

神護景雲三年(七六九)
九月二十五日 天皇は次のように詔した。
・・・と仰せになるお言葉を承れと申し告げる。

宇佐八幡宮の神託を偽り奏上したことに対する怒りと処罰についての詔が
書かれている部分であるが、このあとに詔ではないと思われる文が加えら
れている。宇佐八幡事件の事件の内容についてである。

冬十月一日に先の件に関して道を説き、汝らの心を整え直し、朕の教えに
違わずにまとめ治める表としてこの帯を賜わると詔している。
藤原氏の者にはまだ成人に達していなくても皆これを賜わった

十月十七日 由義宮に行幸。
十月三十日 天皇は詔して、由義宮を西京とし、河内国を河内職とした。
十一月九日 宮に還った。

称徳天皇は藤原氏への疑念により、道鏡(弓削氏)へより傾倒していったと
思われます。この状況を危うんだ吉備真備を藤原氏側へ引き込んだ藤原永手
が翌年二月末に由義宮に行幸し四月に平城宮に還った天皇を幽閉したと考え
られないでしょうか?平城宮に還った天皇は詔はしておらず、勅したとなっ
ています。
この後、お病気になり、続日本紀にある通り八月四日に崩御されたのかも知
れません。表舞台からお降りになったのは確かです。

さて、道鏡はというと

八月十七日 高野天皇を大和国添下群佐貫郷の高野山陵に葬った。・・・皇
太子は平城宮で留守を守った。道鏡法師は御陵に仕え、そのまま山陵の辺に
庵して留まった。

八月二十二日 皇太子が次のように令旨を下した。
 聞くところによれば、道鏡法師は密かに皇位を窺う心を抱いて、久しく日
を経ていたという。しかし、山陵の土が乾かぬうちに、悪賢い陰謀は発覚し
た。これは・・・しかし、いま先聖の厚い恩を顧みると、法によって刑罰を
加えるのは忍びない。そこで、道鏡を造下野国薬師寺別当に任じ、派遣する
ことにする。この事情を了解せよ。
 その日のうちに、左大弁・・・を遣わし、促して出発させた。

皇位を窺う心を抱いていたなら、法によって刑罰を加えて当然と思われます
が、官僚を派遣し説得させています。不思議ですよね。何か恐れるものでも
あったのでしょうか?

伝説の通り、二人仲良く暮らしましたとさ。なんてことがあってもいいのか
なと思ったりもしますが...




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