goo blog サービス終了のお知らせ 

テンのひとりごと

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

太陽活動が弱くなると疫病、地震、火山噴火、そして氷河期

2020-03-20 19:00:07 | 歴史から思うこと

 昨年から太陽の黒点数が非常に少なくなっています。地球は太陽風とそれによって強められた磁場に守られてきましたが、太陽活動の低下により防御が弱くなり銀河宇宙線が強くなってきている(はず)。この銀河宇宙線により雲が発生するという話もありますが、地球のマントルを刺激し地殻変動を活発化され地震、火山活動が活発化するという話もあります(?)。また、この宇宙線は遺伝子を傷つけ、地球の磁場が反転するときには生物が絶滅するという話もありました。コロナウイルスの変異も宇宙線が影響しているという話があります。中国からイタリアに帰るのに何回も飛行機を乗り継いだため強毒性のウイルスに変異したという話まであります。

 太陽の太の字の点は黒点を示している話もあり、この黒点がなくなったときには天災がやってくると昔の人々は言っていた(?)。そのような世界になってきているような気がします。疫病、蝗害、次は大地震か、火山の大噴火か、そして地球は氷期へと向かうのか。

 やっぱり令和という年号が悪かったのでは、吉備内親王様の祟りが...長屋王の変で藤原長娥子とその子は助命された。草壁皇子と元明天皇の娘である吉備内親王は長屋王と同等の血筋、そして吉備と言えば物部氏、鬼である。祟りの強さから言えば吉備内親王ではなかろうか。石上神宮の最強と言われる「ひふみ祝詞」、死者を蘇えさせる呪文というからこの場合にはふさわしくないか。

 新型コロナウイルス、日本では終息に向かうのか?それとも変異したウイルスが再来するのか?このまま通りすぎてくれればいいと願うばかりです(といいながら自分の死期にはちょうどいいと思っていたりもします)。

 


日田市で発掘された鏡が魏から贈られたものらしい

2020-01-03 19:57:25 | 歴史から思うこと

大分県日田市で発掘された鏡が魏から贈られたものと中国の研究者により鑑定されたようです。

邪馬台国北九州説が色濃くなってきたようです。

さて、最近、関裕二さんの本をよく読んでる関係ですごく影響されています。

邪馬台国は北九州にあったが、畿内にはヤマトが存在していた。ヤマトには、吉備、出雲、尾張を中心とした連合ができていた。韓国(百済、新羅、任那)との交易の窓口は北九州が主だった。出雲からの交易もあったが、吉備としては瀬戸内海を有効に利用したい。そこで出雲から北九州進攻を企てた。神功皇后、武内宿禰、仲哀天皇が力で北九州の国々を掌握していった。邪馬台国で卑弥呼はなくなり、男が王についていたが国が収まらなかったため、神功皇后が台与となり国を治めてしまった。木乃伊取りが木乃伊になってしまい、他勢力から攻められ南九州へと逃げた。崇神天皇の時代に飢饉、疫病が発生した(インドネシアでの火山噴火)。この状態をよくするにはと占ったところ、出雲のものに神を祀らわせよということだったので、神功皇后、武内宿禰、応神天皇を九州南部より呼び寄せられた。さてこの中で弓削家の動きですが、神功皇后と戦うために物部氏とともに九州入りした。北九州に足跡は残しているが、九州南部に多く居住しているところみると神功皇后の兵に交じって移動したと考えられます。ヤマトに戻ったものもいるでしょうが、居ついたものもおり、家のご先祖さんはそのまま居残ったもののようです。

「藤氏家伝」において道鏡のことを藤原仲麻呂が「先祖の「大臣」の地位を継ごうとしているから退けよ」と奏上したとある。物部系であるならば「大連」であるが、「大臣」といっており「大臣」とするならば蘇我系でなければならない。神功皇后、武内宿禰に帯同した弓削の中に武内宿禰の血をひくものがあり、母系の姓を名乗っていたならば蘇我系となり得る。また、葛城山で修行したとあり蘇我との関係が示唆される。称徳天皇が道鏡を天皇にしたかったのは、蘇我系の天皇を継承したいと思ってのことかもしれない。


道鏡ゆかりの地を訪れてー関西編2

2017-08-21 19:01:24 | 歴史から思うこと

パンパンに張った脚を引きずりながらJRで奈良駅へ、そして何故かバスに乗らずに歩いて近鉄奈良駅へ。

電車に乗って、大和西大寺へ、また懲りずにレンタサイクル借りてしまった。それも近鉄奈良駅で乗り捨てで...

取りあえず西大寺へ

孝謙上皇が藤原仲麻呂の反乱鎮圧を祈願して、四天王像を造立することを誓願され、鋳造されたことが西大寺のおこりといわれ、本堂より先に四王堂が先に建立されたといわれています。奈良時代に作られたもので現存するものは四天王に踏まれている邪鬼(藤原仲麻呂)のみだそうです。

このとき、お堂へ上がるのに靴を脱ぐのは問題なかったのですが、靴を履こうとすると足がつる状態になっていました。

それでも懲りずに称徳天皇陵が時代的に前方後円墳ではないと思い込み、龍王大神社へ足を延ばすも何も感じることができず、宅地化がずいぶん進んでいるなぁと思いつつ、称徳天皇高野陵へ

ここへたどり着いたとき、全身鳥肌が立つような感じがし、「何でここに?」と心の中で問いかけ、悲嘆にくれてしまいました。東国に下ったと思い込んでいたのかもしれません。そんな私の頭の中に『ここにいるよ。大丈夫』と優しい応えを感じました。

今、考えを巡らせてみますと以前書いた英親王の話が高野天皇だったのではないかと遺跡を発掘し見つけたのは高野天皇の御陵で、現在の高野陵に移し、お祀りしたのではないかと思ってしまいました。

平城京跡へ行った後、法華寺へ

このお寺で孝謙上皇が出家されたといわれていますが、そういう記述は一切なく、母親の光明子の話は記載されていました。

次に向かったのは海竜王寺。道鏡が法皇になるきっかけとなった舎利が発見された(うそ?)お寺でありますが、そのような記述はなかったです。

この後、聖武天皇陵へ行き、近鉄奈良駅にレンタサイクルを返しに。やっと歩いてるといった状態でした。

道頓堀まで行き、バスの時間までスーパー銭湯へ。少し体力を回復したのち夜行バスに揺られ帰ってきました。

奈良に行って感じたのは、藤原強しと太子信仰でした。孝謙天皇の足跡はほとんど見られませんでした。西隆寺跡はショッピングモールの下になっていましたし...。

 

 


道鏡ゆかりの地を訪れてー関西編1

2017-08-20 20:44:48 | 歴史から思うこと

ブログに投稿するのが遅れたのですが、 今年のGWに往復夜行バスに乗って、大阪、奈良を1日でまわってきました。 まずは関西本線八尾駅で降り、レンタサイクルに乗って一番目の目的地、龍華寺跡のある安中小学校へ石碑は中庭(校舎と校舎間)にあったので確認はできませんでした。称徳天皇行幸の際歌垣が催されたと続日本紀に書かれております。

次に向かったのは「由義神社」、地図を持っていかなかったので迷う、迷う...諦めかけて次の目的地に行こうとしたら、偶然にも発見。よかった、よかった。

由義神社には由義宮址碑があります。「ゆぎ」と読まれてますが「弓削(ゆげ)」を縁起の良い字に直したといわれています。

次に向かったのは今年2月11日に東弓削遺跡(由義寺跡)発掘説明会があった場所です。掲示も何もなく柵があるだけでした。国道170号線を挟んだ反対側は何やら開発が進んでました。観光資源とならなければ、遺跡の保存も難しいのでしょう。

志紀駅の東西には弓削神社があります。

この後、物部守屋墓によって、八尾駅にレンタサイクルを返しに行きました。この時すでに脚はパンパン...

ここまでは特に何かを感じるといったことはなかったです。

次は奈良編です。

 


道鏡ゆかりの地を訪れてー4

2017-04-11 20:04:29 | 歴史から思うこと
さて、翌日、宿をでて高速にのって北関東道壬生ICへ一般道を南下し、「孝謙天皇神社」へ。

小さな神社でしたが、手入れが行き届いたきれいな神社でした。

お供えもされており、氏子さんたちにすごく愛されているんだなぁと感じました。1200年以上
前からですから、ほんとにすごいことです。


篠姫、笹姫のお墓の跡が残っていると書いてあったので探してみたのですが、見つかりませんで
した。また訪れたときに探してみようと思います。祭日9月4日とありましたのでいつか都合をつ
けて訪れてみたいです。

そのあと、「下野薬師寺跡」へ行き、

「龍興寺」の「道鏡塚」へ

「続日本紀」特に薨伝は編纂者の意図が含まれていると考えているひとりですが、・・・多くの功績・・・
の部分等、過度に美化するのは如何と思います。この時代「墾田永世私財法」における豪族の墾田の
禁止、寺については計画してあったもののみを許し、農民による小規模な開拓は認められました。
道鏡がこれに関わっていると考えられますが、その役割は定かでありません。


このあとは、「しもつけ風土記の丘資料館」「下野薬師寺歴史館」を回り、しつこく、もう一度、
篠姫、笹姫のお墓の跡を探しましたが見つからず、「I shall return.」と唱えて、家路につ
きました。