津軽海峡は名にし負うその潮流の激しさで、そこを航行する船乗りを悩ませていたらしい。 1954年、1,000人以上の遭難犠牲者をだした有名な洞爺丸事故もこの海峡である。
折からの台風で青函連絡船は沈没。船の乗客は対岸の下北半島、大浦まで流れ着いた。 それから4年後、作家の水上勉さんはその事件を題材に、名作「飢餓海峡」を発表し、後に映画やテレビドラマにもなって、氏の不朽の代表作となった。 私が連絡船「摩周丸」で津軽海峡を越えたのは、事故から8年後の昭和37年、まだ中学校の1年生の頃だった。
函館の港を出て数時間が経過し、青森が近づくにつれて、人々は早々と出口の方へ列を作り始める。 勝手のわからぬ私は遅れてはならずと、重いボストンバッグを抱えて、列の後ろに並ぶのだった。
やがて開け離れたデッキのドアの向こうに、青森港の灯が見え始めた。 外はしんしんと雪が降っている。 どうやら無事にここまで来たのだと、小さな安ど感が湧いてきた。