つらつら日暮らし

鉢盂を漆器として作る典拠について(2)

鉢盂を漆器として作る典拠について(1)】の続きなのだが、この記事を書く時に、一通り関係しそうな文献を見ておいたのだが、大概は、漆器・漆鉢などについて、否定的な文脈が多い。今日も、そのような批判についての一節を見ておこう。

 問う、「比丘、漆器を畜う、何事をか犯すや」。
 答う、「漆木器、尽く用いることを得ざれ。用れば堕を犯す」。
    『仏説目連問戒律中五百軽重事』「問雑事品第十三」


いわゆる『目連五百問論』ではあるが、この文献の困るところは、たいがい後の時代に行われている様々な法儀などについて、先んじるかのように批判していることである。そもそも、誰が訳したかも分からないし、誰かが同時代の法儀の問題を見ながら、目連などに仮託して作ったのでは?なんて思えてしまう。

もちろん、これはただのこちらの僻み的な考えであって、実際の研究などを見てみると、この文献の位置付けなども理解出来るのだろう。

さておき、上記一節の内容だが、比丘が漆器を用いることによって、どのような罪を得るのか?という話になっている。つまり、罪の有無が取り沙汰されているのでは無く、罪を前提に、その種別を議論しているのである。結論は、「堕を犯す」とある。これは、本来持ってはいけ無いものを持っている罪という意味であり、懺悔して、当該の物品を廃棄することが求められる。

つまり、使ってはいけない、というシンプルな理解となる。

 問う、「比丘、漆器を畜う。何事をか犯すや」。
 答う、「漆木器、尽く用いることを得ざれ、堕を犯す」。
 釈するに、漆器とは、漆鉢器、及に随鉢器を言うなり。律制に謂わく、応器なり。鉄・瓦の二種、是れ如法器なり。
 若し比丘、漆器を畜うれば、何篇の事をか犯すや。
 答えて言く、「若しくは漆応器、木応器、尽く用いることを得ざれ。外道と同ずるを以ての故に。若し用うれば堕を犯す。仏語を信ぜざるを以ての故に」。
    永海『仏説目連五百問戒律中軽重事経釈』巻下


これは、『目連五百問論』への中国明代の註釈となるが、別段、先ほどと変わったことを言っているわけではない。ただ、とりあえずは内容を把握していこう。まず、前半部分は同じだが、「釈するに」以下を見ておきたい。漆器とは、漆鉢器であるとしており、これはその通りだが、続く「随鉢器」については、『翻訳名義集』などを見ていくと、箸や匙等の、鉢盂に付随した食器のことだという。

それから、鉄・瓦の二種が如法器であるとし、漆器などは仏道以外の者達が使う物と同じだからという理由を提示している。よって、この記事までは、漆器の使用について批判的意見を見てきた。ただ、中国の禅宗では鉢盂を漆器で作ることが、決して珍しくなかったといえよう。例えば、中峰明本禅師の「托鉢歌」では、「黒漆の鉢盂」という表現が見えるので、この辺が現代用いるものと同じものだったといえよう。

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