つらつら日暮らし

「遊行人間」について

改造人間、妖怪人間に続く「遊行人間」か?と思ったが・・・

 今、行脚と称す。未だ其の典を見ず。
 毘奈耶律に云く、世尊の言うが如しは、五法成就して、五夏已に満ちれば、依止を離れ、人間に遊行することを得る。
 五法とは、一つには犯を識り、二つには非犯を識り、三つには軽を識り、四つには重を識り、五つには別解脱経の善く通塞を知り、能く持し能く誦す〈別解脱経、即ち戒本なり〉。
 優波離、仏に問うに、四夏満ちること有りて、五法を善くす。遊行することを得るや否や。
 仏言わく、得じ。五夏を以て定量と為す。
 又た問う、五夏満ちること有りて、未だ五法に閑なり。得るや否や。
 仏言わく、得じ。五法を以て成就するを定量と為すが故に。
    「遊行人間」項、『釈氏要覧』巻下


これは、以前に書いた【依止師について】の続きのような感じと見ていただければ良いと思う。つまり、いわゆるの僧伽では、比丘となってから5年の間は、まだ戒律自体の学びが完了していないので、師匠を離れて自分で1人生きていくことは出来ないとされていた。そのため、いわゆる和尚(和上)から少し離れるときも、「依止師」という一時的な師匠に就いて旅をする必要があったのである。

そこで、上記の話である。ここでいわれているのは、「遊行」という言葉と「行脚」という言葉の違いである。『釈氏要覧』では、「行脚」を中国の言葉であるとしており、仏典での典拠は無いとしている。そして、比較されているのが「遊行」なのだが、律蔵を見つつ、世尊は「五法」を成就し、「五夏(比丘となってから5年)」を経たら、人間に遊行して良いとしている。

ということで、ここで「人間」の話だが、仏教語としては「に(じ)んかん」と呼ばれると思う。そして、いわゆるの人の間、一般的な世間のことを指している。つまり、僧伽を出て、世間に趣く際は、「五法」と「五夏」を成就するという「資格」を要するのである。

そして、上記では、「五法」について詳細を検討しているが、それは先のリンク先の記事で論じているのでここでは省略するが、後は優波離尊者が世尊に、その「資格」を厳密に問うておられる。具体的には、「五法」を理解すれば、「四夏」でも遊行して良いか?という話なのだが、世尊は「定量」という表現をしつつ、「五夏」以上を求めている。

一方、「五夏」を経たならば、「五法」を成就していなくても良いか?という問いについては、「得じ」としているので、やはり否定している。つまり、ただ「五法・五夏」を定量としているのである。個人的には、「五法」については、本人の戒律の理解を示すことだから理解出来るのだが、「五夏」を必須とするのが分からないのだが、何らかの理由があって定められたのだろう。

それはまた、何らかの機会に見ておきたい。

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