つらつら日暮らし

「神無月」について(3)

前回の【(2)】まで検討した上で、とりあえず『徒然草』からの検討の継続は難しいと判断した。よって、他の文献なり、事績なりからと思っていたら、大正年間の文献に興味深いことを見出したので、検討してみたい。

  神無月の結婚の良否
 世俗に、十月の節の中を〈太陽暦にすると略十一月に当る〉神無月と云ふ為めに、結婚することを嫌つて居るのは、大なる誤謬である。神無月と云ふのは、節の十月の和名である。尚神去月、雷無月、鏡祭月、時雨月、初霜月、正陰月、陽月、良月、大月、小春など称ふる異名がある。一般には天下の諸神、出雲の国へ集り給ひて、他国には神なき故、神無月といひ、出雲には神集り給ふ故、神有月といふとか、或は神去月とも云ふ故、此月大物主神、八十万の神を帥ゐて、天に昇り去れば、神去月と云ふとか、或は十月は雷の唱り止む月であるから、雷無月と云ふとか、尚其の他に種々の説があるが、そは何れも神無・神去と云ふ文字から起つた強解説に過ぎないのである。然るを世人は之れを信じて、諸神が出雲に集り給ひて、結ぶの神が座さぬから、結婚すべき月でないと思つて居るのは、大なる誤りで、これ等を迷信と云ふべきである。而して此の説が真であれば、睦月は〈正月の異名〉親族・朋友等が、睦しく会合して楽むと云ふ上へから、此の名があるのである。睦しいと云ふことは誰れにも睦しいので、朋友・故旧に睦しくて、夫婦・親子に睦しくないなど云ふことはない筈だから、此の睦月に結婚したら、皆睦しくなければならぬのみならず、世人は好んで此月に結婚すべきが至当であらう。
    明田川政文『男女不思議の相性』運命観測救災会・大正3年、75~76頁


以上の通りなのだが、「神無月」には、各地の神社に神がいないということから、結婚することを避けるという見解が、大正時代にはあったらしい。しかし、著者はそれは、誤りだという。

しかも、「一般には天下の諸神、出雲の国へ集り給ひて、他国には神なき故、神無月といひ、出雲には神集り給ふ故、神有月といふとか、或は神去月とも云ふ故、此月大物主神、八十万の神を帥ゐて、天に昇り去れば、神去月と云ふとか、或は十月は雷の唱り止む月であるから、雷無月と云ふとか、尚其の他に種々の説があるが、そは何れも神無・神去と云ふ文字から起つた強解説に過ぎないのである」がかなり強い見解で、「神無月」という名称から導かれた牽強付会に過ぎないとしている。

また、「然るを世人は之れを信じて、諸神が出雲に集り給ひて、結ぶの神が座さぬから、結婚すべき月でないと思つて居るのは、大なる誤りで、これ等を迷信と云ふべきである」と断定している。つまり、本書の立場としては、明治期以降の啓蒙思想に影響されつつ、合理的発想を持つべきだとしている。

しかし、「神無月」という名称が、本当に実生活にも影響を与えたという点で、とても気になっている。つまりは、旧暦の10月は、神社は完全に参詣者もいない、なんていうこともあったのだろうか。とはいえ、現状でも、出雲大社に諸神が集まるという説を主張するのであれば、同じことが起きないのだろうか?と思う。

流石にそれでは困ると思ったのか、結構公的な立場(個別の神社の宮司さんの説などでは無く)でも否定する見解はある。

神無月(かんなづき)には神さまがいなくなるというのは本当ですか(東京都神社庁)

上記のページでは神が各地の神社からいなくなって、出雲に行くという説自体を否定している。よって、月名に引っ張られた風習全般を否定して良さそうだ(上記の睦月も同様)。

なお、上記文章には後半部分があるが、それはまた別の機会に見ておきたい。

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