つらつら日暮らし

『仏祖統記』「立壇受戒」を読んでいて気付いたこと

『仏祖統記』という文献は、中国・南宋代の天台宗僧侶・志磐が、咸淳5年(1269)に著した仏教史書である。全54巻であり、従来の同様の文献から様々な記述を集めてきた印象があるのだが、その巻53に、「立壇受戒」という項目があり、「戒壇」が立てられ、歴代の王朝の皇帝が戒を受けた経緯などが示されている。

その中に、次の一節があった。

梁の武帝、約法師に従って具足戒を受く。太子・公卿・道俗、師に従って受戒する者、四万八千人〈此れ応に菩薩戒を受く〉。沙門耆艾、亦た重ねて戒法を受く〈此れ具足戒を受く〉。
    『大正蔵』巻49・462c


まず、「梁の武帝」とは、我々禅宗の祖師である菩提達磨尊者の故事にも登場する中国南北朝時代の梁朝の皇帝(在位は502~549年)である。かの、道元禅師も「震旦国には、梁の武帝、隋の煬帝、ともに袈裟を受持せり」(『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻)とある通り、仏教徒として認識されているが、実際に国を傾けてでも仏教に帰依した人であり、「皇帝菩薩」とまで称された。

その武帝について、まずは「約法師」に従って「具足戒」を受けたという。これは、出家者になったということである。その辺、他の文献ではどうか?と思っていたのだが、以下のような一節があった。

帝、諸の方等経を抄して、受菩薩法を撰し、等覚道場を構う。草堂寺の慧約法師を請して以て智者と為し、躬して大戒を受けて以て自ら荘厳す。
    『続高僧伝』巻5「釈法雲」章


つまり、慧約法師という人が和尚であったということになる。『続高僧伝』は、唐代の南山道宣(596~667)によって645年に編まれたものだが、その中に上記のような一節が見える。ここにも「大戒」を受けたとあるから、やはり比丘戒だったということになる。

それから、先の『仏祖統記』では、皇太子や貴族なども、この約法師に従って受戒し、それが48,000人に及んだことが示されているが、こちらは「菩薩戒」であったという。おそらくは瑜伽戒系で授けたのだろうけど、時代的には既に『梵網経』も出て来てるはずで、微妙なところだ。

また、沙門耆艾が、「重ねて戒法」を受けるとあるのが気になるが、これは一度比丘になっていたのに、再度比丘戒を受け直したということなのだろう。沙門と耆艾(老僧のこと)という風に理解した。そして、これについての批評もあったことが知られている。

法雲、独り曰く、吾れ既に受戒す。其れ法を以て人事と為すべきや。議する者、これを高ぜよ。
    『仏祖統記』巻37、『大正蔵』巻49・350a


この場合の「人事」とは、世間のことという意味だろうか?つまり、法の上では、何度も受戒をすることはないのに、世間のような価値観でもって、繰り返し受けたという意味に採れるだろうか。

日本であれば、鑑真和上が来日した際の授戒で、やはり「重ねて戒法を受ける」僧侶はいたようだが、この場合は、正式な受戒をしていなかった日本の僧侶が、改めて比丘戒を受けたためである。しかし、中国の、この場合は何だったのだろうか?文脈から透けて見えることは、皇帝に授戒をするような偉大な和尚から、戒を受けておきたいという名聞利養が感じられるのである。もちろん、そのような名利心は如何なものかと思う一面もあるが、転ずれば良き師から受戒できれば、それだけ功徳があると素朴に信じられていたのかもしれない。

しかし、授戒・受戒に関する様々な記述を見てみると、本当に時代によって様々な違いがあり、一定の理解のみでは上手く行かないことが分かる。気を付けて今後も学んでおきたい。

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