つらつら日暮らし

何となく鳳潭『梵網経菩薩戒本疏紀要』を読んでみる

とりあえず、「日本古典籍総合目録データベース」で鳳潭を調べたら、『梵網戒本疏紀要引拠増補竜鳴斥謬』(享保13年刊)と『梵網経菩薩戒本疏紀要』(享保9年刊)がヒットした。両方とも、大正年間に刊行された『日本大蔵経』巻19「大乗律章疏一」に入っているので、容易に閲覧可能。あ、後者の『紀要』だけなら、当方も版本(全6冊)を持っている。

よって、版本を見てみた・・・しかし、冠註本って何でこんなに見にくいのかね。だいぶ、慣れてはきたけれど、本文のどこと対応するか、良く分からないんだよな。でも、実は註記の方を追えば良いという話もある。だって、註記が大事で作ったんだろうし。

で、江戸時代、鳳潭が賢首大師法蔵『梵網経菩薩戒本疏』を出してからそっちが流行ったらしいが、それまでは青丘太賢『梵網経古迹記』が主流だったという。でも、鳳潭は、理由があって従来の主流を否定したと思うのだが、それはどの辺を読めば分かるのだろうか?その内、先行研究でも読むか・・・

さておき、多分、頑張って註記を全部読むと分かるんだろうけど、ちょっとそれやってる暇無いなぁ・・・と思っていたら、違いが書いてある場所があったので、引用しておきたい。

〈太賢〉華台舎那〈他報浄土身、十地と為し現ず、今、第二地に応ず〉―葉上釈迦〈変化土身、応に四善根及び資糧位、修浄業の機に応ずべし〉―葉中小釈迦〈変化土―濁穢土―釈迦化土 ―好世土―弥勒出世 ―三乗共見〉

〈賢首〉華台舎那〈実身成仏亦随他受用身、始教義に当たる〉―葉上大釈迦〈実報他受用身〉―葉中小釈迦〈実報化身及び閻浮に下る、七歳出家は是れ変化身、二処総籠説のみ、浄土の化身・穢土の化身理の如く応に知るべし〉
    『梵網経菩薩戒本疏紀要』巻1・19丁裏


これは、『梵網経』の本文の一節についての本疏への註記となる。本文の一節はかなり有名で、以下の通り。

我れ今盧舎那、方に蓮花台に坐す、
周匝せる千花上に、復た千の釈迦を現ず。
    『梵網経』巻下


あれ?「葉上」ってどこから出て来た?花の上になってるなぁ・・・

我れ已に百阿僧祇劫の修行心地、之を以て因と為し、初めて凡夫を捨てて等正覚を成じ、号して盧舎那と為す。蓮花台蔵世界海に住す。其の台に周遍して千葉有り、一葉一世界、千世界と為す。我れ化して千釈迦と為りて千世界に拠る。後に一葉世界に就いて復た百億の須弥山、百億の日月、百億の四天下、百億の南閻浮提、百億の菩薩釈迦有りて、百億の菩提樹下に坐して、各おの汝の問う所の菩提薩埵の心地を説く。
    『梵網経』巻上


あぁ、ここを見ないと分からないのか。まず、最初に「盧舎那仏」が出ていて、ここが根本になるわけだが、続いて、その盧舎那仏がいる蓮華台の周りに千枚の葉があって、そこに世界がある。そして、その世界に、千の釈迦がいるが、これが「葉上大釈迦」になるのだろう。続いて、その千枚の葉の一枚の葉ごとの世界に百億の世界があって、それぞれに百億の釈迦がいるというが、これが「葉中小釈迦」になるのだろう。

よって、この3種類の仏陀の相違について、先に挙げた通り、太賢と法蔵とで見解が違っているということになる。これは、『華厳経』の解釈も含めて色々と見ていかないと分からなそう。いや、ちょっとつまみ食いするくらいの考えでは、話にならないな。いや、ちょっと待てよ?!「華台舎那」の違いを見てみると、結構楽しそうな違いが出ているじゃないか。太賢は「他報浄土身」としているが、法蔵は「実身成仏亦随他受用身」としているじゃないか。そうなると、法蔵の方は、2つの存在性を重ねて把握していることになりそうだが、一方で、太賢はここの名前に出ていない、別の仏陀(毘盧遮那仏?)を想定しているのかな?的な把握にも見えるが、華厳宗の教学研究者相手に炎上しそうなので、知ったかぶりは止めておくか・・・

ということで、前提として必要な知識が足りないので、今日は何となく読んでみただけ。

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