つらつら日暮らし

法然上人の菩薩戒授与について

法然上人(1133~1212)は、多くの者に授戒をしていたと知られているが、時代的には源平合戦と鎌倉幕府の成立という時代に重なることに注意したい。ちょうど今、NHK大河ドラマでは『鎌倉殿の13人』を放送しているけれども、その登場人物と同時代の人たちにも、授けた様子が見られるのである。

  重衡法然房を請する事
 三位中将は九郎義経の許へ、出家をせばやと思ふは、免し給てんやと宣ければ、義経が計には叶い難し、御所へ申入て其の御左右に依るべしとて奏聞あり。頼朝に仰合さずして出家暇を免ん事、治し難しの由、仰せ下せられければ、御気色角とて及ぶ力給わず。中将重て、出家は御免なければ今は申すに及ばず、さあらば年来相知て侍る上人を請じて、後世の事をも尋聞ばやと有ければ、上人は誰にて御座ぞと問奉。黒谷法然房と申せられたり。兼て貴き上人と聞給ければ、後世の情にと思つゝ是を奉免。三位中斜めならず悦て、軈友時を使にて、黒谷の庵室へ申されたりければ、法然上人来給へり。
 中将泣々宣、「重衡が身の身にて侍し時は、誇栄花驕楽憍慢の心は在しか共、当来の昇沈かへり見る事侍らず、運尽世乱て後は、此にて軍彼にて戦と申て、人を失ひ身を助んと励悪念は無間に遮て、一分の善心会て起らず、就中南都炎上の事、公に仕り世に随ふ習にて、王命と申父命と申、衆徒之悪行を鎮ん為に罷向処に、不側に伽藍の滅亡に及し事、不及力次第也といへ共、大将軍を勤めし上は、重衡が罪業と罷成候ぬらん、其報にや、多き一門の中に我身一人虜れて、京田舎恥を曝すに付ても、一生の所行墓なく拙き事今思合するに、罪業は須弥よりも高く、善業は微塵計もたくはへ侍らず、さても空く終なば、火穴刀の苦果且て疑なし、出家の暇を申侍れ共、責ての罪の深さに御免なければ、頂に髪剃を宛て、出家に准へ奉受戒候ばや、又懸罪人の一業をも、まぬかるべき事侍らば一句示し給へ、年来の見参其詮今にあり」と宣ければ、
 上人哀に聞給て、「誠に御一門の御栄花は、云官職俸禄と申、傍若無人にこそ見え御座しか、今角成給へば、盛者必衰の理夢幻の如也。されば善に付悪に付、怨を起し悦をなす事有べからず、電光朝露の無益の所、兎ても角ても有ぬべし、永世の苦みこそ恐れても恐あるべき事にて侍れ。難受人界の生也、難値如来の教也。
 而今悪逆を犯して悪心を翻し、善根無して善心に住して御座さば、三世の諸仏争随喜し給はざらん、先非を悔て後世を恐るゝ、是を懺悔滅罪功徳と名。
 抑浄土十方に構、諸仏三世に出給へ共、罪悪不善の凡夫入事実に難し、弥陀の本願念仏の一行ばかりこそ貴く侍れ、土を九品に分て、破戒闡提嫌之事なく、行を六字につゞめて、愚痴暗鈍も唱るゝに便あり。一念十念も正業となる、十悪五逆も廻心すれば往生と見えたり。念々称名常懺悔と宣て、念々ごとに御名称ずれば、無始の罪障悉く懺悔せられ、一声称念罪皆除と釈して、一声も弥陀を唱れば、過現の罪皆のぞかる。
 故に南無阿弥陀仏と申一念の間に、よく八十億劫之生死の罪を滅す、憑ても憑むべきは五劫思惟の本願、念じても念ずべきは此弥陀の名号也。
 行住坐臥を嫌ねば、四儀の称念に煩なく、時所諸縁を論ぜねば、散乱の衆生に拠あり。下品下生の五逆の人と称して已に遂往生、末代末世の重罪の輩も、唱へば必可預来迎、是を他力の本願と名。又は頓教一乗の教と云。浄土の法門、弥陀願巧、肝要如此とぞ善知識せられたりける」。
 其後上人剃刀をとり、三位中将の頂に三度宛給。初には三帰戒を授、後には十重禁をぞ説給。
 御布施と覚しくて、口金蒔たる双紙箱一合差おき給へり。此箱は中将の秘蔵しおはしけるを、侍のもとに預置給ひたりけるが、都落の時取忘給たりけるを思出給ひて、友時を以て召寄給ひたりける也。偖も三位中将は、今の知識受戒の縁を以、必来世の得脱を助給へと宣も敢ず泣給へば、上人は衣の袖に双紙箱を裹、何と云言をば出し給はず、涙に咽て出給へば、武士も皆袂を絞けり。
    『源平盛衰記』


三位中将が、いわゆる平重衡(1157~1185、平清盛の五男)である。源平合戦の最中で、寺社との抗争も激化した平家政権の大将として、南都焼討をした人として知られている。その後、都落ちして西に逃亡した平家の中で、常に大将として戦ったが、源義経の奇襲攻撃で名高い、一ノ谷の合戦で敗れ、囚われた。

上記の内容は、その囚われた後の話である。

それで、重衡は一度、鎌倉に送られて、俘虜の生活を送っていたが、焼き討ちにあった南都の恨みは凄まじく、重衡を引き渡すように源頼朝に求め、南都に送られた重衡は斬首されたという。

ただし、斬首される前に、出家したというのだが、その経緯が示されたのが、上記内容である。もちろん、『源平盛衰記』という二次資料の内容であるから、正確な史実かどうかの判定はできないが、出家をしたというのは、どうも事実ではないと断じることは出来ないようである。

そこで、気になるのは、以下の2点である。

①南都焼討という罪業とその反省について
②出家の作法について


まず、①については、法然上人を前に、重衡は自らの罪業を悔やみ、反省したところ、法然上人は、二段構えの対応を示している。1つは、重衡自身による至信の懴悔である。ただし、その懺悔について、法然上人の言葉として、「而今悪逆を犯して悪心を翻し、善根無して善心に住して御座さば、三世の諸仏争随喜し給はざらん、先非を悔て後世を恐るゝ、是を懺悔滅罪功徳と名」とあって、重衡の態度について讃歎したものといえる。

そして、「そもそも論」として、阿弥陀仏への念仏の功徳としての懺悔を示している。その根拠となるのが、「念々称名常懺悔」であるが、善導大師の『般舟讃』を典拠としている。その結果、「故に南無阿弥陀仏と申一念の間に、よく八十億劫之生死の罪を滅す」と、重衡に告げたのであった。

その結果、法然上人は重衡を出家させたが、「其後上人剃刀をとり、三位中将の頂に三度宛給。初には三帰戒を授、後には十重禁をぞ説給」という作法の様子であった。まずは、剃刀を当てて、いわゆる剃髪をしたことになるが、その上で、「三帰戒」を授け、更に「十重禁戒」を授けたという。

そうなると、菩薩戒のみをもって、出家の作法としていた様子が分かる。今回は、そのことを確認するだけであるが、これがその後の同宗派の出家作法とどう関わるのかは、また別の機会に見ておきたい。

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