悉多太子はまず、「跋伽仙人」が修行しているところに行き、以下のような問答が行われたという。
こゝに悉多がその跋伽仙人に、そこらは今かくのごとき苦行をするが、これは何等の果報を求めんとするのじやと問ふた処が、
仙人答て、此苦行を修するは天に生ぜん事を欲するのじやといふ。
そこで悉多がまたいふには、天は楽しいけれども、福尽るとき窮て六道に輪廻して終に苦聚となる。いかにぞ諸の苦因を修して求苦報ぞと難じて、かように議論しつゝ日暮にも及び、其夜は一宿して明旦まで思惟したる処が、此の仙人ども苦行を修すといへども、みな解脱真生の道にあらず。こゝに留るべきことでないと、其所を去て、この山の北の奧に阿羅邏鬱陀羅仙人といふ大仙の修行している事を聞て、それへとて立ちこへたでござる。
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』35頁、漢字などは現在通用のものに改め、段落を付す
当方は、釈尊伝はそれほど専門的に勉強したことが無いので、概論的に習ったりしたことからすれば、出家して、アーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人という坐禅観想の修行をしていた仙人2人に教わった、という風に知っていたのだが、篤胤の指摘ではその前に、苦行をしていた「跋伽仙人」という人に教えを聞いていたことになる。後には苦行をする釈尊であるが、一時的にはその道を捨てていたことになる。
なお、篤胤の上記の一節の典拠だが、これまでの連載でも指摘した通り、『過去現在因果経』であると思われる。上記に相当する文脈は、巻2に見える。また、『釈迦譜』巻1にも同経が引用されているが、おそらくは元の経典から直接引いたのであろう。
それから、苦行にまず見切りを付けた太子は、阿羅邏鬱陀羅仙人のところに向かったというが、ここが『因果経』との違いで、同経では或る仙人が太子に助言して、「若し去らんと欲すれば、北に向かって行くべし。彼に大仙有り、阿羅邏加蘭と名づく。仁者、往きて其の語論に就くべし」とするのである。つまり、これは、アーラーラ・カーラーマ仙人のことであるが、篤胤は後半が「鬱陀羅」とされており、これは、ウッダカ・ラーマプッタ仙人のことだと思われたのだが、もう少し詳しく『因果経』を読んでみたところ、以下の一節を見出した。
爾の時太子、阿羅邏・迦蘭の二仙人を調伏し已りて、即便ち迦闍山の苦行林中に前進す。
『因果経』巻3
「加蘭」と「迦蘭」という違いはあるが、どうも、これは同じと見て良く、しかも、「二仙人」としているので、「阿羅邏・迦(加)蘭」とは、アーラーラ仙人と、ウッダカ・ラーマプッタ仙人のことを指しているようである。何だろう?「カ・ラー」の部分だけで略述しているのだろうか。そうなると、とても分かりにくいので、篤胤は分かりやすくウッダカ仙人の漢訳名(音写)を用いて併記したとも考えられる。
どちらにしても、この悉多太子の修行については、『因果経』を中心に語ることが分かった。今回は、あくまでもその導入部分ではあるが、更に、今後、修行の進展の様子も検討していきたい。
【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し
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