つらつら日暮らし

「今日彼岸 菩提の種を まく日かな」の作者確定(再掲載)

※この記事は2019年に一度掲載したが、修正・編集の上で再掲載するものである。

「今日彼岸 菩提の種を まく日かな」の俳句について、彼岸の法話に用いる僧侶が多いようだが、ネット上に記載された作者名を見ると、主として「1:松尾芭蕉説、2:与謝蕪村説、3:昔の人説」の3種類があると分かった。しかし、そうなると、俳句として一部の人達にとても有名なのに、意外と作者が知られていないという奇妙な状態であることが分かったわけである。

これは、記事にするしかあるまい、というので、検討結果をアップしたのであった。そこで、以前調べたときには全くヒットしなかったのに、改めてネットで調べたところ、【「575筆まか勢」さん】というブログの2016年の記事で、この俳句の作者は馬場存義という人であるという指摘があった。

ただし、そのブログでは、「種蒔」の俳句を集めた時に渉猟された俳句の1つに、この句が入っていたということもあってか、典拠などを示して下さってはいない。そこで、改めて拙ブログで調べてみたのであった。なお、書いていて思ったことは、俳句を嗜む方々の間では良く知られたことだったのだろう。まぁ、我々は専門外であるから、俳句を専門とされる方々におかれては、我々が改めて学び直したと思っていただければ幸いである。また、典拠を調べていたところ、何故これが先に挙げたような松尾芭蕉(1644~1694)作に擬せられたのかも分かったような気がするので、それも指摘しておきたい。

まず、馬場存義という人だが、門人が「古来庵存義は江都に俳匠たること久し」(『古来庵発句集前編』「序」)とするように江戸出身の俳人で、元禄16年(1703)に生まれて天明2年(1782)に80歳で死去しており、江戸時代中期の俳人である。古来庵は名乗った庵号の1つである。第2代・前田青峨(1698~1759)に学ぶと、享保19年から俳諧宗匠となり、「存義側」をひきいて江戸座の代表的点者として活躍し、また、与謝蕪村(1716~1784)とも交友があったという(以上、【馬場存義―コトバンク】参照)。

さて、そこで、この人の句集として知られているのが、『すえのふし』『新六歌仙』『江戸新八百韻』『遠つくば』『古来庵発句集前編』『野づち』『ぬさのもと』などがあるようだが(『近世俳諧資料集成』[講談社・昭和51年]第四巻所収「『遠つくば』解題」を参照)、当方で今回見ることが出来たのは、『遠つくば』『古来庵発句集前編』のみであり、「今日彼岸」の俳句は後者に入っていた。

なお、この俳句については、以前「今日彼岸 菩提の種を まく日かな」という様に紹介していたが、これは松尾芭蕉に擬せられた時の「けふひがん菩提の種を蒔日かな」に因んだものだったのだろう。だが、今回調べたところ、馬場存義が詠んだ句は正確には以下の通りであった。

けふ彼岸菩提の種も蒔日かな(題「義仲寺、翁の塚にて」の5句目)
    『古来庵発句集前編』、鈴木勝忠・白石悌三校注『古典俳文学大系11 享保俳諧集』集英社・昭和47年、615頁上段


気を付けていただきたいのは、「菩提の種を」ではなくて、「菩提の種も」なのである。彼岸に併せて義仲寺に翁の塚を参詣することで孝を尽くしたとしても、併せて自己他己にとっての菩提の種“も”蒔く時節だというのである。

そこで、先に引いた芭蕉の句については、芭蕉没後に編集された句集であり、杜撰であるという問題点があったが、今回の『古来庵発句集前編』については、その問題が無い。何故ならば、本書は明和2年(1765)に螺崖居士によって「序」が撰され、その翌年に開板された。つまり、まだ存義本人が存命中なのである。鈴木勝忠氏による解説では、存義の還暦を祝って編集されたという。生前中の開板であるため「前編」の名を冠したが、「後編」と対になるものではない。

また、「序」を読む限り、存義門人の「こゝに随身の門人〈図大〉、筆まめなるにまかせて、日頃かい付おける発句を、ことし乙酉(※明和2年)、彼翁本卦のよろこびに託してさくら木にちりばめ、書名を極よと乞ふ」とあるため、生前に存義本人の許可を得て刊行されたものであり、しかも図大を含めた門弟6名による厳密なる校合を経て刊行されたものであった。よって、ここから、疑わしい句が混入する可能性は皆無であり、この句が存義本人のものだと確定できるのである。

さて、後は何故、松尾芭蕉に仮託されたかだが、先ほど存義が詠んだ経緯として「義仲寺、翁の塚にて」とあることに注目したい。俳句を良くされる方なら、これが何を意味するかすぐにご理解いただけると思う。「義仲寺」とは滋賀県大津市に所在し、現在は天台宗系の単立寺院である。そして、同寺山内に所在した「無名庵」を芭蕉は好み、よく句会も開かれ、大坂で示寂した芭蕉は、遺骨を同寺に送らせて埋葬させた。しばらくの間、同寺は荒廃していたが、明和元年(1764)に再興されたとも伝わり、もしかすると存義による同寺参詣は、この時のことだったのかもしれない。つまり、「翁の塚」とは、松尾芭蕉の塚を指すのであり、詠まれた機会も『古来庵発句集前編』に収録される前年だった可能性もある。

上記には一部推定も含むが、この句が芭蕉に擬せられた理由としては、そもそも、存義が芭蕉のことを詠んだから、という一事が見られるのである。

なお、芭蕉没後に編集された芭蕉全集的句集である『俳諧一葉集』は全9冊で、1827年の刊行である。つまり、『古来庵発句集前編』よりも60年ほど後のことなのである。更には『古来庵発句集前編』は、刊行後に松尾芭蕉文庫にも納められたようであるから、芭蕉門下の間で何らかの時に話題になったりすることもあったといえよう。そのため、『一葉集』に入った可能性が推測され、結果として芭蕉作として世に広まったのだろう。しかし、俳句の研究者の間では、この句が他の芭蕉の句集に見られないことなどを理由に、芭蕉親撰から外している場合が多い。或いは、存義の句であると知られていたものか。

以上のことから、「けふ彼岸菩提の種も蒔日かな」については今後、馬場存義の句として紹介していただきたい。彼岸会を熱心に行う宗派では、このことは良く知られるべきである。

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