法とは如来滅後、末代澆浮を以て国王大臣に附属し、仏法を護持すること、然り。
僧尼の出家は戒行、須らく備う、若し情淫佚を縱ままにし、煩悩に触塗すれば、人間に関渉して動じ経律に違す、
既に如来玄妙の旨を失す、又た国王受付の義を虧く、
遺教経は是れ、仏、涅槃に臨んで説く所の、弟子を教勅するものなり、甚だ詳要の為、末俗の緇素、並びに崇奉せざるんば、大道、将に微言隠るべし、
且く、永く聖教を懐いて用て弘闡を思い、宜しく所司をして、書手十人を差して、多く経本を写さしめ、務めて施行在るべし、
紙筆墨等の有司、准給せよ、
其れ官宦五品已上、及び諸州の刺史、各おの一巻を付し、若しくは僧尼の行業、経文と同じからざるかを見よ、
宜しく公私勧勉して必ず遵行せしむべし。
唐太宗皇帝御製『仏遺教経施行勅』
まず、唐の太宗(598~649)というのは、第二代皇帝となり、実質的な唐帝国の政権運営を安定させたとして知られている。それで、上記内容については、「御製」となっているので、皇帝自身の執筆という文献である。
さて、上記の内容を読み解くには、少し補足をしながらでないと難しいようなのだが、まず、ここでは仏法について、末法の時代ではあるが、国王などに付属されるものであり、国王などは仏法を護持しなくてはならないという立場であったことが推測される。それから、末法の時代について、日本史に詳しい人なら、それって、平安時代くらいじゃなかったの?とか思っているかもしれない。確かに、日本ではそうであった。日本の場合、釈尊の入滅から、1000年間は正法、更に1000年間は像法と考え、永承7年(1052)に末法に入ったと考えた。
だが、中国では、正法の1000年間は同じだが、像法を500年と考え、西暦552年には末法入りしていると考えている。そのため、中国では隋から唐代にかけて「三階教」が流行したが、開いた信行の生没年は中国で末法に入ると考えた時代に重なる540~594年であった。なお、この「三階」という表現は、正法が一階、像法が二階、そして末法が三階に該当し、明らかな末法思想に対応した教団だったのである。
よって、この太宗皇帝の見解は、末法の世に対する為政者側からの想いを見る必要もあるといえる。そこで見ていくと、僧尼の修行には戒行が伴うべきであるという。もし、それが出来なければ、如来の教えが失われるとしているのである。そんとあめ、『遺教経』の価値を主張し、これは釈尊が入般涅槃されるに及んで、弟子に説いた教えであり、末法の時代であっても尊ぶべきものであるという。
そのため、各地に書き手10人を遣わし、多く経本を書写させ、それを人々に施すという。そのために必要な紙や墨、筆などもしっかりと用意すべきだというのだから、余程本気だったのだろう。そして、各地の行政官に対しては、書写された『遺教経』を一巻ずつ進呈し、その上で、僧尼の振る舞いが経文と同じかどうかを確認するように示した。
よって、末法の時代ではあっても、戒行の実施を、『遺教経』を軌範として行わせることを目的にした行いだったと理解出来よう。その点、やはり戒律を示す経典という前提があったのである。
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