つらつら日暮らし

真宗の法名に於ける位階について

と或る会議の関係で、戒名の「位階」について議論したことがあった。そういう中で、他宗派のあり方も検討しているのだが、浄土真宗の場合は位階が付いていない印象である。そこで、その理由などについて示した文献があるようなので、見ておきたい。

他門には俗家の法名の下に信士・居士・童子・信女・童女等の称を付す。今家にはこれなきことは、釈の字を冒しむる故なり。生前又は没後にもすべて剃髪せしめ、釈某と法名を授れば、即是仏弟子の僧尼に信士等の称あるべからず。義を転ずれば通ずる義もあるべきかなれども、正しくは俗人の称なり。ことに居士といふは、処士に同じ。必しも仏弟子に局らず。香山居士・六一居士の如し。但し浄名居士の多釈なりと雖も、いまだ僧分の某居士と称せし例をきかず。まさに知べし釈の称は信士等の称と優劣懸隔せることを。
    玄智上人『真宗必携考信録』巻2(菅竜貫・明治20年)6丁裏~7丁表、カナをかなにするなど読み易く改める


まず、上記一節の見解では、浄土真宗で法名に於ける位階が無いことの理由について、「釈」の字が付いているからだとしている。つまり、同宗派では、生前であろうと没後であろうと、とにかく剃髪し、「釈某」という法名が授けるのは、これで良いという。また、仏弟子の僧尼に、信士などの称が無いとし、それらは俗人の称であるという。

一方で、居士は「処士」の意味にも通じてしまい、仏弟子に限ったことでは無いとしている。「処士」というのは、民間で仕官しない人をいうのだが、確かに「居士」の意味には、「居家の士」の意味もあるとされる(『祖庭事苑』巻3「居士」項参照)。しかし、それでは仏教徒の意味になるのかどうか曖昧となる。

更には、浄名居士(一般的には維摩居士)をどう扱うかで、議論があるような指摘がされているが、その詳細については当方は良く承知していない。実際のところ、維摩は居士そのものだと思うのだ。他に議論のしようもないのではなかろうか。

それで、結局、僧侶の立場として、「某居士」という呼称が無いということと、「釈」の称は、信士などの位階と比べようもないほど素晴らしい(本文からは分かりにくいが、それを察して欲しいということか?)という主張を行っている。

そして、当方自身分からないのは、ここで、「釈某という法名」を授かれば、それで「僧尼」になっていると思っていることになるようだ。この辺は、真宗の教義や儀礼に於ける「出家性」の問題を議論せねばならないので、容易ではないが、戒律も受けていないのに「出家」たる「僧尼」になるというのは、主張としては理解出来ない。

この辺、また別の資料なども見始めているので、その辺から理解したいと思う。また、この一節の前後も、同宗派に関する法名関連の記事が見えるので、それは機会を改めて採り上げてみたい。

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