それで、作品の様子を見ると、結局は仇となった伊右衛門を討つことが目的となり、物語が終わるようで、それが本当の救済になったのかどうかは分からない。ただし、当時の世俗的な観念では共感されやすかった可能性について、否定はしない。そして、この物語では、仏教的な救済は無い。伊右衛門は、祟りから逃れることを目的とするためか、僧侶に祈祷や念仏をしてもらう様子があるが、効いていない。
当然、亡者を救うことにもならないだろう。
だが、それはあくまでも仏教に詳しいかどうかも分からない人の脚本であるから、仏教を学ぶ者からすれば、他の見解が出ることもあるだろう。
若し父母・兄弟の死亡の日には、応に法師を請して菩薩戒経を講ぜしめて福をもて亡者を資け、諸仏を見ることを得て、人・天上に生ぜしむるべし。
『梵網経』下巻「第二十不救存亡戒」
以上の通りだが、父母や兄弟の忌日には、法師をお願いして、『菩薩戒経(梵網経)』を講じてもらうべきだという。その善行の福をもって、亡者に回向し、そして、諸仏に見えることを得て、人間界・天上界に転生してもらうように願うべきだという。つまりは、近親者の亡者に対して行われる、『菩薩戒経』を講ずるという功徳を、非常に高く評価していることが分かる。
死亡の日、戒経を講ずるとは、良く此の戒二徳有るが故に由る。一には能く悪を遮するが故に三途に堕せず。二には諸もろの善本なるが故に仏に見え天に生ず。戒中の戒を菩薩戒と謂う。広く衆生を度するは、理本を以ての故に。是の故に偏に菩薩戒経を説く。
太賢『梵網経古迹記』巻下「不救存亡戒第十」項
これは『梵網経』に対する評価であるが、ここを読むと、何故、亡者(亡霊・幽霊)に対しても有効なのかが分かる気がする。つまり、本経典が「菩薩戒」を説くためであるという。更に、その菩薩戒には、大きく2つの徳があるとし、1つには悪を遮るために、三途に堕ちないとし、2つには善の本であるが故に、仏に見えることが出来、生天出来るという。つまり、基本は諸悪莫作、衆善奉行ではあるのだが、その功徳を得る戒について、最も勝れているのが菩薩戒だとしている。
更に、菩薩戒は理を本としているからこそ、一切の衆生に功徳が及ぶことにもなる。結果、『菩薩戒経』を読んだ功徳を亡者のために回向するのである。そうすれば、救われないことは無い、あらゆる幽霊が救われるのであるから、物語上の登場者も同様であるべきだといえる。この辺が、一応今日の結論だったりする。
まぁ、これはあくまでも専門的な話ではあるが、簡単にいえば、ご先祖さまのために手を合わせるだけでも全く違う話なのである。そろそろ八月の盂蘭盆会も近くなってきたのであるから、新型コロナ対策を忘れずに、墓参の計画も立てていただきたいところではある。
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