つらつら日暮らし

自性としての「戒定慧の三学」とは?

戒定慧について、その一等などを示すことは禅門に限らず見られる教えのようだが、改めてこの三学の関係性を学んでおきたい。以下の一節などはどうだろうか?

  戒定慧
 戒定慧の三学とは、衆生の自性、本有の物なり。修証に因らずして、而も得たり。唯だ諸仏・菩薩の具足のみに非ず、一切の凡夫、悉く皆な具足す。
 自性に善悪無く、持も無く亦た犯も無し。是れ自性戒なり。
 自性に諍乱無く、取も無く亦た捨も無し。是れ自性定なり。
 自性本より知らず、知らざる所も無し。是れ自性慧なり。
 諸仏・菩薩、有を知るが故に受用を得る。一切の凡夫、有を知らざるが故に、受用することを得ず。有を知り有を知らず、似て少かに異れり。
 而も戒定慧、未だ嘗て少かにも異ならざるなり。
    『緇門警訓』巻4


さて、ここで採り上げているのは、「自性」としての「戒定慧」である。分かっているような、分かっていないようなこの「自性」。定義としては、例えば「諸法、自性有ること無しとは、性の空なるを以て諸法の各各の性を破す」(『大智度論』巻52)などとあって、それぞれの存在が持つ「本質」を「自性」という。空思想ではもちろん、空をもって本性とするが故に、自性の否定が行われる。しかし、その自性の否定としての空性を、ただ各々の性への否定のみに用いるのでは無く、あえて、空性であることの強みを積極性に変えた場合、上記のような「自性としての戒定慧」になるといえる。

まず、ここでいう戒定慧は、衆生の自性だという。自性だからこそ、本有だといい、修証に依ること無く、得ているという。諸仏・菩薩が具足するのみでは無く、一切の凡夫だろうと、ことごとくが具足しているという。つまりは、衆生の本質に戒定慧を充てていることになる。だが、そうなると、凡夫は凡夫であるが故に、戒定慧が具わることはあり得ない、と思われることもあると思う。

よって、ここでいう「自性としての戒定慧」を考えなくてはならない。

つまり、自性は空性だという前提を元に考えると、空性は善悪も無く、持犯も無い。これらは、分別を当てられないことを指している。そして、善悪や持犯を否定的に超越することをもって、「自性戒」としているのである。

また、諍乱もなく、取捨も無いとしている。これを、「自性定」としているのである。確かに、諍乱や取捨をしないことが、禅定の結果ではある。よって、空性そのものに徹すれば、「自性定」である。

空性は自ら知ることも無いが、既に具わっているので、知っていないということもない。しかし、それこそが「自性慧」であるという。

さて、問題はこの空性としての自性との関わり方だが、諸仏や菩薩は、その実態を良く知っているため、受用することが出来る。一方で、自らに具わっているはずの衆生は、その実態を知らないので、受用出来ない。具わっているという前提からすれば、諸仏と衆生に区別は無いのに、受用の仕方には区別が出てくる。

ただ、この違いは大きな差である。そうなると、凡夫たる存在としては、自性としての戒定慧が具わっていることをよく自覚し(或いは信じ)て受用していくようにすれば、諸仏に近いといえるのかもしれない。

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