つらつら日暮らし

2月は『遺教経』学習月間

2月は、15日に釈尊涅槃会が行われることもあり、一部の宗派では『遺教経』などを読誦し、学ぶ機会にしていることもあると思う。そこで、拙ブログでも例年に倣って、『遺教経』を学んでみたい。そこで、まずは、この『遺教経』に対する評価として、中国明代の雲棲袾宏(1535~1615)による教えを見ておきたい。

  遺教経
 世人、臨終に言を為して以て子孫に示す、之を遺嘱と謂う。子孫、之を執て以て憑拠と作し、世に守りて変ぜざるものなり。
 況んや三界の大師、四生の慈父、説法すること四十九年、最後の遺嘱なるか。
 僧為る者、当たる所、朝誦暮習し、師授けて徒伝え、終身に之を奉り、一日たりとも廃忘すべからざるものなり。乃ち之に等する童蒙の書を以てし、之を閒処に於いて、復た論究せざること、豈に如来の逆子、仏法の頑民に非ずや。
    『雲棲法彙』巻14


例えば、大乗経典の『大般涅槃経』を「扶律談常」と表現することがあるが、「扶律」という観点では、まさに『遺教経』も同様である。そして、更には『遺教経』は、その「遺」の字からも分かる通りで、一般的に本経典は涅槃部に属し、釈尊の遺言の一部として扱われているのである。

そこで、雲棲は以上の通り、世間の人々も臨終に際しては遺嘱し、子孫たちはそれを根拠としつつ、時代が変わっても容易には改変しないものだとしている。一方で、『遺教経』は釈尊四十九年(30歳12月で成道、80歳で入滅という認識)の説法の、最後の遺嘱であるとしている。

そのため、世間に於ける遺嘱と同じように、僧侶たるものは、この経典を朝に読み、暮れに学び、師は弟子に授けて伝え、終身にこの教えを奉って、一日たりとも忘れてはならない、としているのである。もし、そのような学びをしないのであれば、これは如来の弟子でもなく、仏法の「頑民(頑なに悪しき道理に従う者)」だと批判したのである。

よって、この雲棲の批判にもある通りで、『遺教経』は適切に学ばれるべきであると言える。当方でも、毎年この時期を中心に学ぶ機会を得ているが、今年もまた学ぶことで、来たる釈尊涅槃会に備えたいと思う。なお、ただ本文を学ぶのみでは、流石に毎年の繰り返しになるので、今年は何らかの註釈書や解説書も合わせて見ていきたいと思っているので、しばし、お付き合いを願いたい。

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