(2013-04-08 情報更新)
那須与一のお墓があると伝えられる。
屋島の合戦の後、鎌倉に引き上げてから与一が目の病にかかった時、
厚木の天王森に祭られた薬師如来が眼病に効くと伝え聞き、祈願を行うと完治した。
その礼として智音寺を建立したとされる。
(2012-09-30 初回参拝)
神社名がお寺っぽいので、不思議に思いながら参詣。
地図には智音寺と書いてある。
実際行ってみると、智音神社とあり、鳥居もある。
しかし鳥居をくぐると……左手に広がるお墓。
失礼ながら、ここまで神さまの気配のない神社も珍しい(´・ω・`)
鬼子母神社
鬼子母神堂 由来書き(境内掲示より)
智音寺境内の鬼子母神の由来を述べますと、明治の初め現在の厚木市東町2の3の所に6代目高部源兵衛という呉服豪商がおり待ちで1、2を争う繁盛をしておりました。
ある夜のこと、源兵衛の夢枕に鬼子母神が現れて、十羅刹の元屋敷に鬼子母神を祀るようお告げがありました。
驚いた源兵衛は土蔵の中にあった仏像が鬼子母神であったことから恐れおののき早速元屋敷(現旭町4丁目5の11)に立派なお堂を建て鬼子母神を祀りこみ盛大に供養祭を行ったという。
その後は毎月の8日を縁日とし、沢山の露天商も出て大正末期までは大変にぎわったがいつか智音寺の境内に移されてからは訪れる人も少なくなりました。
この鬼子母神堂が風雪と共に破損し、今にも朽ち果てようとするその哀れさに厚木南区文化を考える会が尊像の修復と堂宇を再建のため浄財を募り、完成したのがこのお堂です。
厚木南地区文化を考える会
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