ダイナマイトが百五十屯〜1958年(昭和33年):KIINA.2002年
https://m.youtube.com/watch?v=RYfexl64ehY
戦後のアメリカ軍による占領の時代が終わると、各映画会社は再び自由に映画制作と配給を開始しました。この動きに一歩遅れをとった日活は調布の多摩川べりに撮影所を建設し、高い報酬を餌に他社の監督や俳優の引き抜きを計りました。これに危機感を持った大映の永田雅一社長の呼びかけで大映、松竹、東映、東宝、新東宝の5社が申し合せ、1953年に専属の監督、俳優の引き抜きと貸し出しを禁止する、いわゆる「五社協定」が密かに調印されました。
自前の俳優を急ぎ発掘しスターに育てる必要に迫られていた日活に、この時忽然と現れたのが石原裕次郎さんでした。
「狂った果実」と「嵐を呼ぶ男」で、これまでの二枚目の男優の既成概念をことごとく打ち破る佇まいと伸び伸びとした肢体で裕次郎さんはたちまち若者たちの支持を集め、日活はこれ以降ほとんど全作品をアクションものに塗り変えてしまいました。
裕次郎さんの登場について映画評論家の佐藤忠男さんは「そのころ日本人は、日本の貧しさや後進性を反省してばかりいる映画に飽き飽きし、力いっぱい行動してスカッとしたいと思っていた」「そこに現れて、文字どおり若者たちをスカッとさせてくれたのが石原裕次郎だったのである」と解説されています。
その日活において裕次郎さんの次にスターとなったのが小林旭さんでした180cmの身長と柔道で鍛えた逞しい体躯を持つ旭さんも裕次郎さんとは違った魅力で若者たちのヒーローになりました。
ある時、旭さんの独特な高い声の鼻歌がコロムビアのディレクターの耳に留まり強い勧めでレコーディングをすることに。その2曲目の「ダイナマイトが百五十屯」が大ヒット。これ以降旭さんの愛称は裕次郎さんの「タフガイ」に対抗して「マイトガイ」と呼ばれるようになりました。「ダイナマイトが百五十屯」の作曲はまだ新進気鋭でいらした船村徹さん。これまで若者の人気を集めていたアメリカ輸入のロックンロールのカバーではない、純国産のロックンロール第一号と言われているそうです。
裕次郎さんは昭和62年に惜しくも亡くなられましたが、旭さんは86歳の現在もお元気で、全くお変わりなく「アキラ節」を歌っていらっしゃいます。「思い出のメロディー」でKIINA.とも共演されましたね。
1958年という年は国内の映画館入場者数がピーク(11億2700万人)に達した年です。テレビがまだ一般の家庭に入り込むには高嶺の花だった時代、庶民にとって一番気軽に足を運べるのが映画館だったのでしょうね。
ここから少し「昭和史」のテーマから逸れてしまうかもしれません。
日活のアクション映画についてあれこれ考えていた時、その日活カラーの元になった石原裕次郎さんを見出し映画の世界に引きづりこんだのは水の江滝子さんだったことを思い出しました。水の江さんでなければ、他の関係者には裕次郎さんの魅力は理解出来なかったでしょう。この時代の日活の隆盛はひとえに水の江さんの慧眼によるものだったと考えた時、改めてプロデューサーの直感力、眼力というものに思いを致しました。
今回のガラ・コンサートにKIINA.を呼んでくださった宮本亞門さん、もっと遡れば男性の演歌歌手など見向きもされなかった時代にKIINA.の魅力と将来性を見抜いてくださった長良会長。おふたりの優れたプロデューサーにKIINA.は出逢うことが出来ました。そうした特別な眼力を持つ人に出逢うという運を持つことも才能のひとつなんじゃないのかなぁと。
小林旭さんと日活からどんどん思考の方向はKIINA.の方へ大幅に逸れていってしまいました。いつものことですがσ(^_^;)
※味わい尽くす♬40
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