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日記、日々の想い 

伊能忠敬、まだ、自分も…

 朝、何よりの日課になっている、フォローさせて頂いてる方々のブログを、読ませて頂いていた。そこで、気に止まった話。あの御木本真珠の御木本幸吉さんが、二宮尊徳を、尊敬されていて、色々顕彰に、力を尽くされたと言う。

 御木本真珠と言えば、若い頃に、都心のハロウィン繁華街にある百貨店の時計宝飾サロンで、派遣社員をしていた時のことだった。その同じフロアに、店を構えていた御木本の同世代の社員のお姉さんに、いつも、にこやかに朝の挨拶をして頂いたことを、思い出してしまう。とても、清楚で、美しい女性だった。真珠店の社員らしく。あまり、愛想良くして頂いたので、ひょっと少し気にして貰っているのかな、とか、勘違いもしていた。既に、稼ぎも碌に無いくせに、結婚をしていて、同世代の彼女に、アプローチして、撃沈することも出来ずに、御免なさい。
 世界的に、養殖真珠を広めた、偉大な事業家の御木本幸吉氏の話に、こんなくだらない逸話は、そもそもいらない。ただ、御木本氏の立ち上げた会社は、それ程、格調の高い会社で、社員も、魅力的だったと言う事ではある。

 そして、二宮尊徳。自分は、その頃、情緒不安定な役立たずの社員だったので、程なく、都心の店舗から、正月の大学駅伝の山の麓の城下町の支店に、飛ばされた。
 ただ、この街は、少し離れるが、K県の西部の海沿いで、自分の生まれ故郷の街とは、同じ地域。二宮尊徳の生まれ故郷でもある。あの薪を背負って、読書に励み、小学校に銅像として立つ、報徳の金次郎少年だ。自分の生まれ故郷の地域を代表する偉人、社会事業家でもある。江戸後期のこの地域の飢饉を救った、地域の恩人でもある。

 その街に、勤めていた時代の仕事の帰りに、良くお土産に買って帰った、ういろう。抹茶味が、特に好き。室町時代から続く、その城下町を代表する老舗の銘菓。歌舞伎十八番で、団十郎さんが売る「透沈香」の口直しのお菓子。だから、決して、城で持つ中部の大都市の発祥などではありません。勝手に、名物と言うのは、止めろ!御免なさい。狭量な、郷土愛です。
 二宮尊徳は、やがて、幕府にも出仕して、自分の今の地元の近くに広がるI沼の開拓事業などの提案も行ったと言う。採用されなかったらしいが。ここで、やっと伊能忠敬。それぞれ、時代も多少違うし、業績も違う。唯一の接点があるとすれば、この自分自身の中。尊徳翁は、生まれ故郷の地域の偉人で、忠敬翁は、この終の住処の地域の偉人だ。

 色々、連想していた。要は、自分は、取り分け、伊能忠敬に、近年、憧憬を抱いていると言うこと。もちろん、物臭な自分のことだから、その生涯を掘り起こして、業績を辿るなんて面倒なことは、しない。ザクッと、生涯を知って、勝手に憧れて、あんな風に生きられないものかとあれこれ、妄想を巡らせるだけに過ぎない。

 伊能忠敬は、今自分が住む、C県の九十九里も、延々続く、海辺の街の出身。長じて、幕府お膝元だった現代の首都、勝りとまで言われた、大河T川の水運の街、その大商家の婿養子に入ったと言う。その商家を建て直し、街の名主ともなり、功なり名を遂げて、跡継ぎに、家業を譲り、隠居した人。
 しかし、彼の凄いのは、それから。興味を抱いていた暦学を極める為に、幕府の天文方で、学ぶ。やがて、幕府の命で、実測の地図作りを、差配する。本当に、日本中を、歩測して、地図を作ったのだ。蝦夷地は、弟子筋で、間宮海峡を発見する間宮林蔵が、歩いたらしいが。とにかく、その結果、「大日本沿海輿地全図」と言う日本史上初の正確な日本地図を完成された。残念ながら、その完成は、死後だったと言うことだが。
 何が、凄いと言って、この地図の正確さにある。それ以前のだいたいで、夢想半分のような地図とは、まったく性格が、違う。欧米の列強が、日本への本科的な進出を狙っていた江戸後期。シーボルトなど、この「伊能図」を狙ったエージェントたちがいた。そして、世界を席捲して、植民地化していた列強の科学力も及ばない次元の正確、精細さで、その彼らを、驚愕させたと言う。

 忠敬が、幕府天文方に学び、地球を球体とする、実証的で、先進的な天文学の裏付けの元に、全国を歩測して歩くと言う驚異的な営為の末、この地図は、完成された。残念ながら、伊能の死後、数年のことであった訳だが。

 とにかく、自分が、この高齢者になって憧れてしまうのは、伊能が、この地図の歩測を、五十五歳から、始めたと言う事実。そして、七十三歳の死の時迄、続けた。確かに、完成を見ることはなくて、弟子たちが、その地図を、幕府に上提する訳だが。しかし、蝦夷地を除く測量は、ほぼ完成していて、その成果を、弟子たちが纏めた。だから、「伊能図」とも呼ばれる。

 自分は、高齢者になってしまっている。しかも、脚も少し悪い。ただ、江戸期の五十五歳の平均余命を考えれば、自分の方が、地図を作り始めた忠敬より、残された時間は、長いとも言える。もちろん、才能、残された気力、体力を、別にして。でも、あれだけの偉業を、人生五十年だった時代に、寿命が尽きていた年齢から始めて、ほぼ成した。そして、完成に向けて、前向き、前のめりに、亡くなった。そんな生き方が、出来て、人生を終われたら、どんなに幸せだろうか、と。

 そんな憧れの下地もあって、このブログも、意外と嵌って、一生懸命書いている。伊能さんに遥かに及ぶ筈もないが、何処かの片隅にでも、少しでも、自分の爪痕を、残しておけないものか、と。
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