叡智と成長

高森光季ブログ

【採録】梅原伸太郎「脱魂と他界」 6(終) 〔脱魂によって他界は始まる〕

2015-05-08 00:05:00 | 梅原伸太郎「脱魂と他界」


■(3)

◆憑霊型も脱魂する

 このように一応は綺麗に分類できた脱魂と憑霊という区分が、私の調べによれば意外な展開になります。憑霊型も実は本人の霊魂は身体から抜けているらしいということがわかったのです。そのような例を私は『「他界」論』のなかに幾つか示しました。これはスピリチュアリズムの霊媒の例で指摘しました。
 憑霊も完全トランスのような場合には霊魂が身体から抜け出て、身体の脇でぼんやりと他界の霊が自分の身体と意識を使うのを眺めているという報告があります。あまり能動的な活動をしていないのが特徴ですが、憑霊する霊に押し出されて身体の外にいるというのです。脱魂型は身体の外に出ると能動的、積極的に活躍するのですが、憑霊の場合は身体の外にいながら受動的状態です。
 そうすると、事実上は両方とも脱魂ということになります。それどころではない、脱魂型も憑依によって脱魂している場合が多いということがわかりました。また一人で両型を兼ねるという場合も実際上は多いのです。これではそもそも、脱魂と憑霊の区別がなりたたないではないかということになりかねません。実際区別は難しいのです。
 そこで、シャーマニズム研究は脱魂の属性として霊魂が身体から抜け出すということだけではなく、他界訪問、精霊統御を考えているという点が重要になるのです。単に脱魂するだけでは脱魂型とはいえません。実際には能動的に他界を訪問探索し、他界の存在と交渉をもつという積極性が大事な目印となっているのです。
 以上のような問題点はあっても、基本型としての区分は有効だと思います。それはこの二つの型がそれぞれ典型的に現れた場合にはやはり画然とした両者の特徴が際立つからです。
 脱魂型に分類されるタイプは能動的で、身体の外(他界)に出て他界の存在と出会い、他界の存在の話を聞き、後でこれを復唱するような形で人に伝えます。頭は概して明敏で、性格は活発、社会との交渉力を備え、男性的、呪術王的です。理念的なところもあり、宗教の教義などを自分でつくるか、教団を自ら組織するような傾向があります。これが悪くなるとハッタリや策略を用いて、人間集団を支配しようとする方向にいくのです(オウムの例)。
 これに対して憑霊型は他界の存在に自分の身体と意識を委ね、憑依した霊そのものが直接発言、行動する形をとります。専ら他界主導なので、社会との交渉も人に任せる傾向があります。純粋な場合には自己を滅した神ともまがう純一無比の人格となり、自然に周囲の人の崇敬を受けるようになります。教団などを組織する場合には審神者役の人が実際面を任せられ行うようになることが多いのです。
 脱魂と憑霊の区別は霊魂が身体から抜けでるか否かでは区別がつかず(両方とも抜けています)、一人の霊媒が両型をかねる場合がありますので、最終的にはシャーマンや霊媒の中枢意識を自分が支配しているか、他界の存在が支配しているかを目印とする以外にはないと思われます。ここで意識の能動性、受動性がやはり問題となってくるのです。しかしこれは私か勝手に付け加えたので、シャーマニズムの研究者はびっくりするかもしれません。(『「他界」論』を読んだシャーマニズムの研究者の佐々木宏幹さんは私に会いたいと言っておられるそうですが)
 私は他界透視(霊視)は本来的に脱魂型の能力に属するものであるとしましたが、これなども今後問題になる点だと思われますが、憑霊型の人は霊視が得意ではないという事実があります。
 シャーマニズム研究は脱魂型と憑霊型の中間型として予言型というのを立てていますが、これは昔から見者といわれた人に近いのです。そして現在霊能者といわれている人の大半はこのタイプです。ついでながら言っておきますと、坐禅観法に似て憑霊を押さえる目的の精神統一法を行いながら、憑霊型の霊媒を得ようとするやり方は根本的な矛盾を含んでいると思われます。

◆広義の脱魂と狭義の脱魂がある

 こうして広義の脱魂の定義が出てきます。脱魂型も憑霊型も実は脱魂している。そういう意味では両方とも広義の脱魂にあたる。広義の脱魂のもとにあるのがシャーマニズムでいう脱魂で、これは狭義の脱魂です。
 シャーマニズムの研究で偉大な功績のあったミルチャー・エリアーデという人は脱魂こそシャーマニズムの本来の姿であるとし、憑霊を第二義的なものだと長いこと主張し続けました。後には憑霊を認めたようですが、霊魂が身体から抜けだすことの特別な意味合いを感じていたのかもしれません。
 いずれにしても、霊魂が体から抜け出すことが他界交渉のはじまりなのです。ところが、この脱魂の仕方には完全脱魂と不完全脱魂あるいは部分脱魂があるのです。いわゆる霊能者といわれている人の多くは、本人にその自覚があるかどうかはともかくとして、不完全脱魂か部分脱魂であると思います。シャーマニズムやスピリチュアリズムの世界には完全脱魂がみられます。スピリティズムでいうペリスピリットによるものや、神智学でいうエーテル体の筒のようなものが体から延びていくことによる遠隔視などは、それらが何と名づけられるにせよ霊魂の一部とみなせますから、部分脱魂の一種であると考えてよいと思うのです。ここではこれらについては詳述しません。
 ところで、こうした問題は通常の霊能者に訊いてもその答えはあまりあてにはなりません。飛び抜けてすぐれた、実証能力のある霊能者に訊ねる必要があります。第一普通の霊能者や霊媒はこうした問題意識すらありませんし、問題意識のないところに正確な答えはないのです。
 いずれにしても、ここに広義の脱魂(霊魂が身体から抜け出すこと)は他界と接触する上での基本条件であるというテーゼが出てくるのです。実はこれが今日の主題の結論であったのです。脱魂は他界交渉の本といえます。本山博先生はヨーガを教えていますが、まず最初に仮死状態にならなければ本物ではないと言っています。ずいぶん思い切ったことを言われたとおもいますが、このことばは先生がただのヨーガの先生ではないことを示しています(本山先生は生まれつきの霊能者であるうえに、徹底してヨーガを極められた人です)。この状態はほとんど死に近い形の他界訪問状態で、近似死体験というのと似ていると思います。
 広義の脱魂なしに霊的体験はありえません。これを死なずに経験することがあらゆる霊的体験の始まりであり終わりです。一般の人にできがたいのは当然です。これを行うには生まれつきの体質(霊質)や使命が必要です。指導霊の導きと保護のなかに脱魂することが必要なのです。ただ脱魂するだけでは霊媒とはなりません。
 先にも述べたように、すべての霊修行は最終的に脱魂をめざすものなのです。すべての宗教、神秘主義において、この事実が伏せられています。事実の加工と粉飾があるように思います。指導者本人も気づかないでいます。気づかないままに事実そのものにごてごてと付け加えたり、飾りたてたりしているのです。ヨーガですらそうです。ヨーガやスーフィーの修行は人間の身体的意識の内面に向かっていくので、多くの人はこのことに気がつきません。ヨーガは内面化の究極において内側から脱魂する道です。身体の内側に向かって徹底しても、結局は身体から出るのと同じです。そこはもう身体ではないのです。
 一般には薄めのトランス、薄めの脱魂が流行って安直な霊能者や自称チャネラーをつくりだしているようです。
 脱魂が危険なのは当然です。死に近づく道ですから。他界に入ることですから。そこでヨーガには脱魂させないための制約が課せられているのです。最終的に脱魂させるための修行(このことは隠してあります)でありながら、弟子たちがやたらに脱魂しないための用心をしているのです。よく分かった導師ならば、弟子の心が整って、抜けたときの他界が低次なものではないという保証があるまでは脱魂させません。そこを過つと、オウムのようなことになります。脱魂をあせり急かされて、抜け出たところが魔界という悲劇です。


図2 脱魂と霊魂遊離の段階

              ↑  トランス
              |  エクスタシー(狭義の脱魂)
  霊魂離脱の状態     |  ソムナンビューリズム(夢遊症)
   (広義の脱魂)     |  一般透視家の状態
              |  睡眠
              |
           他 界 レ ベ ル
 身体境界―――――――――――――――――――――――――
           身 体 レ ベ ル


◆霊魂遊離の段階

 脱魂にも段階があります。睡眠も脱魂の一種ですが、それよりも深い脱魂状態がエクスタシーで、普通はこれが脱魂と訳されております。アラン・カルデックの本でソムナンビューリズム somnambulism とあるのは、これに近い状態ではないかと思います。この状態では夢遊病的状態でかなりよく様々なものを透視したり予言したりするケースがあり、十八世紀のヨーロッパでは盛んにそのような例が報告されました。カルデックの分類はそうした事実に基づいています。
 一般の透視家というのはこれよりも浅い状態で様々なイメージをみますが、そのなかに自分の意識や記憶が混入しますので、誤りが多く含まれています。最近は浅いトランスで宇宙を語るのが流行っています。アメリカのニューエイジのお師匠さんにはインドからきたヨーガの先生が多かったのです。一神教に愛想をつかして神ばなれした連中がヨーガの先生に掴まって宇宙意識を吹き込まれたのが、最近は日本に伝わってきました。「宇宙」でこれまでの創造神の代理をさせようというわけですが、アメリカ西海岸のすこし遅れた流行です。これだとやはり人間他界に触れないで誤魔化し、二、三千年来の過ちを継続できるので、一神教の人たちにとってはメリットがあります。中東的、インド的固執です。日本人は二千年もインドにお付き合いをしてきたのでいろいろ知っています。しかし、日本に生まれても経験の浅い人はおります。物めずらしさにひかれて宇宙、宇宙といったところで、人間他界から神他界への梯子段が突然消えてしまうわけでもありませんし、死後に魂がどこかの宇宙に掻き消えてしまうわけでもないのです。
 トランスということばは現代においては新しい解釈が施されており、軽い変性意識状態から深い変性意識状態までを含むとしております。医学的な見地から当協会の佐々木雄司先生などはそうした新しい解釈に立たれているようです。これはトランスの定義の問題ですから別に反対する理由はありません。
 しかし、根本的には霊魂が身体から離れた状態の深いものが古典的なトランスの意味です(これは霊魂実在の立場にたつので学会や科学の世界では受け入れられません)。いろいろ霊界に問い合わせて書かれたカルデックの本ではやはりそうなっています。トランスは、エクスタシー(脱魂)よりも更に霊魂が身体から離れた状態であるとされています。
 トランスに入ると、意識は全く身体の拘束から離れます。そしてある主観的な意識の状態のままが持続するのです。すでに本人の霊魂は身体から遊離しています。このとき意識の中枢を自分が支配しつづけるか、他界が支配するかで二つの状態に分かれます。完全脱魂による他界訪問か、完全憑霊による他界の支配(つまり他界の霊の現界訪問)かの区別がここで生ずるのです。脱魂も憑霊も霊魂が身体から離れた状態ですから、両方ともトランスであることになります。ついでにいえば、催眠によるトランスと言われているものは、実際には霊魂が体から離脱せず、自我と結びついた神経作用と意識が分離した状態であるとされます(『不滅への道』参照)。

◆他界への献花

 脱魂と一口にいいますが、神秘学の探究に入っていくと、霊魂にもレヴェルがあることがわかります。いったいどの段階の霊体が脱魂するというのでしょう。アストラル体でしょうか、メンタル体でしょうか。それともさらに高次の魂が脱魂するのでしょうか。これは私の結論であり仮説ですが、アストラル以上のメンタル、コーザルというような段階よりも、複体(エーテル体)の次元が問題であると思います。私は複体が多少とも外化しないと心霊現象は起こらないと考えています。これは物理的心霊現象も精神的心霊現象も同じです。ことに真正のものとなると、高次の霊体の働きよりも複体の働きが重要ではないかと考えております。
 たぶん優れた芸術家や、思想家のなかではアストラル体やメンタル体が盛んに活躍していると思います。しかし、複体が外化しないことにはこれら魂の活躍は正確な他界情報とはならないというのが私の考えです。そこに本人の空想や解釈が加わってしまいます。他界について幻想的なロマンを綴ったり、観念論的な哲学で終わります。その空想は他界の影響を受けてはいますが、もともと不正確な情報のうえに主観的な意見を上塗りしたものです。
 チャクラの問題については大分以前から考えています。私が以上申しあげたことは、それを考えたうえであえて言っているのです。よく考えるとチャクラの問題とスピリチュアリズムの問題は折り合いがよくありません。チャクラの問題をもってくると、スピリチュアリズムの霊媒は全て、マニュプラ段階の低級霊媒ということになります。本当にそうでしょうか。ヨーガをやる人や神智学をやる人は本当に高級なのでしょうか。麻原の一派はヨーガやチャクラを短絡的に考えて失敗した例です。インドのチャクラ主義では、霊的問題のすべてを解決できないと私は考えています。チャクラの意味がないというのではありません。高度なチャクラを開発し、活動させることは必要でしょう。しかし、最も基本的な複体の部分が身体の外に飛び出すか外化して、そこから更に高次の霊体が飛び出していくという形にならない限り、他界の情報は正確なものとはならないと思うのです。
 複体は物質である肉体と他の霊的な身体との交差点にあります。この機能がよく働かないと解像度のよい映像はもたらされず、またよく解析された情報とはなりません。まして霊的世界から物理的次元へのエネルギー変換は無理です。物質に近い次元の複体が外化することによって、初めてチャクラの問題も生きてくるのだと思います。これはあらゆる神秘主義や宗教が避けて通っている問題ではないでしょうか。
 高度の精神性や高度の宗教哲学や道徳性も大事なのは重々わかっているのですが、ことは他界との交通や情報伝達の問題であり、その正確さが重要です。どんな高度な精神性が述べられていても、曖昧であったり、粉飾があったりすれば重要性は減じます。
 私は『「他界」論』でスピリチュアリズムの霊媒の身体性を強調しました。またスピリチュアリズムの問題を世界の宗教史のなかに位置づけて、私の『「他界」論』を「入口であり出口である」と言ったのはそのことによります。複体の重視については、リードビーターの説やシュタイナーの説が参考になります。しかしこれらのことは混みいった霊学の問題で、当面私の仮説ということにしておいてください。
 脱魂によって他界が始まります。しかし、これは広義の脱魂で、シャーマニズムでいう脱魂は狭義の脱魂であるということになります。単に体を抜けたというだけでは駄目です。しかし、そこから他界は始まります。
 脱魂も憑霊も実は本人の霊魂は身体の外に出ます。厳密にいうと複体が外に出て、それと共に他の霊体も外に出ます。複体は身体硬直(カタレプシー)にでもならないかぎり、おそらく完全には外へ出ないでしょう。複体の身体からの脱出は物理的心霊現象の場合に起きます。このときは複体の生産するエクトプラズムも外化します。脱魂型の霊媒の場合は外に出た霊魂が自由に他界を訪問しますが、憑霊の場合はすぐ側にいて、不活発な状態でいるのではないかと思います。そして本人の霊魂の代わりに憑依霊が身体のなかに入り種々の言動をするのです。そうした状態では、憑霊中の本人の意識はなく、覚醒後の記憶健忘が生ずるのです。心霊手術もこのタイプに属し、エクトプラズムが用いられていると思います。
 霊能力者は普段から複体の一部が外に出ている人が多い。実はこのようなタイプも、私は部分脱魂であると考えています。
 ブラジルの旧都サルバドールでは、実際の免疫学の専門医で、身体透視が自在にできるというジョージ・ベルトーシという人に会って数時間話のインタビューを試みました。この人はあるビルの診療室をもって昼間は普通の医師として患者を診ています。しかし夜になると身体から抜け出して彼の指示にしたがわない患者のころに行き、睡眠中に脱魂している患者の魂に言い聞かして治療するというのです。一緒に行ったジューデマル(バイア大学物理学教授)さんが家族の人を診てもらったとき、その透視はレントゲンより正確だったということです。この人の能力が大変高そうなので、いろいろと質問したうえに私の脱魂説に対する彼の見解を聞きました。能力者にとって重要なのは複体部分ではないのかとの私の質問をぶつけてみたのです。そうすると彼はいとも簡単にこう答えました。「自分(ジョージ医師)のような人間はその部分がいつも少しばかり身体の外に出ているのです」と。チャクラについては霊能を増幅する作用があるという答えでした。この人は普通の人に霊を憑依させて、一時的な霊媒にしてしまうなどということもできます。これを霊の行動を霊視し、心のなかで霊と話しながら行うのです。まさに精霊統御を行う脱魂型の典型であり、自分が何をしているかを知っている能力者でした。
 先ほどちょっと出ましたブラジリアの桜井さんのところでは、心霊手術中の霊媒の霊魂は手術中どうなっているのかという質問をしました。すると桜井さんはあるときシコ・シャビエールにそのことを聞いたと言うのです。シコ・シャビエールは手術中、本人の霊魂は三メートルほど本人の身体の後ろにいる。そしてそのあいだに本人の守護霊が立って、本人には手術の様子が見えないようにするというのです。見えないようにするというのは本人の心にショックを与えないためでしょう(桜井さんは守護霊ということばを用いましが、私たちのいう指導霊のことでしょう)。
 私は心のなかで快哉を叫びました。この二例はまさしく私の想定どおりではないかと思ったのです。憑霊型の霊媒も脱魂はするが、本人の身体のすぐ側にいて、他界訪問的な自由な活動はしていないということです。脱魂していても脱魂型でないなど、シャーマニズム研究の人たちは知りません。本人の霊が手術の模様を見えないようにするという理由は、私か持ちかえった心霊手術の衝撃的な場面をみれば、皆さんも納得されることでしょう。
 広義の脱魂と共に他界交渉は始まります。そしてあらゆる霊的修行は狭義の脱魂を目指します。憑霊は広義の脱魂ではありますが、それは修行という能動的な概念には似つかわしくない純粋な他界への全託であります。高次の存在との一致においては、自力や能動の観念はいつかは消え去るべきものと思います。憑霊の意識と身体が高貴で純粋な神や他界への献花でありますようにと私は祈らないではいられません。それがまた私たち日本民族がもち伝えた民族の霊性の極粋でもあります。
                                        (了)

(Copyright 1996 by Yukiko Umehara)

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高森蛇足
「どんな憑霊も脱魂から始まる」というのは、驚くべき指摘です。
もっとこのあたり、探究の余地がありそうですね。

肉体よりも高次な「様々な霊的身体」の議論は、いろいろな人がいろいろなことを言っていて、名前もばらばらで、実に複雑です。私はよくわかりません。感知したり統御したりできるものなのでしょうか。
ただ、一番肉体に近い(粗くて物質に近い)「複体」の働きは、注目すべきものだと思います。様々な心霊現象がこれによって起こっていることは確かですし、「エクトプラズム」とか「気」とか「経絡」とかもこれに関連している可能性があります。そしてこれはそれほど達人的な修行をしなくても、呼吸法や瞑想によって多少は感知したり活性化したりできるようです。私はやってみましたがあまり大したことはできませんでしたけど(笑い)。
しかしどうやったら客観的な研究ができるのか、私にはよくわかりません。鍼灸や気功の専門家の方々に頑張っていただきたいな、と。

《最近は浅いトランスで宇宙を語るのが流行っています。アメリカのニューエイジのお師匠さんにはインドからきたヨーガの先生が多かったのです。一神教に愛想をつかして神ばなれした連中がヨーガの先生に掴まって宇宙意識を吹き込まれたのが、最近は日本に伝わってきました。「宇宙」でこれまでの創造神の代理をさせようというわけですが、アメリカ西海岸のすこし遅れた流行です。これだとやはり人間他界に触れないで誤魔化し、二、三千年来の過ちを継続できるので、一神教の人たちにとってはメリットがあります。中東的、インド的固執です。日本人は二千年もインドにお付き合いをしてきたのでいろいろ知っています。しかし、日本に生まれても経験の浅い人はおります。物めずらしさにひかれて宇宙、宇宙といったところで、人間他界から神他界への梯子段が突然消えてしまうわけでもありませんし、死後に魂がどこかの宇宙に掻き消えてしまうわけでもないのです。》
というのは痛烈な批判ですね。
ギリシャの聖人ダスカロスも「人間の魂は死後、宇宙意識に一体化するのでしょうか」と聞かれて、「は? そんなんなら早く死んだほうがましということになるだろ」と笑って答えていました。
「人間他界に触れないで誤魔化し」というのは、スピリチュアリストから他の神秘思想・宗教思想への最大の批判でしょう。

以上で採録はおしまいです。
これはしばらくしたらTSLホームページの梅原文庫に格納します。

しかし……20年前と状況が何か変わったかというと、悄然とします。

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