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【加古爺のつれづれ一行詩集 第28回】

2023-01-25 17:23:00 | 日記

「阿弥陀如来坐像(八寸)」

いよいよ「光背」の制作に入りますが、その前に、もう一度「阿弥陀如来の特徴」をまとめておきたいと思います。

阿弥陀如来の姿は、他の如来、特に如来像の基本形となる「釈迦如来」とほとんど同じで、衣服や髪などでは区別がつきません。

阿弥陀如来にしかない特徴は意外と少ないのですが、手の形(印)に、最もよく特徴が出ています。

阿弥陀如来に特有な印の特徴は指で輪を作っていることです。ほとんど全ての阿弥陀像の両手の指が輪になっています。

両手の指で輪を作っているといっても、その「印(来迎印相)」には九種類があります。これは、信仰心や行為の善悪の違いに

よって、極楽への往生(おうじょう)の仕方が九種類(九品)あると言われているためです。つまり阿弥陀如来が結んでいる印

は、極楽へ迎える方法の違いを示していることになり、このような九種類の印をまとめて「九品印(くほんいん)」といいます。

【阿弥陀如来来迎印相図(九品印)】(インターネット検索画像より引用)

印は、(ほん、ぼん)(しょう)という二つのグループに大きく分けられますそれぞれが「上・中・下」に分けられて

いて、それらが組み合わされて九種類になるのです(つまり、3×3=9です)。

(ほん、ぼん)では、どの指で輪を作っているかがポイントとなります。

 上品(じょうぼん)は、手がどの位置にあっても、人指し指親指とで輪が作られます。

 中品(ちゅうぼん)は、手がどの位置にあっても、中指親指とで輪が作られます。

 下品(げぼん)は、手がどの位置にあっても、薬指親指とで輪が作られます。

(しょう)のポイントは手の位置がどこにあるかです。

 上生(じょうしょう)は、どの指で輪を作っているかに関係なく、お腹の前で手を組んでいます。

 中生(ちゅうしょう)は、どの指で輪を作っているかに関係なく、胸の前に両手を上げ、掌を見せています。

 下生(げしょう)は、どの指で輪を作っているかに関係なく、右手を上げ、左手を下に垂らしています(どちらも掌を見せて

   います)。

あとは、それぞれの組み合わせということになります。

じょうぼんじょうしょう
上品上生

生前なんらかの善業をした人

大乗を修める人

僧侶がお経を読んでいるところへ、仏・菩薩・飛天など大勢で迎えに来る。

金剛台

じょうぼんちゅうしょう
上品中生

僧侶がお経を読んでいるところへ、上品上生より小編成で迎えに来る。

紫金台

じょうぼんげしょう
上品下生

上品中生より、さらに小編成で迎えに来る。

金蓮花

ちゅうぼんじょうしょう
中品上生

小乗を修める人

僧侶がお経を読んでいるところへ、上品下生より小編成で、三名の導くための別グループが付属した形で迎えに来る。

蓮華台

ちゅうぼんちゅうしょう
中品中生

導くためのグループだけで迎えに来る。

七宝蓮花

ちゅうぼんげしょう
中品下生

一般的な善を行う人

中品中生にほぼ同じ。

金蓮花

げぼんじょうしょう
下品上生

善業をせず悪をなした人

身勝手な人

僧侶がお経を読んでいるところへ、三尊仏が迎えに来る。

宝蓮

げぼんちゅうしょう
下品中生

仏・菩薩が迎えに来る。

げぼんげしょう
下品下生

特に迎えのものは来ない。

金蓮花

                       (インターネット検索画像より引用)

さて、阿弥陀如来が結んでいる印(九品印)は、信仰心や行為の善悪の違いによって、極楽への往生(おうじょう)の仕方が九

種類(九品)あると言われているためです。つまり、極楽へ迎える方法の違いを示していることになって、それぞれ極楽浄土か

ら迎えに来る仏のメンバーや乗り物などが異なります(上の表の右端の列がその乗り物です)。

迎えに来るメンバーは、すでに仏に限りなく近い人には、華やかな迎えが来ます。足りない所がある人には、相応の修行をする

為に、インストラクター的な仏達が実質的に迎えに来ます。下品下生(げぼんげしょう)で、乗り物(日輪の形をした蓮華)だ

けが配車されるのは、まずお念仏だけでも唱えないと極楽往生できないということを表しているとされています。

また、極楽で一人前の仏様となるまでの時間も、それぞれ異なります。上品上生(じょうぼんじょうしょう)は1~7日、上品

中生(じょうぼんちゅうしょう)で1小劫、以下だんだんと長くなり、下品下生(げぼんげしょう)では12大劫もかかると言

われています。

                     ※ 劫(こう)  1大劫=80中劫,1中劫=2小劫,1小劫=約800万年

つまり、その人の生前の行いや信仰の篤さによって九つの往生のしかたがあり、その違いを示しているのが九品印(くほんいん)

であるということになります。よく見られる「上品上生印」「弥陀定印」といい、「禅定(印)」に入っている姿を表したも

ので、「上品中生印」は「説法印」、「上品下生印」「来迎印」とされます。阿弥陀如来像は、禅定印来迎印の像がほとん

どです。坐像の場合は、禅定印・来迎印の両方の像があるのですが、立像の場合は、来迎印のみとなります。

【上品上生(じょうぼんじょうしょう)の印を結ぶ阿弥陀如来】

「印」の話が長くなってしまいました。なかなか「光背」に辿り着けません(笑)。

阿弥陀如来像の最も大きな特徴は「印」にありますが、そのほかの特徴に「光背」があります。あまり特徴のない普通の光背を

持つ像もけっこうあるのですが、船の形をした光背や線を円形(放射状に)に並べた光背(放射光背)を持つ像が多いようです。

放射光背の線の数は一般に48本で、阿弥陀如来の四十八願(しじゅうはちがん)を表現しています。

余談ですが、実はこの光背が「アミダクジ」の元になっていると言われています。クジの線が阿弥陀如来の光背に似ているため、

阿弥陀籤(あみだくじ)という名前になったと言われているのです。

  

   ※ 四十八願 (しじゅうはちがん)とは、浄土教の根本経典である『仏説無量寿経』「正宗分」に説かれる、法蔵菩

     薩が仏に成るための修行に先立って立てた四十八の願のこと。 法蔵菩薩とは阿弥陀仏の因位の時(修行時)の名。

                       【光背の元木】

第28回の内容が、やっと「光背」に辿り着いたのですが、あまりにも「印」の説明が長く、くどくなり過ぎましたので、今回

は、「光背の元木」の写真のみでお許し願いたいと思います。材は御体、台座、光背ともに全て「木曾檜」です。

〇 「悟る」とは 到底無理と 悟りたり

〇 「あみだくじ」 弥陀の由縁と 心せよ

〇 我の身は 「下品下生」ぞ 迎え無し 極楽仏にも 十二大劫

今日は亡き母の『百か日法要』です。この後、十時からお勤めが始まります。

訪問感謝。最後までお読みいただき、ありがとうございました。          それではまた次回に!      合掌 


【加古爺のつれづれ一行詩集 第27回】

2023-01-17 20:37:00 | 日記

昨夜来からの雨が上がりました。朝から、この季節らしからぬ暖かさです。

第27回は、前回に引き続き、「阿弥陀如来坐像(八寸)」の制作工程の紹介です。

御身体が出来上がると、次に取り掛かるのは「蓮華座」(れんげざ)の制作です。

仏像や仏画に描かれている仏様は、多くの場合、蓮の花弁の台座の上にお立ちになったり、坐っておられます。

この台座を「蓮華台」「蓮華座」「蓮の台(はすのうてな)」と呼びます。「蓮」を「はちす」というのは、花托の部分が「蜂の巣」を逆

さまにした形に似ており、穴がいくつもあるからです。

蓮は汚れた泥の中から清らかな花を咲かせます。仏教の教えでは「泥中の蓮華」(でいちゅうのはす)と呼ばれることもある蓮。そんな蓮

という植物の特徴は、水中の泥に根づいて、水面より上に美しい花を咲かせることです。

このように、不浄である泥の中(「迷いの世界(この世)」)から芽を出し、真っ直ぐに茎を伸ばして優美な花(蓮華はよごれた泥に染ま

らない「悟りの世界」の例え)を咲かせる様子から、蓮は仏教の教えの象徴としてとらえられています。

つまり、「泥中の蓮華」とは 、 ” いくら汚れた環境に身を置いても、その汚さに染まらず、清く生きること ” 。蓮のように「煩悩の汚れの

中でも決して染まらず、清らかで純真な心や姿を保っている人」を例える言葉になります。仏様は悟りを開いて仏となった(成仏した)た

め、その「あかし」として蓮華台に乗っておられるのです。

また、蓮は極楽浄土に咲いている花としても信じられています。仏像では、台座に蓮のモチーフが取り入れられることがよくありますが、

蓮台に複数のパーツが合わさった豪華な台座は「蓮華座(れんげざ)」と呼ばれます

                        【蓮華座のパーツと名称】

「蓮華座(れんげざ)」のパーツは上の写真のように組み合わされます。蓮台の内側、蓮弁を貼り付ける部分を蓮肉(れんにく)と言い、

蓮の一枚一枚の花びらを蓮弁(れんべん)、蓮台の下部にあるのが敷茄子(しきなす)、その下が受座(うけざ)、受皿(うけざら)とも

言います。これらを反花(かえりばな)が受け止め、一番下に框(かまち)が配されます。

                                        【反花(かえりばな)の制作】

                                             

              【蓮台(蓮肉と蓮弁)の制作】

蓮弁は一枚一枚を元木から彫り取った後、全体のバランスを考え、外側に反り過ぎないように内側を細かく削り取りながら、蓮肉の側面の

カーブに合わせ、木工ボンドで固定していきます。

また、蓮弁のサイズは各段ごとに異なるため、二段目以降は、蓮肉の側面のカーブに合わせるとともに、一段目との重なり具合や隙間など

を確認しながら貼り付けていきます。三段目、四段目はこの繰り返しです。

                                         【受座(受皿)の制作】

受座(受皿)の制作もかなり神経を使う細かな作業でした。

敷茄子と框との制作を経て、全部のパーツを組み合わせると「蓮華座」の出来上がりです。

                 【出来上がった蓮華座】

【御身体と蓮華座との組合せ】(敷茄子と框は未完成状態)

今日はここまでとさせていただきます。

次回はいよいよ関門である光背の制作。悪戦苦闘はまだまだ続きます。

  〇 泥中(でいちゅう)に あし取られたるままの わたしである 

  〇 蓮の種 撒かねば咲かぬ 身と知れよ

  〇 我はさあ 何処(どこ)に座るや 針の上 

訪問感謝。最後までお読みいただき、ありがとうございました。              それではまた次回に!      合掌


【加古爺のつれづれ一行詩集 第26回】

2023-01-07 20:56:04 | 日記

孫たちも帰り、慌ただしかったお正月が終わりました。

五日、六日とは、食事は専ら「おせち料理」の残り物をかたずけ、今日七日は「七草粥」をいただきました。

『せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ これぞ七草』(パック詰めをスーパーで購入しました)

では今回から、内容を仏像彫刻に戻します。第24回からの続きで、「阿弥陀如来坐像(八寸)」の紹介になります。

先ずは本体を色々な方向から眺めて見ます。

荒彫りの段階とは言え、刀の研ぎ方がまずく、かなりの刀跡が目立っていて恥ずかしい限りです。

上部の写真二枚は、第23回紹介「釈迦誕生仏立像」の制作で練習した頭部「螺髪(らほつ)」の本格版制作ですが、ここで、暫し補

足説明をしておきます。

眉間のやや上にはめ込んでいる突起物を「白毫(びゃくごう)」といい、如来に限らず菩薩もこうした白毫を備えています。仏陀の三

十二相の一つ。眉間にある縮れたごく細い白毛で、右巻きに丸まっており、伸ばすと一丈五尺(約4.5m)あると言われています。

これが光明を放って、「三千世界」を照らすとされているのです。

彫像制作の場合、眉間に穴を穿って、白い顔料を塗った上から水晶などの貴石をはめ込んだり、小像の場合は白く塗った木片や真珠の

粒をはめ込むこともあります。

また、仏像の頭頂に一段高く隆起した部分のことを「肉髻(にっけい)」と言い、超人的なものの象徴として表されます。この肉髻の

根元の前面にある朱色の突起は「肉髻珠(にっけいしゅ,にっけいじゅ)」と言われ、仏の智恵の光を表わす珠(たま)とされており、

この肉髻朱からは、無数の化仏が現れ出されるとも言われています。一説には、肉髻珠は実は肉髻そのものを象徴するもので、肉髻は

朱色を帯びた地肌が頭部のまん中に盛り上がっていたとされており、それを象徴して「朱色の珠」に置き換えて表現しているとされて

います。

「阿弥陀如来坐像(八寸)」の制作は、2018年2月末に拝刀を開始し、2019年6月末に完成しましたので、都合、一年四か月

を要したことになります。いちいち記録に留めていませんが、本体の制作だけでも半年近くを要したと思います。

今後、制作工程は本体の仕上げ彫り(御顔、頭部の螺髪、袈裟衣の仕上げ彫り)、台座の制作、光背の制作と続いており、完成までの

道のりはなかなかに遠いのです。

  〇 正月を 終えて向き合う 阿弥陀仏

  〇 どれもかも 一体一体(ひとつひとつ)が 私のほとけ

  〇 現世(うつしよ)を 忘れひたすら ほとけ彫る 心の汚れ(けがれ)を 削(そ)ぐが如くに

  〇 初春(はつはる)の 満月雲に 見え隠れ

  〇 七草粥(ななくさ)や 満月の中に うさぎ見る

訪問感謝。最後までお読みいただき、ありがとうございました。  それではまた次回に!      合掌


【加古爺のつれづれ一行詩集 第25回】

2023-01-05 22:53:00 | 日記

ご無沙汰しております。

 迎春 本年もよろしくお願いいたします。

年末年始 色んなことがありました。

  

                  【線が二本出ると「陽性」】

12月27日(火)。新型コロナ濃厚接触者になってしまいました。その日の夕方と29日(木)の午前とに、二回の

抗原検査を実施。二回とも「陰性」の結果を得ました。勿論、27日の夕方から29日の夕方までの丸二日は、念のた

め、パートナーとは家庭内別居で過ごしました。

30日(金)も発熱等の自覚症状はなく、予定通り、31日(土)に娘と孫とが帰省。明けて、1月2日(月)には、

息子夫婦と孫とが帰省、加えて、弟一家が亡き母のお参りに来訪しました。続けて、3日(火)には娘のパートナーが

帰省。4日(水)には妹一家が亡き母のお参りに訪れました。

その間、12月31日(土)が義母の「三七日法要」だったのですが、バタバタでお参り出来ず、1月2日(月)に息

子夫婦と娘とが孫を引き連れてお参りに。3日(火)には娘一家と私共夫婦とがお参りに行ってきました。

今年は、玄関に注連縄も無く、床の間にも鏡餅の無いひっそりとしたお正月になるはずだったのですが、あにはからん

や、二人の孫(一歳九か月の女児と一歳八か月の男児)が台風の如くに、家の中を、菜園の中を、そして庭先を走り回

り、暴れ回ってくれました。爺じは孫との遊びに連れ回され、婆ばはみんなの食事の準備等々でてんやわんや。

4日(水)夕方、最後まで残っていた息子一家が帰った後は、爺じと婆ばは、言わずと知れた「バタンキューの放心状

態」。ともあれ、我が家の「迎春」はこうして終わったのでした。

  〇 元旦や めでたさあずけて 年明ける

  〇 元旦や 孫のおかげで らしくなり

  〇 孫の来て 静けさ破る 台風となる

  〇 仏壇の 前に座りて リン鳴らす ひ孫のふたりを 母は微笑みて

  〇 仏壇に 供えし菓子を 取れよとて ふたりの孫が むずがり始め

 

次回からは、「阿弥陀如来坐像(八寸)」の紹介を続けさせていただきます。

訪問感謝。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

                                   それではまた次回に!      合掌