ウクライナ : ロシア軍がブチャに残した殺戮の痕跡
戦争犯罪の訴追に不可欠な証拠を保存
ロシア軍は、2022年3月4日から31日にかけて、ウクライナの首都キーウから北西に約30キロ離れた町ブチャを占領中に、明らかな戦争犯罪を行ったと、ヒューマン・ライツ・ウォッチ(以下HRW)は本日発表した詳細な報告書で述べた。
ロシア軍がこの地域から撤退した数日後の4月4日から10日まで、ブチャで活動したHRW調査員は、即決処刑他の違法な殺害、強制失踪、拷問の詳細な証拠を明らかにしたが、そのような行為の全ては戦争犯罪と人道に対する犯罪を構成することになる。
「ブチャのほぼすべての場所が犯罪現場になっていて、そこら中で殺害が行われたように感じられました。証拠は、ブチャを占領していたロシア軍が、民間人の生命と戦争法の最も基本的な原則を軽視・無視していたことを示しています」、とHRW危機&紛争調査員リチャード・ウィアーは指摘した。
HRW は、被害者や目撃者、緊急対応要員、遺体安置所職員、医師、看護師、地元当局者など、ブチャの住民32人には直接会って、他5人には電話でそれぞれ聞取り調査を行い、更に町内の物的証拠、目撃者や被害者から提供されたオリジナルの写真やビデオ、衛星画像も取りまとめ、分析した。
取りまとめた事件は、ロシア軍がブチャを占領していた間に行った明らかな戦争犯罪のほんの一部である。
ブチャの主任地方検察官ルスラン・クラフチェンコはHRWに4月15日、ロシア軍が撤退して以降、町内でその大半が民間人である278遺体が見つかったが、新たな遺体が発見されるにつれてその数の増加が予想されると述べた。紛争前、ブチャの人口は約36,000人だった。
ブチャの町営葬儀場のセルヒイ・カプリチヌイ所長は、ロシア軍に占領されている間、葬儀場の職員は死体安置所が一杯になったので、聖アンドリュー諸聖徒教会の隣接地に浅い穴を掘り数十体の遺体を埋めたと述べた。埋葬された人々のうち、ウクライナ軍人は2人だけで、残りは民間人だったそうだ。4月14日現在、地元当局は同教会外の共同埋葬地から70体以上の遺体を発掘している。
遺体回収を手伝った別の葬儀場職員セルヒイ・マティウクは、2月24日にロシアの侵攻が始まって以降、個人的に約200体の遺体を街頭から回収したと語った。犠牲者の殆どは男性だったが、中には女性と子供もいたという。殆ど全員が銃創を負っており、中には手を縛られ、体に拷問の痕跡があった約50人が含まれていたそうだ。両手を縛られた状態で発見された遺体は、被害者が拘留され、即決処刑されたことを強く示唆している。
HRW は、明らかに違法な16件の殺人事件の詳細を取りまとめたが、その内容は民間人(男性15人、女性1人)に対する9件の即決処刑と7件の無差別殺人だった。他にも2件、1人の民間人男性が、家族と一緒にアパートの密閉されたバルコニーに立っていた際に、首を撃たれ負傷したケースと、9歳の少女がロシア軍から逃げようとして肩を撃たれたケースを、取りまとめている。
HRW は以前にも、ブチャから脱出した目撃者からの情報に基づき、3月4日にブチャで起きた即決処刑について取りまとめていた。そのケースでは、ロシア軍は5人の男性を捕らえて集め内1人の後頭部を撃った、と目撃者は語っている。以前に取りまとめた別のケースでは、3月5日にヴィクトル・コヴァル(48歳)が、他の民間人と共に避難していた家をロシア軍に攻撃され死亡している。
ロシア国防省は、ブチャで自軍が民間人を殺害したという主張を否定し、4月3日付けのテレグラム(ロシア製メッセンジャーアプリ)への投稿で、ブチャが「ロシア軍支配下」にある間、「地元住民は1人も暴力的行動の被害を受けていない」と表明、犯罪の証拠はウクライナ当局による「でっち上げ、仕組まれた捏造と挑発である」、と主張した。
ブチャの住民は、ロシア軍は2月27日に初めてブチャに入ったが、激しい戦闘の際に町の中心部から追い出された、と語った。3月4日にロシア軍が再来、3月5日までに町の大部分を支配した。ブチャはその後、キエフに向かって進軍しようとするロシア軍の戦略基地となった。目撃者によれば、占領期間中に幾つかのロシア軍部隊がブチャで活動していたそうだ。
町を占領した直後にロシア軍は「ナチス狩り」と称して、戸別に家宅捜査を行った。様々な場所で武器を探し、住民を尋問し、ときに命令への不服従という理由や具体的な理由を示さないまま男性を拘留した。被拘束者の家族によれば、男性親族がどこに連行されたのかは知らされず、拘留地についての情報も、その後に得ることはできなかったそうだ。このような行為は強制失踪に該当し、あらゆる状況下においても国際法上の犯罪となる。
*ローマ規定第7条人道に対する犯罪1(i)&2(i)
ロシア軍の撤退後、強制失踪させられた人の一部が、路上、庭、地下室で遺体となって発見されたが、その中にはHRWがとりまとめたケースも2件含まれており、拷問を受けた痕跡があるものもあった。ウクライナの地雷除去当局は、少なくとも2遺体に被害者起動型ブービートラップが仕掛けられているのを発見した。と述べている。
ロシア軍は、少なくとも2つの学校を含む民間人家屋他の民用建物を占拠し、それらを軍事目標にした。あるアパートの住民2人は、ロシア軍が建物内に残っている人々に、地下室に移る一方で部屋のドアは鍵を掛けないよう命じた、と述べた。その後、ロシア軍はアパートに入り、鍵が掛かっているドアを見つけると、無理やり開けて部屋を破壊したそうだ。
ロシア軍は意を決して外に出た民間人に無差別発砲した、と多くの住民は語った。ヴァシル・ユシェンコ(32歳)は、アパートの密閉されたバルコニーにタバコを吸いに出た時に首を撃たれた。ある看護師は、ロシア軍から逃げようとして撃たれた少女を含む、重傷者10人を治療したそうだ。一緒に走っていた男性は殺され、少女は腕を切断しなければならなかった。
葬儀場の労働者は、爆発で死傷した人がいたが、それはおそらく侵攻開始時やウクライナ軍との砲撃戦の際に、ロシア軍が町を砲撃した時の爆発の可能性が大きい、と語った。
ロシア軍は、彼らが滞在していた家屋やアパートに損害を与え、テレビや宝石などの貴重品を含む私有財産も奪ったと住民は語った。占領軍は補償と引き換えに財産を徴用できるが、ルーティング(戦争法ではピリジングと称される)という略奪行為は、特に財産を個人的または私的使用のために奪う場合、厳しく禁止されている。
*ローマ規定第8条第2項(b)(xvi)戦争犯罪 ジュネーブ第4条約第33条略奪の禁止
住民は、占領期間中、水、食料、電気、暖房、携帯電話サービスへのアクセスが制限されたと語った。ある男性は高齢の隣人を埋葬したと話していたが、その隣人は、酸素濃縮器に頼っていたにも拘らず、停電で機械が故障して死亡したのだそうだ。
HRW は、アドリヴィイカ、ホストメル、モツィンなど、ロシア軍に占領された他の町で起きた明らかな戦争犯罪についても複数の報告を受け取りまとめているが、他へのアクセスが改善するにつれ、更に多くの証拠が明らかになる可能性が高い。ウクライナ警察高官は4月15日、占領期間内にキーウ地域全域でロシア軍によって殺害されたウクライナ国民900人の身元を当局が特定したが、死亡時の状況は依然不明だと述べた。
ブチャの主任地方検察官はHRW に4月15日、キーウ州内に位置し人口約362,000人のブチャ地区で、600人以上の遺体が発見されたと伝えた。HRW はその数字を検証していない。
ウクライナにおける武力紛争の全ての当事国・勢力は、1949年ジュネーブ諸条約、ジュネーブ条約第1追加議定書、および慣習国際法などの国際人道法や戦争法を順守する義務を負っている。ある地域を事実上支配する交戦国の軍は、常に適用される国際占領法、国際人権法に従わなければならない。
戦争法は、捕えた戦闘員や拘留中の民間人に対する殺人、レイプ他の性的暴力、拷問、非人道的な待遇、更に略奪や略奪を禁止している。そのような行為を命じる又は故意に行う又は幇助し、唆し、援助する者は如何なる者でも、戦争犯罪の責任を負う。そのような犯罪について知っていたか、又は知るべき理由があったが、それを止めようとも、責任者を処罰しようともしなかった軍の司令官は、指揮命令責任者として戦争犯罪の刑事責任を負う。
ウクライナ当局は、専門的な発掘が行われるまで集団墓地を封鎖し、埋葬前に遺体とその周辺地域の写真を撮り、可能であれば死因を記録し、犠牲者の名前を記録し、目撃者の身元を特定し、ロシア軍が残した可能性のある身元確認資料を探すなど、将来の戦争犯罪訴追に不可欠な証拠を保存する取組を優先しなければならない。
戦争犯罪の捜査支援に努める他の政府、組織、機関は、効果的かつ効率的な協力を保障すべく、ウクライナ当局と密接な連絡を取って仕事をすべきだ。
重大な国際犯罪に対する説明責任を果たす努力の支援に向け、ウクライナは国際刑事裁判所(ICC)条約を至急批准し、正式なICC加盟国になるべきであり、当局はウクライナの国内法を国際法と整合させるために努力しなければならない。
「ブチャでの明らかな戦争犯罪の犠牲者には、法の正義が実現されるべきです。ウクライナ当局は、国際的な支援を得て、証拠の保存を優先すべきです。それは戦争犯罪の責任者がいつの日か訴追されることを確実にするために不可欠です」、と前出のウィアーは指摘した。
即決処刑
HRW は、ブチャで起きた9件の明らかな即決処刑について取りまとめた。ロシア軍は複数の男性を拘留、時に強制失踪させて拷問した後に処刑している。死者を埋葬した葬儀場の職員は、同じく即決処刑の犠牲になった可能性のある男性数十人の遺体を見たと証言した。多くの遺体が、キーウに続く高速道路の近く、鉄道駅のすぐ南にあるヤブルンスカ通りの上または周辺で発見されている。
即決処刑は、被害者が民間人、戦争捕虜、または捕らえられた戦闘員というような地位にかかわらず、国際法上の犯罪として厳しく禁じられており、状況に応じて戦争犯罪または人道に対する犯罪として訴追される可能性がある。
*ローマ規定第7条人道に対する犯罪 第8条戦争犯罪(c)(iv)
イリーナ(48歳)は、ロシア兵が3月5日の占領開始時に、ヤブルンスカ通りとヴォクザルナ通りの角にある2階建ての集合住宅に向けて発砲したと語った。爆発と銃撃の後、家に火がついた。夫のオレー・アブラモワ(40歳)と父親のヴォロディミールと共に自宅にいたイリーナは、オレーは平和的な民間人だと叫び、ロシア軍に撃たないよう懇願したそうだ。兵士4人が、両手を頭に乗せて家から出て来るよう命じた。兵士たちは「ナチス」から解放するために来たと言い、ナチスが隠れている場所について詰問した。
「ドンバスで人を殺した、と兵士は私たちを責めました。マイダンでベルクートを殺害したと非難し、私たちは有罪で罰せられるべきだと決めつけました。(キーウで2014年に起きた市民運動マイダンによる抗議行動中に抗議者数十人を殺害、その後解散した機動隊ベルクートに言及している)」、とイリーナは語った。兵士はオレーと年金受給者のヴォロディミールに火を消すよう命じたそうだ。
1人の兵士がイリーナに尋問を続け、他の3人はオレーとヴォロディミールをフェンスで囲まれた庭の北東の角に連れて行った。ヴォロディミールはHRW に、「兵士2人がオレーを庭から連れ出した」、「オレーを連れ戻して火を消すのを手伝わせるよう懇願した」、と語った。1人の兵士が門の外にオレーを探しに行ったが、戻ってきて「オレーは戻らない」、と言った。
数分の内に、ヴォロディミールとイリーナは、フェンス外の歩道でオレーの遺体を見たそうだ。「うつ伏せで横たわり、左耳から血が流れ出ているのが見えたの。顔の右側はなくなり、脳組織と血液が傷口から出てた。兵士のグループが5メートル以内に立っていて、まるでそれを劇場と思っているかのようにその出来事を見ていたのよ」、とイリーナは語った。
その後兵士はイリーナとヴォロディミールに立ち去るように言った。オレーの遺体は、3月31日にロシア軍が撤退し、当局が撤去するまで通りに放置されていた。4月4日と5日にHRW は現場を視察、舗装道路上に大きな血痕と人間の組織らしきものを発見している。
強制失踪、明らかな拷問、処刑
ロシア軍は3月17日かその前後に、ヤブルンスカと平行に走るサドヴァ通りの集合住宅で、ワシリー・ネダシキフスキー(47歳)と妻のターニャ(57歳)の自宅を捜索、幾つかの武器を発見した後、2人を拘留した。2人はロシア軍によって隣接するアパートの2階に連れて行かれ、別家族の区画の寝室で別々に拘留された、とターニャは語った。数時間後、ロシア軍はワシリーを建物から出し、「本部」に連行して尋問すると1人の兵士がターニャに言ったそうだ。
4月6日にHRW はアパートを訪れ、ワシリーとターニャが拘留されたアパートに通じる階段に血らしき痕跡と、ロシア軍の配給物やロシア軍制服の柄と一致する迷彩服など、ロシア軍が駐留していた証拠を見つけた。
ターニャはその後釈放されたが、ロシア兵は夫の居場所について何も教えてくれなかったそうだ。ターニャと、同じくHRWの聞取り調査に応じた隣人のオレクシイ・タラセヴィッチは、ロシア軍は通常、水を得るため以外は、近隣の住民が建物を離れることを禁じ、時にそれさえも禁じていたと述べた。
ワシリーの所在は2週間近くも不明のままだったそうだ。彼の遺体は、拘留されていた建物外側に付いた階段の吹き抜けで、私服を着た別の男性、イゴール・リトヴィネンコの遺体とともに発見された。HRW は、前出の隣人タラセヴィッチが4月1日に撮影した写真を検証、階段の吹き抜けに濃い赤色の大きな染み、明らかな血痕を2つ発見したが、それは写真に写っていた遺体の位置と一致していた。
それらの写真でワシリーは、両手に重度の裂傷、下腹部に打撲傷、頭部に鈍器によると思われる外傷を負っていた。彼の遺体回収と埋葬を手伝ったタラセヴィッチは、ワシリーとターニャが住んでいたアパートの裏手に浅く掘った穴に埋葬する前に、遺体を完全に調べることができなかったそうだ。HRW は埋葬地を訪れている。
ワシリーが生存中最後に目撃されたのは、ロシア兵による拘留下であったという事実、更に遺体に虐待と一致する痕跡があったという事実は、彼が拘留された後に拷問され、即決処刑されたことを強く示唆している。
中庭での処刑
3月20日早朝、ポルタヴァスカ通りとシェフチェンカ通りの角にあるアパートを占拠していたロシア軍が、黒いトラックスーツを着た身元不明の男性を射殺した。隣の建物に住んでいた男性と14歳の息子は、銃声を聞いたそうだ。
一緒に聞取り調査に応じた父親と息子は、「2人で外にいた時、ロシア兵からアパートに入って中に留まるように言われた」、「アパートに入ると、隣の建物の裏庭で1人の男性がロシア軍と言い争いをしているのが聞こえ、その直後、男はウクライナ語で“スラヴァ・ウクライナ!(ウクライナに栄光あれ)”と叫び、その後に、最大で3発の銃声が聞こえた」、「アパートの窓から外を見ると、黒いトラックスーツを着た男が地面にうつ伏せに横たわっていた」、と語った。
その中庭にはロシア軍が絶えず存在し、兵士がしばしば食べ物を調理していたので、父親と他2人の男性がアパートの隣に浅い穴を掘って男性の遺体を埋めたのは2日後だった。HRW は別途、隣人である2人の内の1人に聞取り調査を行ったが、この男性は埋葬に関する父親の証言を裏付けたものの、殺害を目撃したり聞いたりはしていない。ウクライナ当局は4月9日に男性の遺体を回収している。最近アパートに戻った父親、息子、そして他3人の隣人は、彼が誰なのかまだ分からないそうだ。
HRW はアパートを訪れ、父親と隣人が遺体を発見したという場所の近くで、浅い穴を掘って男性の遺体を埋めた場所と小口径の銃弾による明らかな衝撃痕が3つあるのを見た。
HRW は、ソーシャルメディア上で回覧された、中庭に横たわる遺体という2枚の写真を検証した。写真で男性は、頭部上部と片方の手首に粘着テープを巻いており、また両手はテープで留められていたように見えたが、それが殺された時のものかどうかは明らかでない。
児童用キャンプ場で5遺体
4月4日にHRW は、ブチャでロシア軍の一部が基地に使っていた、ヴォクザルナ通り123番地にある「児童用キャンプ場」宿舎の地下室で5遺体を調べた。遺体は私服の男性で、銃撃で殺されたと思われ、部屋の壁には確かな血痕が3つあった。4人は後ろ手に結束バンドをされ、5人目の男性は胸を2回撃たれたようで、乾いた血にまみれた胸の2ヵ所に厚いジャケットの詰物が飛び出ていた。あるメディア報道は、当局が男性をセルヒイ・マテシュコ、ドミトロ・シュルマイスター、ヴォロディミール・ボイチェンコ、ヴァレリー・プルドコ、ヴィクトル・プルドコと特定したと述べた。地下室に行った経緯を含め、5人の拘留状況は依然不明だ。
ロシア軍がこの地域を占領していた詳細な証拠があり、その中には、キャンプ場外壁に描かれた2つの大きな「V」という文字(ロシアによるウクライナ侵攻を支持するシンボル)、消費済や廃棄されたロシア軍配給品、ロシア兵と同じ柄の廃棄された制服、調理と食事用に設置された場所などがある。無限軌道車(キャタピラで動くような車両)が移動した痕跡と遺体が発見された地下室から100m以内の地面に掘られた装甲車用の陣地3ヵ所を、HRW は観察した。更に児童公園内で自家用車3台を調べたが、内2台には幾つかの数字と共に「V」の文字と「RUS」の文字の落書きがあった。
2月28日に撮影されたこの地域の衛星画像には、教会の隣にあるキャンプ場入り口に2台の大型軍用車両が写っていた。3月10日の衛星画像には、同じ場所に数が増えた無限軌道車が写っている。3月15日の衛星画像には、同じ場所にある自家用車3台が写っており、内2台には落書きがあった。
ヤブルンスカ通り北東端の遺体
HRW は、ロシア軍の撤退直後の4月1日、ヤブルンスカ通りの北東端を歩いてビデオ撮影したデニス・ダヴィドフに聞取り調査した。HRW が検証したビデオには、私服の遺体7体が写っており、内少なくとも1体は後ろ手に縛られていた。
7人の身元と死亡の経緯は依然不明である。
4月2日にフェイスブックに投稿された移動中の車から撮影されたビデオには、同じ場所に同じ遺体が写っている。ビデオは、少なくとも3台の列で走る車から撮影されており、内1台には少なくとも3人の制服を着て青い腕章をしたウクライナ兵が乗っている。4月3日に撮影され、ロイターが公表した写真には、7人の内4人の遺体が写っている。
後ろ手に縛られていた状態で発見された男性は、即決処刑の犠牲者だった可能性が高い。
葬儀場職員による説明
ブチャの町営葬儀場の責任者セルヒイ・カプリチヌイは、状況が悪化したため3月14日に町から離れたと語った。4月1日に戻った時、処刑された可能性が高いことを示す、致命傷のある遺体を多くの場所で見たそうだ。「ヤブルンスカ通り144番地で、撃たれた8人の遺体を見ましたよ、その内6人は両手を縛られていた。(同じ住所の)9人目の遺体は若い男で、2階に通じる階段にあった。最初、傷は見えなかったが、身分証明書を探してコートを開けると、心臓に銃傷があったんだ」
ヤブルンスカ通りを更に下って行くと、カプリチヌイによれば、葬儀場職員が遺体約20体を回収し、内少なくとも10体は両手を縛られていた、と以下のように語った。「全体的に殆どの遺体は至近距離から撃たれ、殆どが頭部を撃たれていましたが、全部ではありません」
別の葬儀場職員、セルヒイ・マチュクは、2月下旬以降ブチャの様々な通りから約200体の遺体を個人的に回収したと以下のように語った。「殆ど全員が、頭か目のどちらかを、至近距離から撃たれて殺されていた。歩道に倒れていたり、車に乗っていたり、女性もいたよ」。
最初に両手を縛られた遺体に遭遇したのは3月4日から6日の間だった、とマチュクは以下のように語った。「占領されていた間に、合計で約50体の両手を縛られた遺体を見ました。遺体には拷問の跡があり、手足は撃ち抜かれ、頭蓋骨のいくつかは鈍器で砕かれていた」
民間人の不法な殺害
HRW は、ブチャでロシア軍による民間人の無差別殺害とみられる事例7件と、ロシア軍が民間人を負傷させた事例2件を取りまとめた。この状況下では、ロシア軍が民間人であるかどうか分からずに発砲した可能性がある。しかし占領軍は、人を戦闘員と推測することや、致命的脅威を与えたりすることは許されておらず、民間人と軍事目標を区別するための措置を講じなければならない。民間人に対する無差別な殺害や武力行使は国際法で禁じられている。
*ローマ規定第6条(a)第7条第1項(a)第8条第2項(a)-(ⅰ)
*ジュネーブ第1条約第50条
ヤブルンスカ通りでの殺害
匿名希望の男性と義理の息子ローマンは3月5日、ヤブルンスカ通りの北東端で、同地域での激しい砲撃と銃撃を避け、家族と一緒に地下室に隠れていた。午後4時30分頃、事態が鎮静化したので、2人は被害を調べようと正面玄関を開けた、と匿名男性は語った。ローマンが庭から出た時、義理の父はくぐもった音を聞き、ローマンは地面に倒れた。「近づいて、大丈夫かと尋ねると、うめき声を上げただけだった。左側からコートが破れているのが見えた」
男性と家族のもう1人が直ぐにローマンを家に引きずり込み、ローマンの義理の妹テティアナは、病院とウクライナ領土防衛隊(市民義勇組織)に助けを求めたが、果たせなかった。ローマンは一晩中苦しみ、翌朝8時頃に死亡、家族は庭浅い穴を掘り彼を埋葬した。地元当局は4月6日に遺体を運び去った。
アパートで喫煙中に撃たれて負傷
ブチャ住民のニコライは、3月7日午後4時頃に自分と家族3人が、アパート6階の密閉されたバルコニーで煙草を吸っていた際、ロシア軍から銃撃された、と語った。ニコライと妹のイウシェンコ・イリーナによれば、建物北東面外壁の窓ガラスを1発の弾丸が貫通、煙草に火をつけようと手を伸ばしたイリーナの夫ヴァシル・ユシェンコ(32歳)に当ったそうだ。銃弾は喉の前部を突き破り、密閉されたバルコニーを超えて、子供2人が座っていた部屋に当たった。
家族はバルコニーを囲むガラス越しに見える所からヴァシルを直ぐに連れ出したが、数分後には別の銃弾が最初の銃撃から10cmと離れていない窓ガラスを貫通、バルコニーの窓の向こうにある部屋の木製キャビネットに当たった。イリーナによれば、隣人が応急処置を行い、ヴァシルは命を取り留めたそうだ。ニコライとイリーナ更に隣人2人は,翌日、手押し車でヴァシルを2km半離れた病院に連れて行った。彼はその後キーウに避難し、そこで2回手術を受けた後に退院している。
HRW は4月6日にニコライのアパートを訪問、バルコニーの外側窓ガラスに2つの弾痕、ニコライとワシルが立っていた場所の床と後ろの窓にある血痕、人体組織の残骸らしきもの、バルコニーの後ろにあるキャビネットと壁に残った小口径銃弾による2つの弾痕を観察した。窓ガラス、キャビネット、壁への弾痕に基づけば、銃弾は建物の北東方向から飛来している。2発の銃弾がほぼ同じ場所に命中したという事実は、それらが流れ弾ではなく、ロシア軍がバルコニーのガラス窓越しに見えた人物を狙ったことを示している。
食料を取りに行って射殺された
3月20日にロシア軍は、近所の人たちと避難していたアパートの地下室から出て、食料の入った瓶を取りに行ったと思われるガレージ内で、アルテム (37歳)を射殺した。アルテムの隣人、スヴィトラーナ・ネチプレンコによれば、自分の住むアパート8階の窓から、ヤブルンスカ通りのすぐ南にあるアルテムのガレージの近くで2人のロシア兵を見たそうだ。「通風管が2つある、あそこのガレージの1つを兵隊が開けていました。ドアを開けると撃ち,すぐに閉めて同じ方向に進んで行きました。銃声は2発、聞こえた」、と彼女はガレージの方向を指さして言った。住民は、ロシア軍がガレージの鍵が掛かっていなかったので単にドアを開け、中に誰かいるのを見て発砲したのだと推測している。
別の隣人であるアンドリーは、3月20日にガレージに入り、アジカ(スパイシーなディップソース)の入った割れたガラス瓶を持って仰向けに倒れ、足がソースに塗れた、アルテムの遺体を発見したと語った。アンドリーは後にアルテムの遺体をガレージの後ろに埋めたそうだ。
ロシア侵攻前、アルテムはウクライナ軍の基地で車両を塗装する仕事をしていたが、殺害される以前の15日間は地下室に隠れて過ごしていた、とアンドリーは語った。アルテムと共に避難していたネチプレンコによれば、アルテムは占領期間中、避難所にいる人々に自分の食料を日常的に提供していたそうだ。
ヤブルンスカ通り付近での殺害
3月12日夜にロシア兵は、ヤブルンスカ通りの集合住宅の近くで、友人のアレクシー(71歳)宅を出た直後のイリア・ナワリヌイ(61歳)を射殺した。アレクシーは殺害を目撃していないが、別の建物居住者と共に、殺害の直前に建物の外でロシア兵が、庭の向こう側に銃を撃っているのを見たと語った。アレクシーによれば、別の隣人が翌朝、イリアの遺体を発見したそうだ。アレクシーは建物の入口から約15m離れた遺体の倒れている場所に行った時、イリアの国民識別IDのページが引き裂かれ、遺体の周りの地面に散乱しているのを見ている。
殺害された高齢男性
ブチャ住民、ミコラとセルヒイ・Bの2人は別々に聞取り調査に応じたが、それによると3月8日またはその前後に、ノーヴェ高速道路とヴォクザルナ通りの角にあるソ連兵の記念碑の近くで、歩行器具の傍らで前のめりに横向きで横たわる高齢男性の遺体を見たと語った。2人よれば、老人は撃たれていたように見えたそうだ。HRW が現場を綿密に調べたところ、多大な損害を受けた周囲の建物、記念碑周辺にある損傷した車両と無限軌道車両などが見られ、現場がロシア軍の活動地域だった可能性が高いことを示していた。その男性が誰で、死亡した経緯については依然として不明だ。
ヤブルンスカ通りで男性が殺害され、少女が負傷
3月5日頃、ヤブルンスカ通りでロシア軍から逃がれ、腕の中に9歳の少女を抱いて走っていたヴォロディミール・ルバイロを、ロシア軍は射殺、少女に重傷を負わせた。ルバイロはアパートの前で死んだようだ。
別々に聞取り調査に応じた2人の目撃者は、近所の人たちが少女を近くの建物の地下室に連れて行き、そこで傷を治療しようとしたと語った。その建物の隣家に住んでいる救急看護師のビクトリアはその2日後、状態が悪化した少女を助けに行った。ビクトリアによれば、少女の肩の組織は既に壊死し始めており、後に少女の腕は病院で切断されたそうだ。HRW は少女の身元確認も、その主張の裏どりもできなかった。
HRW は4月5日、もう1人の隣人オレクシイ(71歳)とともに、ルバイロと少女が撃たれた現場を訪れ、約5mの間隔で地面に大きな血痕が付着しているのを目撃した。
行方不明の男性が後に死体で発見
ブチャの住民オレフ(33歳)は3月19日以降、行方不明だったと、隣人のルーダは語った。彼女によれば、ロシア軍が撤退してから12日後、住民が彼のアパートから数m離れた所に山積みされた金属板の下で、彼の遺体を発見したそうだ。
HRW は、遺体が発見されたという現場を訪れ、大きな血痕を目撃した。地元住民によれば、そこはロシア軍部隊の司令官が滞在していたと伝えられる家から約10m離れていたそうだ。HRW はその建物も訪れ、ロシア軍の迷彩服と配給箱を見つけた。3月11日に収集された衛星画像には、オレフの遺体が発見された場所に駐車中の軍用車両が写っている。
HRW は、オレフの遺体が発見場所にどれ位の期間放置されていたのか立証できなかった。しかし現場にあった大量の血は、彼がそこで殺害されたか、重傷を負ってそこに置かれたのを示唆している。その地域でのロシア軍による継続的な駐留は、彼らが殺害について知っていた可能性が極めて高いことを意味する。ロシア軍がオレフの家族を捜そうとしたかは不明だが、聞取り調査に応じたある住民は、オレフの妻が彼の死を知ったのは、ロシア軍が立ち去り、住民が遺体を発見した後だったと語った。
ロシアの装甲車が自転車を手元に置いた女性を射殺
3月5日に殺害されたオレフ・アブラモフの妻イリーナは、ロシア軍に夫を射殺され、ヤブルンスカ通りを南東に歩くよう命じられた直後に、門から数メートル離れた自転車の隣に横たわる女性の遺体を見たと語った。
自転車の近くにいた女性は、4月5日にテレグラムに投稿された空撮映像で、死亡する様子が捉えられたのと同じ人物である可能性が極めて高い。ニューヨーク・タイムズ紙が分析したこのビデオには、1人のサイクリストが2台のロシアの装甲車に撃たれる前に、ヤブルンスカ通りを曲がり下り、自転車から降りる様子が映っている。少なくとも19台の軍用車両がヤブルンスカ通りとそれと並行する通りに並んでいる。
衛星画像の解析によれば、航空写真は 2 月 28 日から 3 月 9 日の間に撮影されおり、2 月 28 日の衛星画像には、映像で確認できるのと同じ破壊された装甲車が写り、3 月 9 日の画像には、ビデオに残っている破壊された家屋が写っている。
犠牲者起動型対人地雷とブービートラップ
HRW は、ウクライナ政府地雷除去部隊ブチャ地区責任者ロマン・シュティロ中佐と、ブチャでの地雷除去を支援する対戦車旅団司令官イホル・オストロフスキーと面談した。両者はともに犠牲者起動型ブービートラップが、町で使われたと報告した。シュティロ中佐は、4月8日に地雷除去員が、犠牲者起動型ブービートラップが仕掛けられた遺体を2体発見したと述べた。F-1とRGD-5の破片手榴弾、及びMON-50、MON-100、OZM-72の地雷で作られた犠牲者起動型ブービートラップと対人地雷を合計で20個、地雷除去員は発見したそうだ。
オストロフスキー司令官は、ブチャのある庭で見つかったワイヤーに取付られた武器のビデオを共有してくれたが、その武器は、ワイヤーに十分な張力が加わると爆発するよう設定されていた。地雷除去班は、ロシア軍が占拠していた建物で同様の装置を少なくとも1つ発見したと述べた。ブチャであった3人目の地雷除去員は、彼の班がブチャで発見した犠牲者起動型即製爆発装置2つの内の1つを撮影し、その写真を携帯電話でHRW に見せてくれた。
1997年成立の国際地雷禁止条約は、対人地雷や犠牲者起動型ブービートラップなどの爆発装置の使用,貯蔵,生産,移譲等を全面的に禁止している。ウクライナは1999年に国際地雷禁止条約に署名し、2006年に締約国となったが、ロシアは同条約の加盟国164カ国には含まれていない。
ロシア兵による略奪
HRW は、ロシア兵がブチャ全域の様々な場所で家屋を使用・損壊し、一部を占拠した他、食料・家庭用品、電化製品・テレビ・宝石類などの貴重品を含む私物を奪った証拠を見つけた。ある男性は、ロシア兵がブチャから逃げた後、自分と隣人の家に押入り、略奪したと語った。HRW は、当該家屋でロシア軍の装備品や血塗れの包帯、不動産2つへの損傷を目撃した。
デニスは、ロシア軍が3月31日に自分の地区を去る際、軍用車両に家庭用品を積重ねていたのを見たそうだ。「ヤツラが車で出ていく時に、自分と近所の人の物を持ってくのを見れるんじゃないかって、家の外を見ていたんだよ」、と彼は話し、自宅に入ったロシア軍は、グラインダーを使って重要書類を保管していた金庫を開け、更に自宅にあった多くの品物を破損したと付け加えた。
別の地区に住んでいたタラセヴィッチは3月21日、ロシア兵が占拠していた集合住宅から、住民の私物を含む品物を屋根に載せた1台のロシア軍車両が走り去る写真を撮影、HRW はその写真を検証した。タラセヴィッチは、別のロシア兵グループが3月31日午前5時頃、同じ集合住宅から立去る際も、占拠していたアパートから私物を運び去ったと以下のように語った。「大きな民用バッグを幾つか積んだトラックを見たけど、間違いなく軍の装備品じゃなかったね」。ロシア兵が盗んで家に持ち帰った贅沢品について会話していた、という傍受や報道をHRW は承知しているが、それらの報道の検証はできていない。
ロシア軍がブチャの民間人を危険にさらした
住民への聞取り調査、衛星画像の分析、現地調査などに基づいてHRW は、ブチャ占領時における様々な段階でのロシア軍の拠点を辿ることができた。HRWが聞いたところでは、ロシア兵はウクライナ民間人に居住用建物に留まるよう命じたが、占領期間中に兵員と装備を居住用建物の近くに配置したそうだ。従ってロシア軍は、民間人への危害と民用物への損傷を最小限に抑えるため、全ての実行可能な予防措置を講じなかったことになる。
*ジュネーブ諸条約第1追加議定書第4章第57条第2項(a)-(ii)&同章第58条(c)
3月19日に取得した衛星画像には、ヤブルンスカ通りの北350mにある集合住宅に隣接する複数の通りに駐車中の軍用車両少なくとも2台が写っている。3月31日に取得した衛星画像には、舗装道路の至る所に無限軌道車両の痕跡が写っており、それはロシア軍車両によるその地域での日常的な通行を示唆していると共に、前出のタラセヴィッチが共有してくれたビデオや写真とも一致している。タラセヴィッチは占領時の数日間、ロシア軍の兵員・車両・装備の写真やビデオを撮影している。ロシア軍はまた、サドヴァ通り沿いで民間人が住んでいた場所から約20メートル離れた所に82mmの迫撃砲陣地を構え続けた。
HRW はまた、ロシア軍がブチャで2つの学校の庭を占拠していたことを明らかにすると共にその内1ヵ所を砲撃陣地として使用したという詳細な証拠を発見した。
ウクライナ他113カ国が承認(ロシアは未承認)した「安全な学校宣言」は、各国は教育施設を軍事目的で使用してはならず、教育を攻撃から守るために他の措置を講じなければならないと述べている。
証拠保全
4月4日から10日にかけてHRW は、ロシア軍が撤退した後に明らかな戦争犯罪の証拠が残っていた現場に立入ると共に、聖アンドリューと諸聖徒教会に隣接する共同埋葬地からの遺体発掘など、ブチャにおける戦争犯罪の証拠を取扱う際はその現場に断続的に立合った。
4月4日、当局はロシア軍に処刑されたと思われる男性5人の遺体を、ヴォクザルナ通り123番地の児童用キャンプ場宿舎の地下室から運び出した。HRW は数十人のメディア関係者と共に、遺体撤去前に現場への立入りを許可されたが、立入前に現場で物的証拠を記録・保存する、如何なる措置が講じられたのかについては承知していない。当局は運び出した遺体を開封した遺体袋に入れ中庭に置き、その後、職員がメディアの前で男性4人の手首から結束バンドを切って外し、地面に捨てた。その後遺体は運び去られた。
ロシア軍が撤退してから少なくとも1週間、遺体は通りや様々な場所に点在し、急いで掘った浅い穴に埋葬された遺体もあった。血塗れの衣服や身の回り品などの物的証拠は、遺体が回収された場所にまだ残っていた。弾丸の薬莢など証拠になりうる物が、ブチャの通りに散乱していた。HRW は、この証拠を保護するために当局がとった措置について承知していない。
4月8日に当局は、聖アンドリュー諸聖徒教会に隣接した共同埋葬地から、遺体の発掘を開始した。HRW は4月8日と10日に発掘作業を視察、当局が防護服を着て、遺体を現場から撤去する前に、各遺体に関する情報を記録し、その全過程で遺体を写真撮影やビデオ撮影して記録する様子を目撃した。
物的証拠は、十分に文書で裏付けられ、犯罪発生後にできるだけ早く保存され、証拠の損傷または破壊の機会が制限されれば、将来の戦争犯罪訴追にとって極めて有益である。ブチャや他地域における物的証拠を文書で記録すると共に保存する、取り組みを優先することに加えて、ウクライナ当局とその国際的パートナーは、証拠を保管・整理する強力なシステムを開発するよう努力すべきである。また、国内、地域及び国際的な捜査を支援する様々な主体間の調整を強化する努力もなされなければならない。
説明責任を果たす努力の強化
ウクライナ当局、国際刑事裁判所(以下ICC)、普遍的管轄権の原則を用いるドイツのような第3国を含む、様々な国内および国際的な司法権が、ウクライナで行われた明らかな戦争犯罪他の重大犯罪について、捜査を開始した。国連人権理事会はまた、ウクライナにおける重大な人権侵害および国際人道法違反に対する調査委員会を設立し、その活動はICC他の司法当局に重要な支援を提供する可能性がある。
これら及び他の説明責任を果たす努力を支援するために、ウクライナはICC条約を至急批准し、正式にICC加盟国になるべきである。国内および国際的な市民社会は、長年にわたり当局にICCに加わるよう働き掛けきている。ウクライナはICC加盟国ではないが、2013年11月以降、ウクライナの領土内で行われた犯罪容疑に対するICC管轄権を受け入れた。2022年3月2日、ICC加盟国のグループ(38ヵ国)が、ウクライナの事態をICC検察官カリム・カーンに捜査付託した。付託を受けた後、カーンはICC検察局が調査を直ちに進めると表明し、それ以降ウクライナをに赴いている。
ウクライナの国内法を国際法と整合させる国内法も、国際犯罪に対する効果的な国内捜査と訴追への支援に必要な法的枠組みを構築する、国家当局の能力強化のために必要である。国内法の欠如は、国内で説明責任を果たす努力における主要な障壁の1つだった。2021年5月20日にウクライナ国会で採択された法案は、当局による戦争犯罪と人道に対する犯罪の国内における訴追に役立つ可能性がある。しかし、ウクライナ大統領は法律に署名しておらず、その法律の現状に関する最新情報はない。
方法論
HRW は4月4日に初めてブチャに赴いたのだが、この地域への立入にあたり安全対策上ウクライナ政府が義務づけた組織的なメディアツアーを使っての旅だった。旅行の際に一行は、児童用キャンプ場連れて行かれ、警察が守る建物の地下で横たわっている5人の遺体を見た。HRW は、ヤバルンスカ通り周辺にある複数の事件現場を、監視なしで訪問できた。
4月5日から10日にかけて、HRW はブチャで妨害を受けずに単独で活動し、現場を訪れ、目撃者・被害者・地元当局者に聞取り調査を行った。その間とその後にHRW は、目撃者や被害者から直接提供されたり、オンラインに投稿された写真・ビデオ、衛星画像も分析した。
聞取り調査は通訳の協力を得てウクライナ語で行われ、聞取り調査に応じた人々の多くは、安全上の懸念から匿名やファーストネームのみの使用を要求した。聞取り調査に応じた人々には、いかなる金銭的な利益や報酬は提供されていない。
ロシア軍がまだブチャ地域を占領していた3月7日頃から、ブチャとその周辺で起きた事件について、HRW は電話インタビューや同地域から辛うじて脱出した人びとへの対面インタビューを通じて調査を開始していた。