間とは、得体のしれないものである。
ロックの流行をリアルタイムに聞いて育ったロック人間には、
とても理解できるものではなかった。
間が悪い 間延びしている
などと何度ダメ出されたことか。
いろんな本に眼を通したが、どこにも
間 とは
と説明している物に出会わなかった。
師匠やその兄弟は、お腹にいるときから義太夫に親しみ育っているから
理屈抜きに身に付いているように思えた。
古典を担っている人たちは、皆そうなのだろう。
だから、言葉で説明できないのだろう。
私たちの人形には、チョイと呼ばれる糸が付いている。
竹田人形座や他の人形では、チョーイと書かれている。
息遣いに使う糸で、のど木を前後に倒す仕掛けなのだが、
頭糸という眉間に付いている糸と合わせて
顎を突き出したり引っ込めたりすることができ、
それが息遣いになる。
パレスチナを回っている時、この「息遣い」を
アラビア語に訳そうとして、どうやっても出来なかった。
呼吸というだけでは言い表せない言葉。
ところが日本語を母国語にしている人たちは、
それを言葉で説明できなくても感覚的に通じてしまう。
人と会話しているとき、無意識に相手の息遣いに合わせていたり
息をつめたりしている。
例えば私が人形の解説をしているとき、
良い「間」で頷いている人を見かける。
それが息遣いなのだ。
肺の容量を10とすると
私の場合日常会話は、3~4ぐらいしか使っていないかもしれない。
それを5や6ぐらいまで吸って言う台詞
1ぐらいまで吐いて言う台詞
全然違う台詞になることは想像できるだろう。
その吸ったり吐いたりする速度を変えると
これもまた全然違った台詞になってくる。
この吸ったり吐いたりする時間が、「間」になるのだ。
即ち「息遣い」が「間」を作るのだ。
相手の台詞をどう聞いてどう受け止めるか、
その受けとめたことをどう切り返していくか、
そこに「間」が作られていく。
実はその相手の台詞を「聴く」、自分の台詞を「聴く」ことの
できない人が多い。
テレビドラマを見ていると、台詞を言い終えたときに
無駄に「はぁ」と息を漏らす人がいる。
これは無理な芝居をしているときに出てくる現象と
先輩に言われたことがある。
実は私自身、そういう時期があった。
「間」の帳尻を合わせるように息を漏らしているようだ。
はっきり言って、聞きづらい。
古典の人間は、子どもの時に師匠(多くは親)から
対面で台詞を付けられるので、自然と自分の台詞を聞くことを覚える。
私の場合、マクベスに出てくる老シーワード将軍の台詞を
師匠に付けられた。
ただ「あの森は。」というひとこと。
違う、違うと言われ続けて2時間
お陰で自分の台詞を聞くこと、役の声を作ることなど
今の自分を作る基礎を教えてもらった。
有難いことと、感謝しかない。
随分長い文章になってしまった。
これって、間延び?