結城座の「十一夜」を見た。
私は師匠(元十一代結城孫三郎)からは
「良い人形遣いになれよ」と言われ
故竹田扇之助さんからは
「良い人形を創れよ」と言われ、
その意味を模索し続けながら今までやってきた。
その視点から感想を述べたい。
まず人形のカシラだが、統一性がなく、
人形遣いがそれぞれ作ったのかと思ったほどだった。
人形の目が効かない、
確かに人形遣いの腕の問題でもあるかもしれないが、
この作家がそれなりに有名な人とは後でネットで知ったことで
その人の創りだすキャラクターに沿ったカシラと、
そうとは思えないカシラがあり、
そのキャラクターに沿ったカシラが、
こう言っては失礼かもしれないが、素人の作品に思えてしまった。
私は随分古いカシラを見てきた。
三人遣いのようなどこに行っても同じようなカシラとは違い、
それぞれ特徴があるのだが、うなってしまうほどの良いカシラが
結構あるのだ。
そう言った歴史に太刀打ちできないとしてもぶつかっていくような
カシラを作りたいと挑戦し続けてきているが、
この作品では残念ながら安易に創っているとしか思えなかった。
あごがぶらぶらしているカシラがあった。
どういう意味か一生懸命芝居を見たが、分からなかった。
途中であごの直ったカシラに変わったが、
どうして直ったのかもわからなかった。
台詞が聞きづらかったからかもしれないが。
衣裳も分からなかった。
洋装と和装、時代をどこに設定しているのかと悩みながら見ていたが、
東日本大震災の津波を思わせる展開があると、
何故こういう衣裳の組み合わせになるのか
ますますわからなくなってしまった。
しかも一体だけ、腕がやたらと長いのがあったが、
若手のほとんどが、腕を生かさずだらりとぶら下げているだけだから
その長さが気になってしまった。
人間と同じような洋装にすると、
腕を下げただけではそれが無機質になってしまい、
私は違和感を覚えてしまう。
左は肘糸を少し張り気味にするとか、右は軽く持って遣うとか
何か工夫をすべきなのだが、
多分人形の指導がないのだろう、と思えてしまう。
私は修業時代船遊さんに
「上條もやっと声が出るようになったが、芝居の声はまだできていない」
と言われたことがある。
若手の声ができていないのは仕様がないかもしれないが、
男が女の人形を遣い、女が男の人形を遣うのは良いとしても、
複数人がわあわあ喋りだすと、
誰が何をしゃべっているのか丸っきり分からなくなってしまった。
役柄を作る
下手でも良いから一生懸命役を作らなければならないのに、
それがないから役の違いが全く伝わってこなかった。
私は松本歌舞伎に結構関わっているが、
勘三郎が亡くなった後の芝居で
七之助と松也だったか、初めは二人で芝居をしているのだが、
間延びしてなかなか緊張感もテンポも出ないなと思っているとき
勘九郎が出てきたらガラリと空気が変わって
芝居がぎゅっと締まりテンポが出て、芝居がぐっと良くなった。
勘九郎は良い役者になった、と感心したことがあった。
今回のこの芝居、なかなか船遊さんが出てこなくて
芝居が冗長になっていたので、
船遊さんが出てきたらどれだけ空気が変わるのだろうと期待していたら、
変わらない。
若手に溶け込んで、存在感がない。
私が修業しているとき、ある演出家から
「人形は自由である。だから自由に遣ってはいけない」
と言われたことがある。
宙に浮く、跳びはねる、足蹴にするなどなど
だからそういう動きをするときは、一生懸命考えなければならない。
この芝居、最初から最後まで一本調子で緩急がなく、
誰が演出しているのだろうと見たら
私の大好きな鄭義信だったので、がっかりしてしまった。
さいたま大道芸に、最近になって糸あやつりを知り、
昨年結城座を二本見たという人が声を掛けてきた。
「あなたはどこで覚えたのですか」と尋ねられたので
「結城座です」と答えると、しばし戸惑った顔をしてから
私に対し、「見事ですね」と言われた。
私と同じ「江戸糸あやつり人形」を名乗るなら、
もっと一生懸命に「人形とは、人形遣いとは」ということを
考えて欲しいと思う。
人を潰すことに時間を割くより、ずっと必要なことと思われる。