鈴木一敏の「実践」広報論

広報マン歴40年の筆者が、ミズノ広報室での経験などを具体的に紹介します。現役広報マンの参考になれば幸いです。

43 広報マンの再就職 

2005-12-30 09:44:13 | Weblog
<甘かった私の読み>
 今回が「プレイバック広報」の最終です。皆さんにお伝えできるネタが尽きました。最終回は私が再就職に苦戦した事例です。

私は早期退職優遇制度を利用して55歳でミズノを退職しました。再就職先はすぐに見つかると考えてのことでした。当時からベンチャー企業やIT企業の元気がよく、歴史の浅い会社はどことも広報機能は脆弱だろうから広報経験者を求めているに違いない、というのが私の読みでした。

ミズノは早期退職者全員を再就職支援会社に登録し、再就職できるまで面倒を見てくれる手配をしてくれました。退職後は、大阪市内のその会社に毎日のように“通勤”しました。再就職の心構えや面接テクニック、パソコン講習などを受け、担当アドバイザーとの面接で再就職の希望職種、希望年収などについて話をしました。

2ヶ月しても3ヶ月たってもメドが立ちません。私はあくまで「広報」で再就職を希望していました。しかし支援会社が提示してくれるのはほとんどが中小企業で、中小企業に「広報室」はありませんでした。兼務の広報担当を置いているようなところも支援会社の掲示板に張られる求人票には皆無でした。

登録していた間に担当アドバイザーから提示してもらったのは5件前後だったと思います。職種は「広報」ではなく、多くが総務に近いような仕事でした。大阪へ行く時間も交通費もバカにならないので、退職後5ヶ月ほどでこちらから登録を解除しました。

解除する前から、ネットで検索したり新聞の求人欄を必死になってチェックしました。そして退職した年の年末までに8社に履歴書を送りました。いずれも「広報」担当者を募集しているところです。うち学習塾、動物園、調査会社など4社は面接までいきました。しかしいずれも2次面接には進めませんでした。

新聞の求人欄で感じたことが2つあります。ひとつは「広報」募集と書いてあっても、私がやってきた仕事とは相当違うこと。宣伝や販促活動と混同しているどころか、営業そのものを「広報」としている求人が多いのは相当な驚きでした。

ふたつ目は、転職・再就職は35歳までにということ。広報経験者募集はけっこう多いです。しかし多くが35歳という年齢制限がついていました。せいぜい45歳まで。一度、「56歳ですが実務経験はあります。何とか面接を」と書き添えて履歴書を送ったことがありますが、だめでした。

<仕方なく個人事業立ち上げ>
 自力の再就職活動も功を奏せず結局、自分で再就職先をつくるしかありませんでした。失業保険が切れるとほぼ同時期に、パブリシティ代行の個人事業を立ち上げました。仕事の拠点は神戸の自宅です。大阪市内に事務所を持つような自信は全くありませんでした。

営業活動は仕事を始めた当初は結構しました。ミズノ時代に一緒に仕事をしたPR会社の社長にお願いしました。関西に拠点を持っていないPR会社に売り込んだこともあります。8社に手紙を送り4社から反応があり、社長に会いに東京へいきました。1社から数回仕事をもらいました。

再就職ではなく、自分でやるようになったのは、結果として良かったと思います。収入は大幅減で家内には大変迷惑をかけていますが、仕事は楽しく充実の毎日です。何が楽しいかと言うと、ミズノ時代と違って扱うテーマがそれこそ百花繚乱です。ほとんどがPR会社の下請けで広報スタッフの一員という仕事が多いのですが、ひとつひとつが新鮮です。

今までに扱ったのは、例えばこのようなテーマです。
日本料理店オープン、外資系医療事務受託企業の日本進出、スポーツ専門チャンネルの年末年始番組、某国の在大阪名誉領事館開設、国際スポーツ大会プレスルーム運営、産学官連携によるサッカー練習装置開発、ノーベル賞候補者の記者会見、人材派遣会社の新規事業など。提案だけで終わったのですが、給食会社の「食育」への取り組み、ガラス食器会社の自社ブランド化、零細プレス加工会社の下請け脱却という案件もありました。

ほとんどが未知の世界ですから、仕事が回ってきたらまず勉強でした。この勉強もネットでほとんどの資料、情報を調べることができるのであまり労力を要しません。パソコンは本当に重宝しています。

正直言って仕事が少ないので、ひとつの案件に取り組める時間はたっぷりあります。勉強にも、立案にも、リリース作成にも、記者対策にもたっぷり時間をかけられるので、マイペースの毎日です。

42 「広報室長」になれなかった私 

2005-12-30 09:41:52 | Weblog
<私の「広報室長」理想像>
 私はミズノ時代、「広報室長」を目指していました。職制上の広報室長になりたかったわけではありません。「広報室長たるもの、こういうことができなければ」と個人的に定義し、私なりに努力していたのでした。

私が定義した「広報室長」の役割は3つです。
① ミズノについて書いた本を出版できる。
② バッド記事を止めることができる。
③ 経済部長や運動部長にいつでもすぐ会える。

① については、歴代部長時代に「ミズノ活性経営への挑戦」「ミズノのスポーツビジネス」などが出版されています。しかしいずれもミズノから声をかけて実現した出版ではなく、先方から持ち込まれた出版でした。広報室長は出版社や経営評論家に声をかけ出版を実現させるほどの力がなければと考えました。

出版テーマはいろいろありましたた。ひとつは経営理念で、愛好者が存在すれば商売度外視でその用品を扱うという企業姿勢はユニークでした。あるいは、スポーツ用品はベテラン職人の技とハイテクの融合で作られています。野球グラブやバット、ゴルフクラブづくりのベテラン職人の技を本にして残すことも考えました。しかし私の構想だけで終わりました。

私が退職する数年前、水野健次郎会長(当時)の指示でスキー板製造の歴史を残そうということになりました。健次郎氏本人など開発に携わった人から今のうちに話しを聞いておかないと、その歴史が消えてしまうという危機感からでした。

<それなりにした努力>
 現役の開発責任者が中心となり、私や外部のライターも加わって編さんを進め、「ミズノ スキー板開発の歴史」的なタイトルの冊子が完成しました。次にゴルフクラブの開発史に着手しましたが、私が退職するまでには完成しませんでした。

私は社内資料だけにとどめておくのはもったいないと考えました。自費出版した場合や、出版社にお願いし一定の部数を買い取る場合の費用を計算し、部内提案しました。しかし広報予算からはとても捻出不可能でした。

② はひんしゅくを買いそうですが、会社のマイナスイメージになるような報道が出そうになったとき、それをストップさせる力も広報室長には必要ではないかと考えました。ミズノのトップがそのような役割を求めていたわけではありません。広報室長なら少々ダーティな役回りも演じなければならない場面もあるだろうと私は思ったのです。実際にはできるはずもありませんし、そのような事態は一度もなく幸いでした。

③ は、それだけ信用される広報マンになろうと思ったのです。いろいろな勉強会や懇親会に参加し各社の編集幹部と会う機会を多く持ちました。

有効だったのは朝日新聞社が主宰する「火曜会」です。月1回の例会で、昼食のあと、論説委員や部長クラスの人の講演を聞きました。確か会員制で企業の広報部長級が参加していました。質疑応答の時間があり、閉会後は名刺交換もしました。年1回、局長以下の編集幹部も参加するパーティがありました。このような会は他紙でもやっていると思います。

企業が主催するパーティにも出ました。報道関係者を対象にした資生堂の忘年パーティには毎年参加しました。抽選会の景品をミズノから提供していましたので案内をもらっていました。とても盛大で、記者OBの参加も多いパーティでした。読売新聞の記者出身のある取締役と親しくさせてもらったのは、このパーティで久しぶりにお会いしたのがきっかけでした。

部長人事は大体の社が「人事」欄で発表します。発表しない社の人事も記者や新聞社の広告部から情報を得ることができます。経済部長や運動部長の異動があると必ず挨拶に行っていました。

逆に、ミズノ側の担当役員や広報宣伝部長の異動のときも編集幹部と親しくなるチャンスでした。半年ほど前、共同通信近くの喫茶店で偶然、サントリーの旧知の広報部長にお会いしました。その人はCSR担当の部長に就任し、新任の広報部長同行で共同通信へ挨拶に伺ったとのことでした。ミズノも同じことをしていました。

以上、「広報室長」になるための私なりの努力を書きました。結局、自分で理想像を描いていた「広報室長」にも、職制の広報室長にもなることはありませんでした。 

41 記者と仲良くなる法 集団編

2005-12-30 09:35:11 | Weblog
<日経さんとの野球決戦>
 第9回の稿で「記者と親しくなる法、私の場合」を書きました。記事を書いてくれたら即反応しよう、など個々の記者と親しくなるために私がミズノ時代に実行したことを紹介しました。

記者個々と仲良くするだけでなく、記者がいる社(部局)全体の人たちと懇親する機会もつくりました。まとめて親しくなれるわけですから、言葉は悪いですが効率的です。

あるいは記者は一人だけれども、企業広報側がまとまって懇親する機会もつくりました。これも悪い表現をすれば、単価が安くてすみます。そこで今回は、集団で仲良くなろうという提案です。

10年以上前のことですが、スポーツ業界を担当する日経のK記者は大のスポーツファンでした。ある日の取材後の雑談で、日経社内に野球部があることを知りました。ミズノも当然ながら野球は盛んで広報宣伝部でも外部の制作会社などと毎週のように対戦していました。

日経×ミズノの野球が実現しました。K記者が社で「ミズノと対戦することになった」と参加者を募ると「エッ あのミズノと!?」と悲鳴に似た声があがったそうです。負けるに違いない試合は誰もしたがりません。

しかし、ベテラン記者のYさんが監督を引き受け、Kさんがピッチャーということで、日経サイドのチームがまとまりました。ミズノ側は広報だけでは足りず宣伝部の野球自慢も参加してチームを編成しました。

開催は土曜日、場所は大阪市内のナイター設備もある野球場です。安く使わせてもらい、借り代は日経・ミズノ両方の参加者で割りました。

前半はミズノチームが大量リード。やっぱり歯が立たないかと日経側があきらめかけたとき、ミズノの2番手ピッチャーが突然の大乱調。フォアボールを連発し、エラーも重なってたちまち日経が逆転です。結果、恥ずかしながら、スポーツのミズノ広報宣伝部チームの敗北でした。

野球を楽しんだあとは近くのレストランで飲み会です。記者もミズノも全員で割り勘。勝利監督のYさんの提案で、そのようにさせてもらいました。

その後もう一度、対戦の機会をつくってリベンジを期したのですが、あいにくの雨で、代わりにボウリングを楽しみました。

このようなイベントを通じて、日経さんとの関わりはずいぶん深いものになりました。野球チームは経済部だけではなく写真部や社会部などの混成でしたので、日頃関わりない記者さんとも近づきになりました。

監督のYさんはその後、支局長、東京本社の編集委員を歴任されていますが、今でも交流は続いています。勝利投手のK記者はその後、いくつかの支局を経て大阪へ戻り、大阪で結婚、いまは関東のある支局の支局長です。

<記者の自宅で大盛り上がり>
 関西アパレル広報会のことは以前にも書きました。時々、記者を招いて話を聞きました。勉強会のあと懇親会がありその席に記者を招待しました。飲食が記者への講師代です。見方を変えれば、会のメンバー全員で一人の記者を接待することになり、費用対効果大です。

大阪で単身赴任していた全国紙のT記者は、甲子園球場のすぐ近くにマンションを借りるほどの阪神ファンです。ミズノにアパレル広報会の幹事役が回ってきたとき、私はT記者を講師に招いての例会を企画しました。ひとつ返事でOKです。

その上、「うちへ皆さんでおいでよ」。T記者には野球のほかもうひとつ趣味があり、「手作り料理で皆さんをもてなすよ」とまで言ってくれました。T記者はあちらこちらの支局を回って単身赴任を10年以上続けているのでした。自分の手料理が自慢なのです。

例会の日、参加者は分担した材料を調達してT記者宅へ伺いました。皆で手伝って何種類もの料理ができあがりました。ビールやワイン、焼酎、日本酒も持ち込んで、わいわいがやがやの大宴会です。こうなると記者も広報もありません。言いたい放題でした。

記者の自宅で大騒ぎなどと言う機会は、広報歴の長い私でもただの1回しかありません。貴重な経験でした。日頃、取材を通じて知っているT記者の別の面も知ることとなり、その日以降の付き合い方がずいぶん変わりました。