<甘かった私の読み>
今回が「プレイバック広報」の最終です。皆さんにお伝えできるネタが尽きました。最終回は私が再就職に苦戦した事例です。
私は早期退職優遇制度を利用して55歳でミズノを退職しました。再就職先はすぐに見つかると考えてのことでした。当時からベンチャー企業やIT企業の元気がよく、歴史の浅い会社はどことも広報機能は脆弱だろうから広報経験者を求めているに違いない、というのが私の読みでした。
ミズノは早期退職者全員を再就職支援会社に登録し、再就職できるまで面倒を見てくれる手配をしてくれました。退職後は、大阪市内のその会社に毎日のように“通勤”しました。再就職の心構えや面接テクニック、パソコン講習などを受け、担当アドバイザーとの面接で再就職の希望職種、希望年収などについて話をしました。
2ヶ月しても3ヶ月たってもメドが立ちません。私はあくまで「広報」で再就職を希望していました。しかし支援会社が提示してくれるのはほとんどが中小企業で、中小企業に「広報室」はありませんでした。兼務の広報担当を置いているようなところも支援会社の掲示板に張られる求人票には皆無でした。
登録していた間に担当アドバイザーから提示してもらったのは5件前後だったと思います。職種は「広報」ではなく、多くが総務に近いような仕事でした。大阪へ行く時間も交通費もバカにならないので、退職後5ヶ月ほどでこちらから登録を解除しました。
解除する前から、ネットで検索したり新聞の求人欄を必死になってチェックしました。そして退職した年の年末までに8社に履歴書を送りました。いずれも「広報」担当者を募集しているところです。うち学習塾、動物園、調査会社など4社は面接までいきました。しかしいずれも2次面接には進めませんでした。
新聞の求人欄で感じたことが2つあります。ひとつは「広報」募集と書いてあっても、私がやってきた仕事とは相当違うこと。宣伝や販促活動と混同しているどころか、営業そのものを「広報」としている求人が多いのは相当な驚きでした。
ふたつ目は、転職・再就職は35歳までにということ。広報経験者募集はけっこう多いです。しかし多くが35歳という年齢制限がついていました。せいぜい45歳まで。一度、「56歳ですが実務経験はあります。何とか面接を」と書き添えて履歴書を送ったことがありますが、だめでした。
<仕方なく個人事業立ち上げ>
自力の再就職活動も功を奏せず結局、自分で再就職先をつくるしかありませんでした。失業保険が切れるとほぼ同時期に、パブリシティ代行の個人事業を立ち上げました。仕事の拠点は神戸の自宅です。大阪市内に事務所を持つような自信は全くありませんでした。
営業活動は仕事を始めた当初は結構しました。ミズノ時代に一緒に仕事をしたPR会社の社長にお願いしました。関西に拠点を持っていないPR会社に売り込んだこともあります。8社に手紙を送り4社から反応があり、社長に会いに東京へいきました。1社から数回仕事をもらいました。
再就職ではなく、自分でやるようになったのは、結果として良かったと思います。収入は大幅減で家内には大変迷惑をかけていますが、仕事は楽しく充実の毎日です。何が楽しいかと言うと、ミズノ時代と違って扱うテーマがそれこそ百花繚乱です。ほとんどがPR会社の下請けで広報スタッフの一員という仕事が多いのですが、ひとつひとつが新鮮です。
今までに扱ったのは、例えばこのようなテーマです。
日本料理店オープン、外資系医療事務受託企業の日本進出、スポーツ専門チャンネルの年末年始番組、某国の在大阪名誉領事館開設、国際スポーツ大会プレスルーム運営、産学官連携によるサッカー練習装置開発、ノーベル賞候補者の記者会見、人材派遣会社の新規事業など。提案だけで終わったのですが、給食会社の「食育」への取り組み、ガラス食器会社の自社ブランド化、零細プレス加工会社の下請け脱却という案件もありました。
ほとんどが未知の世界ですから、仕事が回ってきたらまず勉強でした。この勉強もネットでほとんどの資料、情報を調べることができるのであまり労力を要しません。パソコンは本当に重宝しています。
正直言って仕事が少ないので、ひとつの案件に取り組める時間はたっぷりあります。勉強にも、立案にも、リリース作成にも、記者対策にもたっぷり時間をかけられるので、マイペースの毎日です。
今回が「プレイバック広報」の最終です。皆さんにお伝えできるネタが尽きました。最終回は私が再就職に苦戦した事例です。
私は早期退職優遇制度を利用して55歳でミズノを退職しました。再就職先はすぐに見つかると考えてのことでした。当時からベンチャー企業やIT企業の元気がよく、歴史の浅い会社はどことも広報機能は脆弱だろうから広報経験者を求めているに違いない、というのが私の読みでした。
ミズノは早期退職者全員を再就職支援会社に登録し、再就職できるまで面倒を見てくれる手配をしてくれました。退職後は、大阪市内のその会社に毎日のように“通勤”しました。再就職の心構えや面接テクニック、パソコン講習などを受け、担当アドバイザーとの面接で再就職の希望職種、希望年収などについて話をしました。
2ヶ月しても3ヶ月たってもメドが立ちません。私はあくまで「広報」で再就職を希望していました。しかし支援会社が提示してくれるのはほとんどが中小企業で、中小企業に「広報室」はありませんでした。兼務の広報担当を置いているようなところも支援会社の掲示板に張られる求人票には皆無でした。
登録していた間に担当アドバイザーから提示してもらったのは5件前後だったと思います。職種は「広報」ではなく、多くが総務に近いような仕事でした。大阪へ行く時間も交通費もバカにならないので、退職後5ヶ月ほどでこちらから登録を解除しました。
解除する前から、ネットで検索したり新聞の求人欄を必死になってチェックしました。そして退職した年の年末までに8社に履歴書を送りました。いずれも「広報」担当者を募集しているところです。うち学習塾、動物園、調査会社など4社は面接までいきました。しかしいずれも2次面接には進めませんでした。
新聞の求人欄で感じたことが2つあります。ひとつは「広報」募集と書いてあっても、私がやってきた仕事とは相当違うこと。宣伝や販促活動と混同しているどころか、営業そのものを「広報」としている求人が多いのは相当な驚きでした。
ふたつ目は、転職・再就職は35歳までにということ。広報経験者募集はけっこう多いです。しかし多くが35歳という年齢制限がついていました。せいぜい45歳まで。一度、「56歳ですが実務経験はあります。何とか面接を」と書き添えて履歴書を送ったことがありますが、だめでした。
<仕方なく個人事業立ち上げ>
自力の再就職活動も功を奏せず結局、自分で再就職先をつくるしかありませんでした。失業保険が切れるとほぼ同時期に、パブリシティ代行の個人事業を立ち上げました。仕事の拠点は神戸の自宅です。大阪市内に事務所を持つような自信は全くありませんでした。
営業活動は仕事を始めた当初は結構しました。ミズノ時代に一緒に仕事をしたPR会社の社長にお願いしました。関西に拠点を持っていないPR会社に売り込んだこともあります。8社に手紙を送り4社から反応があり、社長に会いに東京へいきました。1社から数回仕事をもらいました。
再就職ではなく、自分でやるようになったのは、結果として良かったと思います。収入は大幅減で家内には大変迷惑をかけていますが、仕事は楽しく充実の毎日です。何が楽しいかと言うと、ミズノ時代と違って扱うテーマがそれこそ百花繚乱です。ほとんどがPR会社の下請けで広報スタッフの一員という仕事が多いのですが、ひとつひとつが新鮮です。
今までに扱ったのは、例えばこのようなテーマです。
日本料理店オープン、外資系医療事務受託企業の日本進出、スポーツ専門チャンネルの年末年始番組、某国の在大阪名誉領事館開設、国際スポーツ大会プレスルーム運営、産学官連携によるサッカー練習装置開発、ノーベル賞候補者の記者会見、人材派遣会社の新規事業など。提案だけで終わったのですが、給食会社の「食育」への取り組み、ガラス食器会社の自社ブランド化、零細プレス加工会社の下請け脱却という案件もありました。
ほとんどが未知の世界ですから、仕事が回ってきたらまず勉強でした。この勉強もネットでほとんどの資料、情報を調べることができるのであまり労力を要しません。パソコンは本当に重宝しています。
正直言って仕事が少ないので、ひとつの案件に取り組める時間はたっぷりあります。勉強にも、立案にも、リリース作成にも、記者対策にもたっぷり時間をかけられるので、マイペースの毎日です。