()内は
・難読漢字等に対し、筆者が読みを付した部分です。
・難解熟語等には”注”として、末尾に注釈を付けてあります。
正確を期してはいますが、これらは筆者独自に付加したものですので、正誤の責は筆者に帰します。
今回の御指導は現状の日本を如何にすべきか、立正安国論を元に御指導ですが我々レベルでは「読んだよ!知っているよ!」と思っていても、その本意までしっかりと踏まえていないんではないかな?とも思います。
この機会に、大聖人様が命を掛けて顕された立正安国論、もう一度学んで、しっかりと折伏に励んでみましょう。
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平成24年3月度 広布唱題会の砌 (於 総本山客殿)
本日は、三月度の広布唱題会に当たりまして、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
本年も既に三月に入りましたが、ちょうど今から一年前、昨年三月十一日、東日本大震災が発生し、予想をはるかに超えた大津波によって東北地方は壊滅的打撃を受け、多くの方々が家を失い、家族を失い、悲惨な目に遭われましたが、これらの方々に心からお見舞い申し上げるとともに、今、振り返ってこうした惨状を見るとき、私どもは改めて「立正安国論」の御正意を拝し、我々が何をなすべきかを考えていかなければなりません。
大聖人様は「立正安国論」(注1)に、
「倩微管を傾け聊経文を披きたるに、
世皆正に背き人悉く悪に帰す。
故に善神国を捨てゝ相去り、
聖人所を辞して還らず。
是を以て魔来たり鬼来たり、
災起こり難起こる。
言はずんばあるべからず。
恐れずんばあるべからず」(御書P234)
と仰せであります。
すなわち、天変地夭等の災難興起の原因は、ひとえに「世皆正に背き人悉く悪に帰す」ことにあり、正邪をわきまえない邪義邪宗の謗法こそ、災難の根源であります。
されば、同じく「立正安国論」には、
「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと
欲せば、速やかに情慮を廻らし怱いで
対治を加へよ」(御書P248)
と仰せられ、さらに、
「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の
謗法を断つべし」(御書P247)
と仰せられています。
すなわち、天変地夭等の災難を防止するためには、根本的な原因を抜き取って、弊害を大本からなくすことが肝要であり、そのための具体的な実践方途こそ、破邪顕正の折伏なのであります。特に、末法の衆生は本未有善(注2)にして、本已有善(注2)の衆生と異なり、摂受ではなく折伏をもってすることが肝要なのであります。
故に「唱法華題目抄」には、
「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。
故に悪道に堕せん事疑ひ無し。
同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の
縁と成すべきか。
然れば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる
事諍ひ無き者をや」(御書P231)
と仰せであります。
すなわち末法今時では、順縁の衆生はもとより、たとえ逆縁の衆生であっても、三大秘法の南無妙法蓮華経を聞かせることによって正法と縁を結ばせ、将来必ず済度することができるからであります。
したがって「顕謗法抄」には、
「されば逆縁順縁のために、先づ法華経を
説くべしと仏ゆるし給へり」(御書P283)
と仰せられているのであります。
今、宗門は平成二十七年・三十三年の目標達成へ向けて、各支部ともに僧俗一致の戦いを展開しております。なかには、既に本年度の折伏誓願を早々に達成したところもあります。
宗門が平成ニ十七年・三十三年を迎えるに当たり、また併せて今日の混沌とした世情を見るとき、我々は一歩も退くことなく、すべての人々の幸せと安穏なる国土世間の実現へ向けて、今こそ折伏を行じていかなければならないと痛感いたします。
大聖人様は「神国王御書」に、
「我が面を見る事は明鏡によるべし。
国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず
(中略)
仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に
付きて国もほろび、人の寿も短かかるべしと
みヘて候」(御書P1301)
と仰せであります。
また「瑞相御書」には、
「夫十方は依報なり、衆生は正報なり。
依報は影のごとし、正報は体のごとし。
身なくば影なし、正報なくば依報なし。
又正報をば依報をもて此をつくる」
(御書P918)
と依正不二(注3)の原理を明かされています。
さらに、
「衆生の五根やぶれんとせば、四方中央
をどろうべし。
されば国土やぶれんとするしるしには、
まづ山くづれ、草木かれ、江河つくる
しるしあり。
人の眼耳等驚そうすれば天変あり。
人の心をうごかせば地動す」(御書P919)
と仰せられ、さらに、
「人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらはし、
地に帝釈の動あり。
人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭
出来す。
瞋恚の大小に随ひて天変の大小あり。
地夭も又かくのごとし」(御書P920)
と仰せであります。
まさしく、正報たる我ら衆生の身心の動きが、依報たる国土世間に大きく影響を及ぼし、国土の盛衰を決定しているのであります。
されば、我々はこの依正不二の原理に照らし、仏国土実現のため、本因下種の妙法を一人でも多くの人々に下種し、折伏を行じていくことの大事を知らなければなりません。
どうぞ皆様には、なお一層の精進をもって、本年度は一人ひとりが固い決意を持って折伏を行じ、誓願達成へ向けて「実行前進」くださることを心からお祈り申し上げ、本日の挨拶といたします。
----------------------------------------------------------------
注1:
(ルビ文)
倩(つらつら)微管(びかん)を傾け
聊(いささか)経文を披(ひら)きたるに
世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す
故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず
是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり
災(さい)起こり難(なん)起こる
言(い)はずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず
注2:本未有善(ほんみうぜん)と本已有善(ほんいうぜん)
大白法・平成8年3月16日号より
衆生の機根には、「本已有善」「本未有善」の二種がある。
○本已有善とは?
「本已(もとすで)に善有り」と読む通り、すでに善根を有する機根をいう。
○本未有善とは?
「本未(もといま)だ善有らず」で、いまだ善根を有さない機根をいう。
「善」とは、久遠元初本因下種の妙法という根本の仏乗種を意味するので、両者は文底本因妙の聞法下種を受けているか否かによって立て分けられる。
すなわち、久遠元初において名字凡夫の本仏釈尊は、文底本因妙の妙法をもって一切衆生に下種されたが、この時衆生に順縁と逆縁があらわれた。
このうち、下種の教法を信受した順縁不退の衆生は、凡夫即極の即身成仏の本懐を遂げたが、他方、下種の妙法に背いた逆縁の衆生や一旦順縁となっても退転した衆生などは、妙法誹謗の悪業により無量劫という永い間、悪道に堕ちて様々な苦しみを受けることになったのであるが、一度植えられた妙法の仏乗種は、必ず生命の奥底に宿るので、この順逆二縁の下種の宿善が本となり、彼らは本已有善の機根として、やがて熟脱の仏法により化導を受け正像二千年までの間にことごとく得脱し終わった。
ここで日寛上人は、「依義判文抄」に
「末法の衆生は皆是れ本未有善にして最初下種の直機なり」(同)
としめされているが、これは「我々末法の衆生は、本仏釈尊による文底本因下種の妙法を植えられていない(塾脱仏法で得脱しえなかった)本未有善の機根である」ことを御教示されており、必然として我々は本已有善の人々を導く熟脱の教法を行じても何の利益もないことを示しておられる。
すなわち「久遠元初と同様に、名字凡夫の本仏によって、本因下種の妙法が植えられなければ」即身成仏の本懐を得ることはできないのであるが、その我々を救わんがために御本仏日蓮大聖人が末法に御出現あそばされ、末法の本未有善の一切衆生に妙法下種の折伏を行ぜられた所以がある。
注3:依正不二(えしょうふに)
大白法・平成7年8月16日号より抜粋
依報(えほう)と正報(しょうぼう)が一体不二の関係にあることをいう。
○正報とは
過去の業の報いとして受けた心身をいう。
○依報とは
正報の拠り所である環境・国土をいう。
○不二とは
二にして一体である、仏の不可思議な悟りをいう。
仏の依正不二は、仏の一念に具わる無始の一念三千を顕発(けんぱつ)して得た極果(ごっか)であり、そしてまた、凡夫初心の行者の己心にも、本より三千世間が具するゆえ、依正不二の徳が具わることを説いている。
すなわち、依正不二とは、爾前で説かれた一切の依正のことごとくを円仏寂光の依正に相即・帰入して、本来、依正の隔てのないことを明かしたものであり、依正三千世間が行者の己心に具わることを明かした法門をいう。
日蓮大聖人が「諸法実相抄」に、
「十界の依正の当体、悉く一法ものこさず
妙法蓮華経のすがた(相)なり
(乃至)妙法蓮華経こそ本仏にては
御坐(おわ)し候へ」(御書P664)
と仰せのように、末法の衆生は、十界の依正の当体を悉く具えられた寿量文底下種・人法一箇の御本尊を受持して、はじめて仏果を成ずることができる。
そして、「当体義抄」に、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、
南無妙法蓮華経と唱ふる人は、
煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、
法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の
三徳と転じて、三観(さんがん)三諦(さんたい)
即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土
なり。
能居(のうご)・所居(しょご)、身土(しんど)・
色心、倶体(くたい)倶用(くゆう)の無作三身、
本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(御書 P694)
と仰せのように、正直な心で題目を唱えることによって、凡夫の当体は直ちに妙法の当体と顕われ、その人の住する所は常寂光の仏国土と開かれる。
・難読漢字等に対し、筆者が読みを付した部分です。
・難解熟語等には”注”として、末尾に注釈を付けてあります。
正確を期してはいますが、これらは筆者独自に付加したものですので、正誤の責は筆者に帰します。
今回の御指導は現状の日本を如何にすべきか、立正安国論を元に御指導ですが我々レベルでは「読んだよ!知っているよ!」と思っていても、その本意までしっかりと踏まえていないんではないかな?とも思います。
この機会に、大聖人様が命を掛けて顕された立正安国論、もう一度学んで、しっかりと折伏に励んでみましょう。
----------------------------------------------------------------
平成24年3月度 広布唱題会の砌 (於 総本山客殿)
本日は、三月度の広布唱題会に当たりまして、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
本年も既に三月に入りましたが、ちょうど今から一年前、昨年三月十一日、東日本大震災が発生し、予想をはるかに超えた大津波によって東北地方は壊滅的打撃を受け、多くの方々が家を失い、家族を失い、悲惨な目に遭われましたが、これらの方々に心からお見舞い申し上げるとともに、今、振り返ってこうした惨状を見るとき、私どもは改めて「立正安国論」の御正意を拝し、我々が何をなすべきかを考えていかなければなりません。
大聖人様は「立正安国論」(注1)に、
「倩微管を傾け聊経文を披きたるに、
世皆正に背き人悉く悪に帰す。
故に善神国を捨てゝ相去り、
聖人所を辞して還らず。
是を以て魔来たり鬼来たり、
災起こり難起こる。
言はずんばあるべからず。
恐れずんばあるべからず」(御書P234)
と仰せであります。
すなわち、天変地夭等の災難興起の原因は、ひとえに「世皆正に背き人悉く悪に帰す」ことにあり、正邪をわきまえない邪義邪宗の謗法こそ、災難の根源であります。
されば、同じく「立正安国論」には、
「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと
欲せば、速やかに情慮を廻らし怱いで
対治を加へよ」(御書P248)
と仰せられ、さらに、
「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の
謗法を断つべし」(御書P247)
と仰せられています。
すなわち、天変地夭等の災難を防止するためには、根本的な原因を抜き取って、弊害を大本からなくすことが肝要であり、そのための具体的な実践方途こそ、破邪顕正の折伏なのであります。特に、末法の衆生は本未有善(注2)にして、本已有善(注2)の衆生と異なり、摂受ではなく折伏をもってすることが肝要なのであります。
故に「唱法華題目抄」には、
「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。
故に悪道に堕せん事疑ひ無し。
同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の
縁と成すべきか。
然れば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる
事諍ひ無き者をや」(御書P231)
と仰せであります。
すなわち末法今時では、順縁の衆生はもとより、たとえ逆縁の衆生であっても、三大秘法の南無妙法蓮華経を聞かせることによって正法と縁を結ばせ、将来必ず済度することができるからであります。
したがって「顕謗法抄」には、
「されば逆縁順縁のために、先づ法華経を
説くべしと仏ゆるし給へり」(御書P283)
と仰せられているのであります。
今、宗門は平成二十七年・三十三年の目標達成へ向けて、各支部ともに僧俗一致の戦いを展開しております。なかには、既に本年度の折伏誓願を早々に達成したところもあります。
宗門が平成ニ十七年・三十三年を迎えるに当たり、また併せて今日の混沌とした世情を見るとき、我々は一歩も退くことなく、すべての人々の幸せと安穏なる国土世間の実現へ向けて、今こそ折伏を行じていかなければならないと痛感いたします。
大聖人様は「神国王御書」に、
「我が面を見る事は明鏡によるべし。
国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず
(中略)
仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に
付きて国もほろび、人の寿も短かかるべしと
みヘて候」(御書P1301)
と仰せであります。
また「瑞相御書」には、
「夫十方は依報なり、衆生は正報なり。
依報は影のごとし、正報は体のごとし。
身なくば影なし、正報なくば依報なし。
又正報をば依報をもて此をつくる」
(御書P918)
と依正不二(注3)の原理を明かされています。
さらに、
「衆生の五根やぶれんとせば、四方中央
をどろうべし。
されば国土やぶれんとするしるしには、
まづ山くづれ、草木かれ、江河つくる
しるしあり。
人の眼耳等驚そうすれば天変あり。
人の心をうごかせば地動す」(御書P919)
と仰せられ、さらに、
「人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらはし、
地に帝釈の動あり。
人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭
出来す。
瞋恚の大小に随ひて天変の大小あり。
地夭も又かくのごとし」(御書P920)
と仰せであります。
まさしく、正報たる我ら衆生の身心の動きが、依報たる国土世間に大きく影響を及ぼし、国土の盛衰を決定しているのであります。
されば、我々はこの依正不二の原理に照らし、仏国土実現のため、本因下種の妙法を一人でも多くの人々に下種し、折伏を行じていくことの大事を知らなければなりません。
どうぞ皆様には、なお一層の精進をもって、本年度は一人ひとりが固い決意を持って折伏を行じ、誓願達成へ向けて「実行前進」くださることを心からお祈り申し上げ、本日の挨拶といたします。
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注1:
(ルビ文)
倩(つらつら)微管(びかん)を傾け
聊(いささか)経文を披(ひら)きたるに
世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す
故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず
是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり
災(さい)起こり難(なん)起こる
言(い)はずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず
注2:本未有善(ほんみうぜん)と本已有善(ほんいうぜん)
大白法・平成8年3月16日号より
衆生の機根には、「本已有善」「本未有善」の二種がある。
○本已有善とは?
「本已(もとすで)に善有り」と読む通り、すでに善根を有する機根をいう。
○本未有善とは?
「本未(もといま)だ善有らず」で、いまだ善根を有さない機根をいう。
「善」とは、久遠元初本因下種の妙法という根本の仏乗種を意味するので、両者は文底本因妙の聞法下種を受けているか否かによって立て分けられる。
すなわち、久遠元初において名字凡夫の本仏釈尊は、文底本因妙の妙法をもって一切衆生に下種されたが、この時衆生に順縁と逆縁があらわれた。
このうち、下種の教法を信受した順縁不退の衆生は、凡夫即極の即身成仏の本懐を遂げたが、他方、下種の妙法に背いた逆縁の衆生や一旦順縁となっても退転した衆生などは、妙法誹謗の悪業により無量劫という永い間、悪道に堕ちて様々な苦しみを受けることになったのであるが、一度植えられた妙法の仏乗種は、必ず生命の奥底に宿るので、この順逆二縁の下種の宿善が本となり、彼らは本已有善の機根として、やがて熟脱の仏法により化導を受け正像二千年までの間にことごとく得脱し終わった。
ここで日寛上人は、「依義判文抄」に
「末法の衆生は皆是れ本未有善にして最初下種の直機なり」(同)
としめされているが、これは「我々末法の衆生は、本仏釈尊による文底本因下種の妙法を植えられていない(塾脱仏法で得脱しえなかった)本未有善の機根である」ことを御教示されており、必然として我々は本已有善の人々を導く熟脱の教法を行じても何の利益もないことを示しておられる。
すなわち「久遠元初と同様に、名字凡夫の本仏によって、本因下種の妙法が植えられなければ」即身成仏の本懐を得ることはできないのであるが、その我々を救わんがために御本仏日蓮大聖人が末法に御出現あそばされ、末法の本未有善の一切衆生に妙法下種の折伏を行ぜられた所以がある。
注3:依正不二(えしょうふに)
大白法・平成7年8月16日号より抜粋
依報(えほう)と正報(しょうぼう)が一体不二の関係にあることをいう。
○正報とは
過去の業の報いとして受けた心身をいう。
○依報とは
正報の拠り所である環境・国土をいう。
○不二とは
二にして一体である、仏の不可思議な悟りをいう。
仏の依正不二は、仏の一念に具わる無始の一念三千を顕発(けんぱつ)して得た極果(ごっか)であり、そしてまた、凡夫初心の行者の己心にも、本より三千世間が具するゆえ、依正不二の徳が具わることを説いている。
すなわち、依正不二とは、爾前で説かれた一切の依正のことごとくを円仏寂光の依正に相即・帰入して、本来、依正の隔てのないことを明かしたものであり、依正三千世間が行者の己心に具わることを明かした法門をいう。
日蓮大聖人が「諸法実相抄」に、
「十界の依正の当体、悉く一法ものこさず
妙法蓮華経のすがた(相)なり
(乃至)妙法蓮華経こそ本仏にては
御坐(おわ)し候へ」(御書P664)
と仰せのように、末法の衆生は、十界の依正の当体を悉く具えられた寿量文底下種・人法一箇の御本尊を受持して、はじめて仏果を成ずることができる。
そして、「当体義抄」に、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、
南無妙法蓮華経と唱ふる人は、
煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、
法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の
三徳と転じて、三観(さんがん)三諦(さんたい)
即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土
なり。
能居(のうご)・所居(しょご)、身土(しんど)・
色心、倶体(くたい)倶用(くゆう)の無作三身、
本門寿量の当体蓮華の仏とは、
日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(御書 P694)
と仰せのように、正直な心で題目を唱えることによって、凡夫の当体は直ちに妙法の当体と顕われ、その人の住する所は常寂光の仏国土と開かれる。