教学資料室

自学自習用リファレンスの意味も兼ねたブログであり、内容の誤り等一切の責任は筆者に帰します。

3月度 日如猊下御指南1

2012年03月27日 14時06分10秒 | 猊下御指南
()内は
 ・難読漢字等に対し、筆者が読みを付した部分です。
 ・難解熟語等には”注”として、末尾に注釈を付けてあります。

正確を期してはいますが、これらは筆者独自に付加したものですので、正誤の責は筆者に帰します。

今回の御指導は現状の日本を如何にすべきか、立正安国論を元に御指導ですが我々レベルでは「読んだよ!知っているよ!」と思っていても、その本意までしっかりと踏まえていないんではないかな?とも思います。
この機会に、大聖人様が命を掛けて顕された立正安国論、もう一度学んで、しっかりと折伏に励んでみましょう。

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平成24年3月度 広布唱題会の砌 (於 総本山客殿)


 本日は、三月度の広布唱題会に当たりまして、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。

 本年も既に三月に入りましたが、ちょうど今から一年前、昨年三月十一日、東日本大震災が発生し、予想をはるかに超えた大津波によって東北地方は壊滅的打撃を受け、多くの方々が家を失い、家族を失い、悲惨な目に遭われましたが、これらの方々に心からお見舞い申し上げるとともに、今、振り返ってこうした惨状を見るとき、私どもは改めて「立正安国論」の御正意を拝し、我々が何をなすべきかを考えていかなければなりません。

 大聖人様は「立正安国論」(注1)に、

「倩微管を傾け聊経文を披きたるに、
世皆正に背き人悉く悪に帰す。
故に善神国を捨てゝ相去り、
聖人所を辞して還らず。
是を以て魔来たり鬼来たり、
災起こり難起こる。
言はずんばあるべからず。
恐れずんばあるべからず」(御書P234)

と仰せであります。


 すなわち、天変地夭等の災難興起の原因は、ひとえに「世皆正に背き人悉く悪に帰す」ことにあり、正邪をわきまえない邪義邪宗の謗法こそ、災難の根源であります。
 
されば、同じく「立正安国論」には、

「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと
欲せば、速やかに情慮を廻らし怱いで
対治を加へよ」(御書P248)

と仰せられ、さらに、

「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の
謗法を断つべし」(御書P247)

と仰せられています。

 すなわち、天変地夭等の災難を防止するためには、根本的な原因を抜き取って、弊害を大本からなくすことが肝要であり、そのための具体的な実践方途こそ、破邪顕正の折伏なのであります。特に、末法の衆生は本未有善(注2)にして、本已有善(注2)の衆生と異なり、摂受ではなく折伏をもってすることが肝要なのであります。

 故に「唱法華題目抄」には、

「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。
故に悪道に堕せん事疑ひ無し。
同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の
縁と成すべきか。
然れば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる
事諍ひ無き者をや」(御書P231)

と仰せであります。

 すなわち末法今時では、順縁の衆生はもとより、たとえ逆縁の衆生であっても、三大秘法の南無妙法蓮華経を聞かせることによって正法と縁を結ばせ、将来必ず済度することができるからであります。

 したがって「顕謗法抄」には、

「されば逆縁順縁のために、先づ法華経を
説くべしと仏ゆるし給へり」(御書P283)

と仰せられているのであります。


 今、宗門は平成二十七年・三十三年の目標達成へ向けて、各支部ともに僧俗一致の戦いを展開しております。なかには、既に本年度の折伏誓願を早々に達成したところもあります。
 宗門が平成ニ十七年・三十三年を迎えるに当たり、また併せて今日の混沌とした世情を見るとき、我々は一歩も退くことなく、すべての人々の幸せと安穏なる国土世間の実現へ向けて、今こそ折伏を行じていかなければならないと痛感いたします。

 大聖人様は「神国王御書」に、

「我が面を見る事は明鏡によるべし。
国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず
(中略)
仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に
付きて国もほろび、人の寿も短かかるべしと
みヘて候」(御書P1301)

と仰せであります。

 また「瑞相御書」には、

「夫十方は依報なり、衆生は正報なり。
依報は影のごとし、正報は体のごとし。
身なくば影なし、正報なくば依報なし。
又正報をば依報をもて此をつくる」
  (御書P918)

と依正不二(注3)の原理を明かされています。

さらに、

 「衆生の五根やぶれんとせば、四方中央
  をどろうべし。
  されば国土やぶれんとするしるしには、
  まづ山くづれ、草木かれ、江河つくる
  しるしあり。
  人の眼耳等驚そうすれば天変あり。
  人の心をうごかせば地動す」(御書P919)

と仰せられ、さらに、
 
 「人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらはし、
  地に帝釈の動あり。
  人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭
  出来す。
  瞋恚の大小に随ひて天変の大小あり。
  地夭も又かくのごとし」(御書P920)

と仰せであります。

 まさしく、正報たる我ら衆生の身心の動きが、依報たる国土世間に大きく影響を及ぼし、国土の盛衰を決定しているのであります。
 されば、我々はこの依正不二の原理に照らし、仏国土実現のため、本因下種の妙法を一人でも多くの人々に下種し、折伏を行じていくことの大事を知らなければなりません。
 どうぞ皆様には、なお一層の精進をもって、本年度は一人ひとりが固い決意を持って折伏を行じ、誓願達成へ向けて「実行前進」くださることを心からお祈り申し上げ、本日の挨拶といたします。


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注1:
(ルビ文)
 倩(つらつら)微管(びかん)を傾け 
 聊(いささか)経文を披(ひら)きたるに 
 世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す  
 故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず 
 是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり 
 災(さい)起こり難(なん)起こる
 言(い)はずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず


注2:本未有善(ほんみうぜん)と本已有善(ほんいうぜん)
   大白法・平成8年3月16日号より

衆生の機根には、「本已有善」「本未有善」の二種がある。

○本已有善とは?
「本已(もとすで)に善有り」と読む通り、すでに善根を有する機根をいう。
○本未有善とは?
「本未(もといま)だ善有らず」で、いまだ善根を有さない機根をいう。

「善」とは、久遠元初本因下種の妙法という根本の仏乗種を意味するので、両者は文底本因妙の聞法下種を受けているか否かによって立て分けられる。

 すなわち、久遠元初において名字凡夫の本仏釈尊は、文底本因妙の妙法をもって一切衆生に下種されたが、この時衆生に順縁と逆縁があらわれた。

 このうち、下種の教法を信受した順縁不退の衆生は、凡夫即極の即身成仏の本懐を遂げたが、他方、下種の妙法に背いた逆縁の衆生や一旦順縁となっても退転した衆生などは、妙法誹謗の悪業により無量劫という永い間、悪道に堕ちて様々な苦しみを受けることになったのであるが、一度植えられた妙法の仏乗種は、必ず生命の奥底に宿るので、この順逆二縁の下種の宿善が本となり、彼らは本已有善の機根として、やがて熟脱の仏法により化導を受け正像二千年までの間にことごとく得脱し終わった。

ここで日寛上人は、「依義判文抄」に

 「末法の衆生は皆是れ本未有善にして最初下種の直機なり」(同)

としめされているが、これは「我々末法の衆生は、本仏釈尊による文底本因下種の妙法を植えられていない(塾脱仏法で得脱しえなかった)本未有善の機根である」ことを御教示されており、必然として我々は本已有善の人々を導く熟脱の教法を行じても何の利益もないことを示しておられる。

 すなわち「久遠元初と同様に、名字凡夫の本仏によって、本因下種の妙法が植えられなければ」即身成仏の本懐を得ることはできないのであるが、その我々を救わんがために御本仏日蓮大聖人が末法に御出現あそばされ、末法の本未有善の一切衆生に妙法下種の折伏を行ぜられた所以がある。


注3:依正不二(えしょうふに)
   大白法・平成7年8月16日号より抜粋

依報(えほう)と正報(しょうぼう)が一体不二の関係にあることをいう。

○正報とは
過去の業の報いとして受けた心身をいう。
○依報とは
正報の拠り所である環境・国土をいう。
○不二とは
二にして一体である、仏の不可思議な悟りをいう。

 仏の依正不二は、仏の一念に具わる無始の一念三千を顕発(けんぱつ)して得た極果(ごっか)であり、そしてまた、凡夫初心の行者の己心にも、本より三千世間が具するゆえ、依正不二の徳が具わることを説いている。

 すなわち、依正不二とは、爾前で説かれた一切の依正のことごとくを円仏寂光の依正に相即・帰入して、本来、依正の隔てのないことを明かしたものであり、依正三千世間が行者の己心に具わることを明かした法門をいう。

 日蓮大聖人が「諸法実相抄」に、

 「十界の依正の当体、悉く一法ものこさず
  妙法蓮華経のすがた(相)なり
  (乃至)妙法蓮華経こそ本仏にては
  御坐(おわ)し候へ」(御書P664)

と仰せのように、末法の衆生は、十界の依正の当体を悉く具えられた寿量文底下種・人法一箇の御本尊を受持して、はじめて仏果を成ずることができる。

 そして、「当体義抄」に、
 
 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、
  南無妙法蓮華経と唱ふる人は、
  煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、
  法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の
  三徳と転じて、三観(さんがん)三諦(さんたい)
  即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土
  なり。
  能居(のうご)・所居(しょご)、身土(しんど)・
  色心、倶体(くたい)倶用(くゆう)の無作三身、
  本門寿量の当体蓮華の仏とは、
  日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(御書 P694)

と仰せのように、正直な心で題目を唱えることによって、凡夫の当体は直ちに妙法の当体と顕われ、その人の住する所は常寂光の仏国土と開かれる。

日如上人書写御本尊誹謗を破す

2012年03月09日 07時38分11秒 | 妙相寺勉強会自習解説
日如上人書写御本尊誹謗を破す


1.元資料
   日如上人書写御本尊誹謗を破す
   http://toyoda.tv/nichinyosyonin.gohonzon.htm 

2.破折対象
   匿名誹謗者:フェイク


3.誹謗内容
 (1)論証
     ○御法主日如上人猊下が御認(したた)めの御本尊に『誤字』がある。
     ・「南無」の「南」の9画の縦棒が上に突き抜けている。
     ・「奉書写之」の「写」の3画が上に突き抜け、「ワ冠」が
      「ウ冠」になっており、「写」が「字」に見える
     ○書写において誤字を出すとは何たることか
    
 (2)論拠
    a.論拠1
      書写するのは戒壇の御本尊であり、書写に置いて誤字が許される
      物ではない。

    b.論拠2
      戒壇様の南の字は第9画が突きぬけていない。
    c.論拠3
      草書大字典等字典類、及び俗字、略字なども調べたが、日如
      (上人)が書いているような「写」は全く見当たらない 
     
      著名な書道家(B展審査員?)や中堅僧の発言。
      「御本尊のこんな首題は見たことがない」


4.破折
 (1)論拠1に対して
   a.結論
     ・「戒壇の御本尊を書写し奉る」という意味が間違っている。
     ○歴代の御法主上人が唯授一人の相伝の御法門によって本門戒壇の
      大御本尊の御内証を拝し、御本尊を御認めになるのが『書写』
     ○文字を単に写し取ることは「模写」
     ○邪難は模写を書写と取り違えている。
     ○書写の定義がこの通りなのであるから、筆勢によって文字が突き
      抜けるというのは「誤字」でも何でもない。
     ○日蓮大聖人御筆の御本尊においても同様の形が拝される。
     ◎重要なのは「御内証を写し奉ること」であり、そこに置いては
      文字がどうであるかは重要ではない。

   b.証明
    ○日達上人は以下の通り「御本尊書写とは、いわゆる写経のようにただ
     本門戒壇の大御本尊の御文字(相貌)を書き写す、ということではない」
     旨を示されている。

      相承を受けて、御本尊をお認(したた)めするのは、けっして面には
      「書写」と書いてあるけれども、(※経文をそのまま書き写す、と
      いうような)書写の行ではなくして、御本尊造立なのである。

     ただただ、その姿を、戒壇の大御本尊にちなんでお書きし奉るから
     「書写」と書くだけ。
                (『日達上人全集』第2輯第1巻545頁)


    ○67世日顕上人は「本門戒壇の大御本尊の内証を拝して御認めになる
     ことが、御本尊書写である」旨、明かされている。

      根本は申すまでもなく、本門戒壇の大御本尊でこざいます。
      その御本尊の内証を拝して御書写申し上げました御本尊が本日ここ
      に入仏いたしました。
           (第67世日顕上人 S56.4.18 教光寺落慶入仏法要の砌)


    ○さらには56世日応上人『本門戒壇本尊縁由』にて御教示。

      当宗に於て授与する処の御本尊は、一切衆生に下し置れたる此の
      御本尊(※本門戒壇の大御本尊)の御内証を、代々の貫首職、一器
      の水を一器に写すが如く直授相伝の旨を以て之を写し奉り、授与
      せしむる
             (日應上人全集』第1巻9頁)


(2)論拠2に対して
   a.結論
     ・突きぬけている事例は大聖人様直筆に置いても確認できる。
     ・出典は「立正安国会発行御本尊集」
   b.証明
     元資料中の「樋田氏加筆部分」を参照のこと。
     10幅の御直筆御本尊様について画像が提示されている。

(3)論拠3に対して
   a.結論
     ・『草露貫珠 草書大字典』の「寫(=写の旧字体)」の項および
      普及版『書体字典』の「写」の項に、線が冠の上から突き抜けた
      書体が掲載されている。
     ・一般誌に掲載された書家の文字も同じ。
   b.証明
     元資料中の写真①②③


5.まとめ
   ◎論拠が否定されるので邪難は正当でないと結論づけられる。


6.呵責 
  
   ○本邪難者は、驕慢謗法の輩の悪口と結論づけられる。
    
     「日蓮の蓮字に点を一つ打ち給う事は、天目が点が一つ過ぎ候なりと
      申しつる間、亦一点を打ち給いて後の玉いけるは、予が法門に墨子
      (ふすべ)を一つ申し出だす可き者なり」
                            (聖典380頁)


   すなわち、大聖人御筆の御本尊を拝した弟子の天目が、「蓮の字の点が
   一つ余分です」と批判めいた発言をしたところ、大聖人はこれを退
   (しりぞ)けられさらに点をもう一つ加えられた、と仰せである。

   御文字を認めるのは凡身(凡夫即極の凡身)に握った御筆であっても、
   御筆をもって顕わされた御本尊は絶対無二の仏の御当体であって、これ
   に対し、たとえ弟子であっても、衆生が差し出口をすることを大聖人は
   断じてお許しになっておられない。

   実際、この天目は後に迹門不読の邪義を構えて異流義の徒となっている。

   されば、その批判が「点が一つ過ぎ候なり」であっても、「棒が突き抜け
   ている」であっても、いずれも大聖人の御意に適(かな)わぬ驕慢謗法たる
   ことは明らかである。

   しかして、日蓮大聖人が謗法の輩の過去世を明かして、

     「法然(ほうねん)が一類、大日(だいにち)が一類、念仏宗・禅宗と
      号して法華経に捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の四字を副(そ)へて
      制止を加へて権経の弥陀(みだ)称名(しょうみょう)計(ばか)りを
      取り立て、教外別伝(きょうげべつでん)と号して法華経を月を
      さす指、只文字をかぞ(数)ふるなんど笑ふ者は、六師が末流の
      仏教の中に出来せるなるべし」
                           (御書581頁)


   と仰せられている理に照らすならば、驕慢から異流義化した天目の末流
   の者共が今日、池田創価学会の中に出来して、またも御本尊の御文字に
   口を差し挟んでいるのではないか?と思われるのである。
   まさに過去世からの謗法のなせる業というべきであろう。

2月度 日如猊下御指南

2012年03月07日 13時25分24秒 | 猊下御指南
()内は
 ・難読漢字等に対し、当用漢字への修正や読みの付加をした部分です。
 ・難解熟語には”注”として末尾に注約を付けてあります。
 ・正確を期してはいますが、これらは筆者独自に付加したものであり、正誤の責は筆者に帰します。



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平成24年2月度 広布唱題会の砌 (於 総本山客殿)


皆さん、おはようございます。

本日は、二月度の広布唱題会にあたり、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。 
昨年、宗門は僧俗一致・異体同心の団結と、身軽法重・死身弘法の大活躍によって、全国五百八十四支部中、99パーセントにあたる五百七十八支部が折伏誓願を達成し、今までにない大きな成果を挙げることができました。

 残念ながら、全支部達成とはいきませんでしたが、しかし、全国の達成数を合計すると誓願数を上回っており、大勝利であったと思います。

 これもひとえに、各支部の方々が僧俗一致・異体同心の団結と、誓願達成の強い思いを込めて、最後の最後まで全力を出しきって戦ってきた結果であり、心からお喜び申し上げます。まことにおめでとうございました。
 是非、この勝利を起爆剤としてさらに前進を重ね、本年度は必ず全支部が誓願を達成されますようお祈りいたします。


 さて、今月は宗祖日蓮大聖人様の御誕生の月であります。

 御承知のとおり、大聖人様は貞応元(一二二二)年二月十六日、安房国に御誕生あそばされました。
 大聖人様の末法御出現は、既に三千年の昔、釈尊が法華経において予証されており、如来神力品には「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」(法華経P516)と仰せられているのであります。

 この神力品の御文は、末法の初めの五百年に上行菩薩、すなわち内証久遠元初自受用身の御本仏宗祖日蓮大聖人が御出現あそばされ、妙法蓮華経の五字をもって無明煩悩の闇を照らし、末法の一切衆生を救済あそばされることを明かされているのであります。

 その末法御出現の御本仏大聖人様が御所持あそばされるところの妙法とは、久遠の本法たる妙法五字であり、人即法、法即人の妙法蓮華経にして、人に約せば久遠元初自受用報身如来(注1)の再誕、末法御出現の御本仏宗祖日蓮大聖人様であり、法に約せば久遠元初の妙法であります。

この人法一箇の妙法こそが、末法の一切衆生救済の根源の法であります。


 故に大聖人様は「御義口伝」に、

「今日蓮が唱ふる処の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり(中略)妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の人病を治せん事疑ひ無きなり」(御書P1732)

と仰せられているのであります。

 しかるに、世の多くの人達は一生成仏の正しい法を知らず、邪義邪宗の害毒によって正邪に迷い、その結果、謗法を犯し、苦悩にあえいでいるのが現状であります。

 されば「立正安国論」には、

「世皆正に背き人悉く悪に帰す。
故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。
是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。
言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず」(御書P234)

と仰せられ、今日の如き世の中の不幸と混乱と苦悩の原因は、すべて邪義邪宗の謗法の害毒にあることを明かされているのであります。よって、この不幸と混乱と苦悩の根源たる謗法を断たなければ、己れ自身の幸せも、世の中の平和も実現することはできないのであります。

 故に「立正安国論」には、

「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし」(御書P247)

と仰せられているのであります。

 さらに「南条兵衛七郎殿御書」には、

「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、
一念三千の観道(注2)を得たる人なりとも、
法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」(御書P322)

と仰せられ、

「曽谷殿御返事」には、

「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、
水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし」(御書P1040)

と仰せられ、

さらに「妙法比丘尼御返事」には、

「仏法の中には仏いましめて云はく、
法華経のかたきを見て世をはぶかり恐れて申さずば
釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず
無間地獄に堕つべし」(御書P1262)

と仰せであります。

 これらの御文は、いずれも折伏についてたいへん厳しい御教示でありますが、しかし、それだけ私どもの成仏にとって、いかに折伏を行ずることが大事であるかを示されたもので、私どもはこの御金言をしっかりと受け止め、御金言のままに折伏を行じていくことが肝要であります。(注3)

 「如説修行抄」には、

「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして
山林に閉ぢ篭りて摂受の修行をせんは、
豈法華経修行の時を失ふべき物怪(もっけ。注4)
にあらずや。
されば末法今の時、法華経の折伏の修行をば誰か
経文の如く行じ給へる。
誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、
法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、
諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(御書P673)

と仰せであります。

「誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(注5)との御金言を、私どもはよくよく心腑に染むべきであります。

 今、宗門は真の僧俗一致・異体同心の団結をもって、来たるべき平成ニ十七年・三十三年へ向けて前進しております。

 この時にあたり、一人ひとりが本年「実行前進の年」にふさわしく、一歩一歩、力強く折伏を実行し、折伏をもって来たるべきニ十七年・三十三年の目標へ向かって前進していただきたいと思います。

 広宣流布の戦いには、後退はもちろん、とどまることも、躊躇も無用であります。ただ「実行前進」あるのみであります。

 そのためには、まず唱題が大事であります。何年も連続して折伏誓願を達成している支部は、皆、講中挙げて唱題を行い、その唱題の功徳と歓喜をもって一丸となって折伏を行じ、大きな成果を挙げております。

 唱題と折伏との関係は、まさしく不即不離(注6)の関係にあります。 どうぞ、皆様にはこれからも唱題に励み、折伏を行じ、必ず本年度の誓願を達成されますよう心から念じ、本日の挨拶といたします。



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注1:久遠元初自受用報身如来

久遠(くおん)には、時間の長短を元にした3つの定義と、状態(物事の意味)を元にした一つの定義がある。

時間においては法華経迹門(しゃくもん)・本門・文底それぞれにおいて異なる。

一つは迹門の定義。
「化城喩品(けじょうゆほん)第七」では三千塵点劫をいう。
三千塵点劫の久遠に大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)が法華経を説き、その滅後に十六人の王子たちが法華経を説き(大通覆講(だいつうふっこう))、その結果として衆生と結縁したと定義される。

二つは本門の定義。
「如来寿量品第十六」では五百塵点劫(五百千万億那由他阿僧祇)をいう。
意味としては「五百億塵点劫」であり、迹門に期された三千塵点劫を遥かに超越した長遠の過去という定義。

三つには大聖人様が法華経文底の法門から明かされた定義。
これは本門文上の久遠五百(億)塵点劫を遙かにさかのぼった当初を指すもので、大聖人様は
 「釈迦如来五百(億)塵点劫の当初(そのかみ)
  凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空
  なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」
  (総勘文抄 P1419)
と仰せられており、この「五百塵点劫の当初」こそ久遠元初のこと。

この3つに対するのが、時間軸を離れた「物事の状態(意味)」に従った定義。

御義口伝巻下に「久遠とははたらかさず、つくろわず、もとの儘と云う義なり」とあるように、時間的長遠を超越した、生命の究極の真理に回帰した”状態”、すなわち、生命に本来そなわる無作常住の仏性を覚知した姿を久遠元初とする定義。

衆生の生命は、過去・現在の行為、外界からの影響によってさまざまな業をまとっているが、その業の奥には生命本来の清浄な本体がある。この本来の生命の姿を久遠元初といい、また南無妙法蓮華経といい(御義口伝 P759)本指導ではこの意で用いられているかと思われる。


自受用報身如来とは。

仏という場合
(1)法界の一切の真理としての法身(ほっしん)如来
(2)その真理を照らす智慧身たる報身(ほうしん)如来、
(3)大慈悲によって一切衆生を救済する応身如来

の三つの側面があるが、三身の中でも、特に悟りの智慧を中心として、そこに法身・応身の二身を兼ね備えた仏を報身如来といい、この報身仏が自ら悟られたそのままの境界を「自受用」という。

すなわち、久遠元初と合わせて「久遠元初自受用報身如来」と号する時は、我々も含めたこの世界(次元)が発生したその瞬間から存在する「絶対的な究極の仏」を意味する。

蛇足であるが。
無神論者と、特に科学(物理)を持ちだして否定する者には、この文書を物理学が証明しつつあることが論拠になるか。


注2:
一念三千の観心の道のこと。

分けて考えれば本門の題目であるが、師弟子の血脈が通っていない題目は空虚であり魔にも通じかねないことから、本義としては三宝に帰依している状態の事を顕すか。


注3:1月度の日如上人様御指導も参照。

1月度は「曽谷殿御返事」を引かれ
 「涅槃経に云はく『若し善比丘あって法を壊る者を見て、
置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、
是の人は仏法の中の怨なり。
若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、
真の声聞なり』云云。此の文の中に見壊法者の見と、
置不呵責の置とを、能く能く心腑に染むべきなり。
法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに
無間地獄は疑ひなかるべし。南岳大師の云はく
『諸の悪人と倶に地獄に堕ちん』云云」(御書P1039 注3)

と、折伏にうってでることの大切さと、懈怠することの危うさを御指導であり、ゆえに、日如上人様は冒頭において「身軽法重・死身弘法」の言を出されているとも解釈できる。


注4:物怪(もっけ)
化け物の事。
以下は御法主日如上人猊下御講義集「平成18年度第4回法華講夏期講習会」より。

[如説修行抄]
  然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、
  冬種子を下して益を求むる者にあらずや。鶏の暁に
  鳴くは用なり、よいに鳴くは物怪なり。権実雑乱の
  時、法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ籠りて摂
  受の修行をせんは、豈法華経修行の時を失ふべき物
  怪にあらずや。されば末法今の時、法華経の折伏の
  修行をば誰か経文の如く行じ給へる。誰人にても坐
  せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の
  法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法
  共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵来たらん事は疑
  ひ無し(御書673㌻1行目)

(中略)

 「権実雑乱(ぞうらん)の時、法華経の御敵を責めずして山林
  に閉(と)ぢ籠(こも)りて摂受の修行をせんは、豈(あに)法華経修行
  の時を失ふべき物怪にあらずや」。

 これは厳しい御指南ですね。末法の折伏の時に、折伏を忘れて何か取り澄(す)ましたような信心をしている者は、それは化け物であるとおっしゃっているのです。皆さん方も化け物などと言われないような信心をしなければだめですね。

 やはり、末法という時代をよく考えて精進すべきなのです。
 先ほどの日寛上人の御指南にもあった通り、教・機・時・国・教法流布の前後の上からも、末法の時は折伏をしなければ功徳がないわけです。折伏をしなければ、 自らの過去遠々劫(おんのんごう)以来の罪障を消滅していけないのです。

 折伏をしなければ、他の人を教うこともできず、慈悲行、報恩行を果たすことができないのです。本当の仏道修行をすることができなくなってしまうということてあります。

 「されば末法今(いま)の時、法華経の折伏の修行をば
  誰か経文の如く行じ給(たま)へる。誰人にても坐(おわ)せ、
  諸経は無得道堕(だ)地獄の根源、法華経独(ひと)り成仏の
  法なりと音(こえ)も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の
  人法共(とも)に折伏して御覧ぜよ」。


と仰せであります。

 つまり、末法においては「大聖人様の仏法以外に幸せになる道はありませんよ」、
「あなたのなさっている間違っている教えでは、本当の幸せ掴(つか)めませんよ」と言わなければだめなのです。

 この御文をよくよく拝したならば、私たちは直ちに立ち上がって、一人ひとりが折伏を行じていかなければだめなんです。 折伏をしなければ本当の信心をしたことにはならないとおっしゃっているのです。

 自行だけの信心てはなく、自行化他にわたる信心をしていくことが大聖人様の仏法であり、それが法華経の精神であるということです。

 つまり、折伏というのは大聖人様の御命(ぎょめい)であると、このようにおっしゃっているわけてあります。

(後略)


注5:
(通釈)
法華経以外の一切の諸経には唯一人の得脱者もなく、かえって無間地獄へ堕ちる根源であり、法華経独り真の成仏の教法であると声も惜しまず呼号して諸宗の人々並びにその法門を、「念仏は無間地獄の業」「禅は天魔の所為」「真言は亡国の悪法」「律は国賊の妄説」であると折伏をしてごらんなさい。

(解説)
 一切衆生の成仏、一切の女人の即身成仏、二乗の成仏を始め十界の衆生の成仏は法華経にのみ解き明かされており、諸宗の如何なる教義、法門に於いて唯一人にも許されていない。
よって、諸宗、諸経に執われている人は全て無間地獄行きを覚悟しなければならない。
同時に私達日蓮正宗の僧俗も自行の勤行唱題を重ねると共に、折伏の大願を起こし諸宗は無得道という事を確信を持って破折し、諸宗の誤りを正して正法の功徳に浴させ、人々を幸福に導き、謗法の人々を救って行く事を怠っては、師檀ともに堕地獄となる。


注6:不即不離(ふそくふり)

○本来の意味として。
この世に存在する事象で、見た目としては二つであるが、その本義として二つを分別することは出来ないということ。
例えば紙の裏と表。
観測すれば「表と裏」という二つの側面を持つが、存在としては”表裏で分割”出来るわけも無く、同一の(一つの)存在である物質(状態)を顕す言葉で、「而二不二(ふにふに)」とも、「不一不異(ふいつふい)」とも。

本指導ではこちらの意味で使われていると解すべき。

○現代熟語の意味として。
二つのものの関係が深すぎもせず、離れすぎもしないこと。
つかず離れず、ちょうどよい関係にあること。

1月度 日如猊下御指南 その2

2012年03月07日 13時23分56秒 | 猊下御指南
()内は
 ・難読漢字等に対し、当用漢字への修正や読みの付加をした部分です。
 ・難解熟語には”注”として末尾に注約を付けてあります。
 ・正確を期してはいますが、これらは筆者独自に付加したものであり、正誤の責は筆者に帰します。



今回の御指導は総量としては短いですが、それだけに熟読しやすく、ピンポイントで
「今

何をやるべきか、どういう心構えで踏み出すべきか」がより鮮明に理解出来ます。

特に

○身軽法重・死身弘法の心構えで
○今この時に実行前進すべき(折伏を推し進める)

という点は繰り返し御引用・御指導で、ひいては創価学会が唱えるところの「仏法は
民衆が
主役」としていることが如何に間違っているか、法理の面から明らかにしておられま
す。



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新年之辞 (平成24年1月 大日蓮・第七九一号)
 
 立宗七百六十年の新春を迎え、御隠尊日顕上人猊下には御機嫌麗(うるわ)しく新年
をお迎えの御事と存じ上げます。
 また、宗内僧俗御一同には、清々(すがすが)しく新春を迎えられ、慶賀の至りに存
じます。
 本年「実行前進の年」は、平成二十七年・平成三十三年の目標達成へ向けて、三年
目に当たる誠に大事な年であります。

 昨年、宗門は僧俗の固い団結と師子奮迅の活躍により、八七.一六%、五百九の支
部が折伏誓願を達威し、就(なかん)中(ずく)、北海道第二布教区・北海道第三布教
区・山形布教区・宮城布教区・茨城布教区・甲信布教区・静岡北布教区・三重布教
区・京都布教区・南近畿布教区・兵庫布教区・山口布教区・香川布教区・福岡西布教
区・熊本布教区・南九州布教区では、管内全支部が折伏誓願を達成し(十二月十五日
現在)、完全勝利を収めることができました。
 これも偏(ひとえ)に、布教区内僧俗一人ひとりが、強盛な一念をもって折伏に取り
組んで来た結果であり、弛(たゆ)まぬ努力の賜(たまもの)でありますが、同時に、宗
務院布教部の指導のもと、適時行われた折伏推進指導会、並びに全国的には折伏推進
委員の昼夜を別(わか)たぬ献身的、精力的な指導激励によるものであり、布教部をは
じめ折伏推進委員各位の為宗為法の御奉公に感謝の意を表するものであります。

 さて、本年「実行前進の年」は、文字通り全支部が足並みを揃えて前進し、折伏誓
願を必ず達成すべき大事な年であります。
 前進とは、目標に向かって精魂込めて、ひたすら進むことであります。
 当然、それには行く手を阻む様々な障魔が惹起(じゃっき)しますが、身軽法重・死
身弘法(注1)の信心に徹し、目的達成に向かって勇敢に努め励むことが肝要でありま
す。

日蓮大聖人は『教行証御書』に、

「日蓮が弟子等は臆病(おくびょう)にては叶(かな)ふべからず。
彼々の経々と法華経と勝劣・浅深・成仏不成仏を判ぜん時
爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず。何(いか)に況(いわ)んや
其の以下の等覚の菩薩(注2)をや。
まして権宗(ごんしゅう、注3)の者どもをや」(御書 P1109)

と仰せであります。
 一閻浮提第一の大御本尊に対する絶対的確信と勇気をもって、邪義邪宗の謗法を打
ち破り、折伏逆化(しゃくぶくぎゃっけ)の戦いに参加し前進していくところ、必ず御
本尊の御照覧を給わり、願いは達成成就されるのであります。 則(すなわ)ちこの確
信こそ、誓願達成の要諦と言えるのであります。 宗内僧俗各位には猶(なお)一層の
御精進をもって、来たるべき平成二十七年・三十三年の目標を達成すべく、先ず本年
「実行前進の年」を必ず勝利するよう衷心よりお祈りして、新年の挨拶といたしま
す。


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○注1:身軽法重・死身弘法

しんきょうほうじゅう・ししんぐほう。

「身軽法重・死身弘法」の語は、涅槃経疏巻十二の『菩薩品第十六』に説かれる文
で、「身は軽く法は重し、身を死(ころ)して法を弘む」と読みくだす。

 身軽:衆生の身は軽く
 法重:弘むべき法は重い
 死身:身命を賭して
 弘法:仏法を弘める。

という意味である。


「乙御前御消息」には、
 「身軽法重、死身弘法とのべて候へば、身は軽ければ人は打ちはり悪(にく)むと
も、法は重ければ必ず弘まるべし。法華経弘まるならば死かばね(屍)還つて(かえっ
て)重くなるべし。かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし」(御書 
P898)

と説かれており、身軽法重・死身弘法の覚悟で正法を弘通していくことが、自らの懺
悔滅罪の行法であること、その功徳によって軽いはずの凡夫の屍も(法と同じく)重
く尊いものになることを御指南されている。

また「松野殿御返事」に、

 「迹門には『我(われ)身命を愛せず但(ただ)無上道を惜しむ』ととき、本門には
『自ら身命を惜しまず』ととき、涅槃経には『身は軽く法は重し、身を死(ころ)して
法を弘む』と見えたり。本迹両門・涅槃経共に身命を捨てゝ法を弘むべしと見えた
り。此等の禁(いまし)めを背く重罪は目には見えざれども、積もりて地獄に堕つ」
(御書 P1051)

と仰せられているように
①身命を捨てて法を弘めなければならないこと
②この戒めにそむく場合の罪(罰)は「堕地獄である。」こと。

すなわち「やらなければならないこと。やらないことは謗法と同意であること。」を
示されている。


「身軽法重・死身弘法」の具体例は前掲の「松野殿御返事」で

 「雪山童子の古(いにしえ)を思へば、半偈の為に猶(なお)命を捨て給ふ。何に況ん
や此の経の一品・一巻を聴聞せん恩徳をや。何を以てか此を報ぜん。尤(もっと)も後
世(ごせ)を願はんには、彼の雪山童子の如くこそあらまほしくは候へ(中略)我が身
命を捨て仏法を得べき便りあらば、身命を捨てゝ仏法を学すべし」(御書 P1050)

と説かれているということを拝察しても、法華経を理解し、信じ、学び、行じる(そ
の中の重要な柱が折伏)ことが非常に重要であるという事が理解できる。



○注2:等覚の菩薩
    等覚は、52段階ある菩薩の位のうち、上から2番目の位。
    最上位の妙覚は一切の煩悩を断じ尽くした位で、仏・如来と同一視
    され、等覚は、その智徳が妙覚と等しくなったという意味で等覚と
    いう。
    つまり、意としては「仏と同一視される妙覚に比肩しうる等覚で
    あっても、法華経のありがたさとは比べ物にならない。」

    

○注3:権宗
  権とは「仮」の意味で、法華経以外の経典を表わす。

「権実相対」において法華経以前の四十二年の諸経と法華経とを比較し、勝劣が明ら
かになっている。
 
権大乗教の経典とは、五時教判(ごじきょうはん)の中の第一の華厳(けごん)時、第三
の方等(ほうどう)時、第四の般若(はんにゃ)時に説かれた経典をいう。(第二の何含
時は小乗教に分類される。)

華厳時では法を仮りに説き与えて衆生がその法を受け入れることができるかどうかを
試した華厳経が説かれた。

方等時では、様々な権大乗教が説かれ、前の阿含時で説いた小乗の教えに執着してい
る二乗を呵責(かしゃく)し、大乗教を慕(した)わせるように仕向けた。

般若時では、一切は皆空(みなくう)であると明かし、仏の教えは大乗の法のみである
と教え、大乗・小乗を融合させた。

以上のように、権大乗教(および小乗教)は真実の教えである法華経に導き入れるた
めの方便の
教えであり、故に釈尊も

「四十余年には未だ真実を顕さず。」(無量義経)
「正直に方便を捨てて、但無上道(ただむじょうどう)を説く。」(法華経方便品)

等々と述べている。



○注4:折伏逆化

謗法の者に(敢えて)対置して法華経の縁を結ぶこと。

末法は五濁悪世(ごじょくあくせ)の時代であり、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒
強盛(ごうじょう)の衆生が充満する時代であり、このような時代では熟益や脱益の釈
尊の仏法では成仏は出来ず、ただ下種仏法である大聖人の三大秘法の教えのみが衆生
を救える。

つまり、末法の衆生は久遠元初の御本仏の下種の妙法をもって折伏逆化すべきであ
り、その機縁であると知ることが「機を知る」ということにも繋がる。

これの対極にあるのが、学会が唱えるところの「随機(ずいき)説法」。
創価学会は「仏法は民衆が主役」としている。
確かに、信仰を持つのは個々の人(=民衆)であり、現代日本は民主主義であること
を合わせ思えば、この考えは浅見すると正しいように思える。
しかしこれは「教えを説く立場(正しい仏法に帰依する僧俗)と、説かれる立場(機
縁を持たない衆生)を取り違えた考え。」である。

大聖人は「撰時抄」で

「機に随(したが)って法を説くと申すは大(だい)なる僻見(びゃっけん)なり」(御書
 P846)

と仰せであり、ここから「法を信じ守る原動力は民衆であるが、末法の衆生を救う立
場としての僧俗は折伏逆化を忘れてはならないし、これを(意識的であると無意識で
あるとを問わず)忘れることは懈怠に留まらず、法を破る謗法と同義である。」とい
える。

大聖人御在世中も、諸宗が衆生の機根を主とし、法を従として、それぞれ勝手適当に
法を説いていた。
もちろん彼らにも一切衆生救済のために仏法を説いたという一分の想い(言いわけ)
はあろうが、末法という時と、衆生の機縁と、何より「南無妙法蓮華経の大法の存在
を知りながら、三宝を無視して」邪法を説くことは本未有善の衆生を地獄に堕す所業
であったともいえ、現代においては創価学会や顕正会の行為もこれと同義となる。

1月度 日如猊下御指南 その1

2012年03月07日 13時23分05秒 | 猊下御指南
()内は
 ・難読漢字等に対し、当用漢字への修正や読みの付加をした部分です。
 ・難解熟語には”注”として末尾に注約を付けてあります。
 ・正確を期してはいますが、これらは筆者独自に付加したものであり、正誤の責は筆者に帰します。



なお。
今回の御指導の中の池田創価学会を呵責された部分について、教義上からも当然のことではありますが、その御文言(の方向性)が法的側面も考慮されたものであり「短いお言葉で、ややもすれば見過ごしてしまうかもしれないが、教義俗義両面に配慮された(凄みのある)御文言」であると感じましたので、少々長いですが「法的側面からの稚説」も加えてあります。(注3の部分)




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平成24年1月度 広布唱題会の砌(於 総本山客殿)


 皆様、新年あけましておめでとうございます。
 宗旨建立七百六十年の新春を迎え、御隠尊日顕上人猊下には、御機嫌麗しく新年を
お迎えのことと慶賀に存じ上げます。
 また、宗内僧俗の皆様には、すがすがしく「実行前進の年」の新年を迎え、決意も
新たに、いよいよの精進・御奉公をお誓いのことと存じます。
 総本山におきましては本年も恒例により、一月中、本日は元旦でもあり、広布唱題
会にもあたりましたので午前九時から行いましたが、原則的には午前八時より一時間
の唱題行を執り行いますので、各位にはこぞって御参加下さるようお願いいたしま
す。

 昨年、宗門は僧俗一致・異体同心の団結と、身軽法重・死身弘法の活躍により、全
国で五百七十七の支部が折伏誓願を達成いたしました(のちに五百七十八支部と訂
正)。
 これは国内全支部の九八・八〇パーセント、約九九パーセントにあたり、一昨年よ
りも大幅な増加であり、残念ながら全布教区・全支部達成には至りませんでしたが、
しかし全国の達成数を総計すれば誓願数を上回っており大きな勝利であります。
これもひとえに、全国的に法華講の折伏活動が活発化され、大きく変化をしている証
拠であります。

 また特筆すべきことは、東北地方の大多数の支部が、見事、折伏誓願を達成された
ことであります。
 予想をはるかに超え、国内観測史上最大と言われる大津波により壊滅的な打撃を受
け、多くの犠牲者を出し、未曽有の災害をもたらした東日本大震災、また、それに伴
う福島第一原発の放射能汚染問題など、幾多の障害と困難と悲しみを乗り越え、誓願
を達成されたのも、東北地方の方々の粘り強い強盛な信心と、目の当たりに大災害に
遭遇をして、かねて大聖人様が『安国論奥書』において「未来も亦然るべきか」(御
書P420)と仰せあそばされた御金言の御正意を拝し、なお一層の信心を奮い起こし、
災難にくじけることなく、強盛な一念に燃えて折伏に立ち上がった結果によるもの
と、心から敬意を表するものであります。

東北地方の一日も早い復興と、皆様方の御健勝を心から願うものであります。

 一方、海外においては、スペイン、フィリピン、パナマ、台湾、韓国、シンガポー
ル、マレーシア、アメリカニューヨーク、同じくロサンゼルス、香港、カナダバン
クーバー、ガーナ、アルゼンチン等、寺院あるいは布教所のある地域をはじめ、寺
院・布教所がいまだ建立されていないメキシコ、デンマーク、セルビア、タイ、イギ
リス、トーゴ、ペナン、コンゴ、ぺルー、チリ等の多くの国々でも誓願を達成してお
ります。
 総本山から遠く離れた所でも、このように世界各国で大聖人様の御正意を体し、全
世界の平和とすべての人々の幸せを願って真剣に折伏を行じ、活動されていることに
心からの敬意と声援を送るものであります。

 このように、昨年は国内外ともに、折伏の気運が大いに高まり、二十七年・三十三
年へ向けて大きく前進することができました。
 これはひとえに、国内外の法華講の方々が、来たるべき平成二十七年・三十三年の
目標達成が一天四海本因妙広宣流布(注1)にとっていかに重要な通過点であるかを
認識され、あらゆる障魔を乗り越え、勇猛果敢に折伏を行じてきた結果であり、いわ
ば努力と団結の結晶であります。このことは、やがて必ずや二十七年・三十三年なら
びに広宣流布の戦いにとって大きな力となるものと思います。

 どうぞ、皆様にはこれからもなお一層の信心に励まれ、誓願達成・広布達成へ向け
ていよいよの御精進を心から願います。
 なおまた、昨年暮れには全国の法華講の方々から、『立正安国論』正義顕揚七百五
十年の記念事業の遂行に当たり、特別御供養をいただき、まことに有り難うございま
した。いただいた御供養は、御影堂の大改修工事ならびに関連事業に有効に利用させ
ていただきたいと思います。ここに改めて厚く御礼を申し上げるものであります。ま
ことに有り難うございました。

 さて、本年は「実行前進の年」であります。
 実行前進とは、折伏を実行し、折伏をもって遠くは一天四海本因妙広宣流布達成、
近くは来たるべき平成二十七年・三十三年の目標達成へ向かって僧俗一致・異体同心
して前進することであります。

大聖人様は「立正安国論」に、

 「広く衆経を披き(ひらき)たるに専ら謗法を重んず。恋しいかな
  皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。愚かなるかな
  各悪教の綱に懸かりて鎮(とこしなえ)に謗教の網に纏はる。(まつわる)
  此の朦霧(もうむ)の迷ひ彼の盛焔(じょうえん)の底に沈む。
  豈愁へざらんや、豈苦しまざらんや。
  汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。
  然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。
  十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。
  国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。
  此の詞(ことば)此の言(こと)信ずべく崇むべし」
  (御書P250 注2)

と仰せられ、また、

 「早く天下の静謐(せいひつ)を思はゞ須く(ことごとく)国中の謗法を断つべ
し」(御書P247)

と仰せられています。

 今日の如き、人心の乱れとたび重なる国土の災難を防ぎ、真の世界平和と仏国土を
実現するためには、世の中の人々に、邪義邪宗の謗法が国土、人心を破壊する根本原
因であることを教え、誤った信仰を捨てさせ、「実乗の一善」すなわち御本仏日蓮大
聖人の出世の御本懐たる、本門戒壇の大御本尊に帰依することが最善の道であること
を伝えていかなければなりません。その具体的実践の方途が、すなわち折伏でありま
す。

故に「聖愚問答抄」には、

 「邪正肩を並べ大小先を争はん時は、万事を閣(さしおい)いて謗法を責むべし、
是折伏の修行なり」 (御書P402)

と仰せになり、また「曽谷殿御返事」には、

 「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、
  水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし」
 (御書P1040)

と御教示あそばされています。

 世間には、池田創価学会をはじめ様々な邪宗教がはびこっており、その邪義邪宗に
惑わされた人達が大勢おります。このような人達に対して、謗法は不幸の根源である
ことを説き、その謗法を責め、謗法を破折することが、幸せな境界を構築し、平和な
仏国土を実現するためには絶対必要なのであります。

大聖人は「曽谷殿御返事」に、

 「涅槃経に云はく『若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処
せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せ
ば、是我が弟子、真の声聞なり』云云。此の文の中に見壊法者の見と、置不呵責の置
とを、能く能く心腑に染むべきなり。法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀
ともに無間地獄は疑ひなかるべし。南岳大師の云はく『諸の悪人と倶に地獄に堕ち
ん』云云」(御書P1039 注3)

と仰せられています。

 我々本宗僧俗は、この御金言を厳しく受け止め、邪義邪宗こそが人々を不幸にし、
国土世間を危うくする元凶であると断じて、一切の謗法を破折し、折伏をしていくこ
とが、今、最も大切なのであります。

 今、宗門は、来たるべき平成二十七年・三十三年へ向かって、僧俗一致・異体同心
して前進をしております。
 平成二十七年・三十三年の目標を達成するためには、折伏以外にはありません。つ
まり、折伏こそ、確固たる広宣流布の礎を築くための絶対不可欠な要件だからであり
ます。
 このことは皆様も重々御承知のことと存じますが、それが単なる願望であっては、
目標は達成できません。目標を達成するためには、まさしく折伏をもって「実行前
進」することこそ肝要であります。
 その「実行前進」するためには、一人ひとりが、まずしっかりとお題目をあげてい
くことが大事であります。唱題は、三大秘法のなかの本門の題目の実践であります。
この唱題こそが仏道修行の根本であり、誓願達成の源泉であり、成仏のための大事な
行であります。


大聖人様は「三大秘法抄」に、
 
 「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙
法蓮華経なり」(御書P1594)

と仰せになられ、この本門の題目には自行と化他の両義が具わることを御教示あそば
されています。

 申すまでもなく、自行の題目とは唱題行であります。化他の題目とは、すなわち折
伏行であります。唱題と折伏は一体のものであり、唱題こそが折伏のあらゆる活動の
源泉となるのであります。
 折伏に当たって、何ものにも恐れない不動の信念と強い確信に立ち、あらゆる障魔
を打ち払うためには、勤行・唱題をしっかりと行うことが肝要であります。
 折伏は、あふれんばかりの唱題の功徳と歓喜をもって打って出ることが、最も大事
だからであります。

大聖人は「祈祷抄」に、

 「大地はさゝば(指さば)はづるゝ(外るる)とも、虚空をつなぐ者はありとも、
潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ
事はあるべからず」(御書P630)(注4)

と仰せであります。

 御本尊に祈り、広布に生きる使命を感じ、世のため人のため、身軽法重・死身弘法
の信念に燃え、強い確信をもって折伏を行ずる時は必ず相手の心を動かすのでありま
す。
 どうぞ、皆様には本年「実行前進の年」を悔いなく戦いきり、必ずや本年度の折伏
誓願を全支部が達成されますよう心からお願いを申し上げ、本日の挨拶とさせていた
だきます。

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注1:一天四海本因妙広宣流布
【通釈】
  御本仏の大である一天四海にわたる本因妙の仏法の広宣
  流布が成就されるさま

【語句解釈】
 (1)一天四海
    仏教の世界観でいう東弗婆提(とうはつばだい)
    西瞿耶尼(さいくやに)、南閻浮提(なんえんぶだい)
    北鬱単越(ほくうつたんのつ)の四洲を四天下、または
    一天といい、東西南北の四方の大鹹海(だいかんかい)を
    四海という。
    この一天四海で一つの世界全体を表す。
 (2)本因妙
    本果妙に対する語。
    ここでは寿量文底下種の三大秘法をあらわす。
 (3)広宣流布
    仏法を広く宣べ流布すること。
    法華経薬王菩薩本事品第二十三に

注2:
【通訳】
経文を開いてみると謗法の罪が最も重い。
であるのに衆生はみな正法の家を捨てさって邪教謗法の獄に入ってしまう。
まことに愚かであり悲しいことである。

(万人が)ことごとく悪い教えの綱にひかれ、永遠に謗法の網にからまって脱げ出せ
ずにいる。今生では迷いの霧にたちこめられて盲目となり、無量の災難を受け、後生
では地獄の焔の底に沈み無限の苦悩を受ける。
これを心配せずにいられようか?
これを苦しまずにいられようか?

貴方は一刻も早く邪宗を捨てて唯一真実の教えである法華経に帰依せよ。
そうするなら、三回は全て仏国となり、仏国は決して衰えることはなく、十方の世界
はそのまま宝土(浄土)となる。

浄土となった国は決して衰えも壊れもせず破壊されることもないのであるから、わが
身は安全であり心は平和であろう。
この教えと言葉は真実であるから、信じ崇めなさい。


注3:仏法中怨(ぶっぽうちゅうおん)

「仏法の中の怨(あだ)」と読む。
「善比丘」とは、基本的には出家僧を指すが、ここでは僧に限らず正法をたもつ僧俗
全体という意味。
「法を壊る者」とは正法を破壊する謗法者のこと。
「呵責(かしゃく)」とは法を壊る謗法者に対して誤りを指摘し、叱り、責めるこ
と。

「駈遣(くけん)」とは追い払うことで、謗法を改めない者を追い払い、正しく仏法
を護ること。
「挙処(こしょ)」とは悪事をはっきりと挙げて、正しい対処を行うことをいう。

「声聞」とは二乗界の声聞を意味するが、ここでは「仏道の声を以て一切に聞かしむ
人」「仏説を聞く人」の意味であり、当宗僧俗をいう。

大聖人様は仏法中怨を、曽谷殿御返事に限らず立正安国論にも引用されていることか
ら、当宗僧俗(および全ての安寧のためにとって)は重要な行いであることが伺えよ
う。

また後段の「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひな
かるべし。」は「責めないこと(呵責も駈遣も挙処もしないこと)」の結果を顕して
おられることから、呵責・駈遣・挙処については「やるべきことであり、やらないこ
とは謗法と同じ結果に至る。」とも読みとれる。


ちなみに。
現在の日本国の法律では他者の批判は刑法(逮捕権や身体拘束刑が発生する可能性を
持つ。)でも民法(基本として逮捕権も身体拘束刑も発生しない。)でも厳しく制限
される。
また、名誉棄損は伝えた内容が真実であっても成立しうる場合が多い。(信仰と一線
を画した公益性がある場合や、俗世間権力における公人を除き。)
故に、現代法の下では相手が池田大作氏であっても、個人の人格だけを取り出して公
けの場で批判することは「刑法上の」取り扱いを受ける可能性がある。(侮辱罪=親
告罪が成立するか否かがカギとなる。)


しかし。(ここからが非常に重要な点であるが)
これを逆の面から捉え、かつ信仰の自由(憲法第20条)及び表現の自由(憲法第2
1条)を加えてみると、「信仰の内容(≒教義およびその解釈と、それに対する具体
的な行動解釈)」については、多少過激な表現を加えようと、その表現の掛かる部分
が教義解釈を逸脱しないのであれば、その自由は憲法によって保障される。
すなわち「上手く表現すれば刑法上も民法も関係ない次元で守られる。刑法民法を潜
り抜けるという意味ではない。それらを超越した次元で守られるという、ある種怖い
ものなしの状態で行う事が出来る。」といった、非常に心強い状態となる。

身近な例では、御隠尊様への創価学会誹謗に対する最高裁判決を参照のこと。
http://boygirl.freeservers.com/hanketubun2.html

この判決文の第四において最高裁は「宗教教義上の論争の一環として行われ(中略)

行動が教義違背となることを示すものであり、このような紛争に裁判所が介入するこ
とになれば(略)日蓮正宗の教義は何か、阿部日顕の行動が右教義の違背となるか否
かを確定した上、(略) 報道につき、違法性の有
無、程度の問題を含めて名誉毀損等の成否を判断する必要が生じることになり、そう
とすれば、結果として国家が教義問題に立ち入ることとなり、憲法二〇条で保障され
る信教の自由を犯すことになるのみならず、裁判所が本来判断し得ない事柄を判断す
ることになる。」と断定(=確定した判決。以後の解釈の基礎となる。)している。

訳すると「宗教教義上の一環として行われている(範囲を逸脱しない)もの、すなわ
ち『教義違背に対する非難の内容(言辞等)』については、『名誉棄損(≒最悪は刑
法が適用される事例)であっても裁判所は判断しない。』」
「なんとなれば、それを判断するには教義問題へ国家(≒三権の一である司法)が介
入することであり、それは明確な、解りきった事例として争いようの無い憲法違反で
あるから。」と判断している。


どういう事かと言うと....。
(1)特定個人の名を挙げて
(2)「邪宗を信じる故に『○○(具体的な罪業)が』あらわれた。」と
(3)日蓮正宗(信徒)の立場をあきらかにして
(4)公けの場、不特定多数が閲覧できる場で
(5)非難した場合。
には、
 a.(1)において、特定個人を対象とするので非公益にヒットする
   可能性がでる。
 b.(2)において、具体的な事象、例えば病状であるとか、私人が
   守られるべき秘密を承諾なく公表することは危険。
 c.(3)において、信教上制止する立場が存在することが明確化
 d.(4)(5)において、名誉棄損等の基本要件が確定。
となる。

しかし、例えば
(6)特定個人ではなく、”公益”法人たる宗教法人もしくは公益性を持つ公人を相手にして
(7)教義の誤りと、それによる一般的罪業(教義における因果)を
(8)日蓮正宗(信徒)として(教義上の当然の権利として)
主張することには、何らの法的問題も公的機関(司法・行政)による制止権限も発生
しえない。

さらには、制止や牽制を行った側に、基本的権利の侵害の可能性が発生しうる。


具体的には。
「創価学会の流布する偽本尊をあがめること、そのような教義に従った布施をするこ
と、そのような教義を流布する人々をあがめることは間違いであり、無間地獄に落ち
る行為である。例えばそのような人が回りに居ませんか?創価学会の活動を一所懸命
に行っているのに病気になる、経済的に苦境に陥る等々。一所懸命に行って、自ら他
者に「この本尊、この団体の活動を熱心に行えば成仏できる。」と唱えているのに、
自らが重病に陥ったりしている人を見ていませんか? そういう団体をオカシイと思
いませんか? そのような教義を勧める人はあなたを「騙して」いるんです。
(以下、責める言辞)」ということは、憲法という国の最高の法が認めた行為であるのだから、
堂々と何処ででも行え、相手は制止しえない事になる。
(もちろん、道路使用許可等、別の面での法令ヒットには注意が必要。)

故に。
本御指導にも「世間には、池田創価学会をはじめ様々な邪宗教(後略)」とあり、こ
れらが不幸の原因であると喝破されているが、この方向の表現は信仰の上に留まら
ず、法(化義に属するか)の上でも完璧な配慮がなされたお手本になるのではないか
と考える。



注4:
平成19年度 第5回法華講夏期講習会
御法主日如上人猊下御講義より

仏様は主師親の三徳を具えたお方であり、諸天等はその仏様に法華経において成仏を
許され、法華経のために身を惜しまないと誓ったわけですから、諸天善神は法華経の
行者を守護しております。

したがって、法華経の行者の祈りがかなわないはずがないと、このようにおっしゃっ
ているのです。

「大地はさゝばはづるゝとも」
とありますように、大地を指して外れることは絶対にないわけであります。

また
「虚空をつなぐ者はありとも」
というのも、そのようなことは絶対にできないのでありますが、もしそういった者が
あったとしてもということであります。

また
「潮(しお)のみ(満)ちひ(干)ぬ事はありとも」、
というのは、いわゆる干潮と満潮のことですが、もしも潮の満ち引きがなかったとし
ても、
さらには
「日は西より出(い)づるとも」、
と仰せであります。

これらは絶対にありえないことでありますが、よしんば天地がひっくり返って、その
ようなことが万が一にあったとしても、「法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべ
からず」とお示しであります。